56「二つの世界と二つの身体」
彼女に案内されて辿り着いたのは、701号室。七階のちょうど角部屋に当たる病室だ。
病室なので、あまり物はない。ただベッドの横の小棚の上には、備え付けの花瓶の横に、彼女の私物であろうモコのぬいぐるみが添えられている。
この中性的な少女の中に、女の子が感じられる部分だった。
車椅子からベッドに腰かけた彼女は、笑顔で俺に隣を勧める。トントンと、シーツまで叩いて。
部屋には二人きりで、彼女はあまり身体の自由が利かない。それにしてはあまりに無防備なので、ちょっと心配になってきた。
「いいのか?」
「んー?」
「だって、二人きりだぞ」
「キミが望まない子にそういうことをしない人だっていうのは、よく理解しているつもりなのだけど」
「随分信用してくれているんだね」
どうも最初からやけに好感度が高いみたいだな。なぜかはわからないが。
ならば信用に甘えて、素直に隣に腰掛けることにする。当たり前だけど、手を出したりはしない。
ハルもさすがに、俺に一目惚れしたとか言うミティみたいにぐいぐい詰めてくることはしなかった。手を少し伸ばせば触れそうで触れない辺りの、親密ではあるがパーソナルスペースはきちんと保った間隔までで止めていた。
「こっちのユウくんも変わらないね」
にこにこしながら、興味津々に俺の全身を舐めるように見回すハル。視線がくすぐったくて目線を反らそうとしたけれど、追いかけるように顔を覗かれた。
「うん。良い目だ」
「そろそろ話してくれてもいいんじゃないか」
これ以上じろじろ見られるのも恥ずかしいので、流れを変えようと提案すると、ハルも乗ってくれた。
「それもそうだね。さて。どこから話そうか」
彼女は少し俯いて、何を話そうか考えているようだった。そのうち、語り始めた。
「ラナソール。こことは違うもう一つの世界があるのではないかということをはっきりと自覚したのは、ボクが後天性の病で、ほとんど寝たきりになってからだった」
「やっぱりあるんだね。ラナソールは」
「ある、とは思う。でも、ボクにもそうだとは断定的には言えない。何せ、夢を通じて見ているだけだからね」
夢。またその言葉が出てきた。
夢想病の人にとっても、ハルにとっても。ラナソールはあくまで夢で見ている場所なのだ。
ということは。
「ラナソールは、夢の世界なのか?」
「うーん。そこも決めつけるにはまだ早いと思うんだ。キミという存在が、既に反例になっているのではないかな?」
そうなんだよな。単に全ては夢や幻であるというなら話は簡単なんだけど。それにしては、物とかも普通に送れるみたいだし。
全てがリアル過ぎるんだよな。
「そうだね。辻褄が合いそうで合わないというか。さっぱりわからないんだよな」
「うん。ラナクリムと似ているようで違うところとかね」
彼女も同意して、続ける。やはり君もラナクリムには思い当たっていたか。
「ただ、ボクにとって想う彼方にある世界であることは間違いなくて。だからボクは、こう呼んでいる」
一拍間を置いて、彼女は告げた。
「『夢想の世界』ラナソール、と」
夢想の世界。
単なる夢の世界でもなく、ラナクリムのような仮想世界でもなく。
この世界の人たちにとって夢想う彼方にある、現実では辿り着けない世界。
ラナソールという不思議な世界を表すのに、ぴったりな言葉だと思えた。
「なるほど。夢想の世界、か」
「そこでは、ボクではあってボクではない――もう一人のボクというのかな。そんな存在が主体となって動いていて。その人を通じて、ボクは世界を夢見ているんだ。夢だから、全部が全部思った通りに動いてくれるわけではないけれど。強い繋がりは感じているよ」
「リクとランドみたいな関係かな」
そう言えば。今思い返してみると、ランドもリクをそれとなく知覚していた節がある。
いつもではない。あの草原だ。俺がこの世界に来るきっかけになった、クーレントフィラーグラス。あの草原にいたときだけ、確かに彼は変な夢を見たと言っていた。
つまらなそうにしている奴がいるとか何とか。あれはリクのことだったのではないだろうか。
ラナソールの世界の人にとっては、こちらの世界が想う彼方にある。両者は鏡のような関係になっている、ということなのだろうか。
「リクくんって、よくうちにお見舞いに来ている子だよね。ふうんなるほど。そういうご関係だったのか。あの二人は」
ああそっか。つい知ってる体で話しちゃったけど、ハルにとっては全く初耳のことだったよな。
それでもすぐに理解が追いつく辺り、何となく察しは付いていたのかもしれない。
「ただ、リクはランドのことは覚えていないし、ランドもリクのことは覚えていないみたいだけどね」
「それは……仕方ないよ。幻かどうかはともかく、夢には違いないし。自分のような人がそこにいるのであって、自分がそこにいるわけではない。覚えている方がよっぽど珍しいんだよ。きっと」
心細かったのだろうか。それとも、悔しかったのだろうか。彼女は眉をしかめ、きゅっと両の拳を握って、俯いてしまう。儚げな雰囲気が、その場だけ写真で切り取ったように印象的で、俺の視線を捉えて離さない。
「君のようにちゃんと覚えている人は、他にいなかったのか」
「さあ。他にも覚えている人がいるのかもしれないけれど、少なくともボクは見たことがないね」
「でないと、誰に話しても他愛のない空想話とは思われないだろう」と、彼女は寂しそうな微笑みを見せる。
顔を上げて俺を見つめると、今度は一転して、はつらつと笑顔を輝かせた。
「でも、キミが来てくれた」
「そっか。君にとっては初めての『知り合い』ってことになるんだね」
彼女は、青白い頬をほんのり紅く興奮の色に染めて、大きく頷いた。
「本当に嬉しいよ。キミはボクのヒーローさ。待ち望んでいたんだ」
「ヒーローだなんて、大袈裟だな」
だが、まんざらではなかった。
きっと飛び上がりたくなるほど嬉しいのだろう。ボーイッシュなソプラノを弾ませて、彼女は爛々と瞳を輝かせている。
そこまで喜んでくれるなら、俺はヒーローでもいいか、と思った。
「寝たきりのことが多いから、考える時間はあったんだよ」と、すらすらとラナソールについて、見たことや自説を述べ立てていくハル。本当に口がよく動く。真面目に聞き入ってくれるのがとにかく嬉しくて仕方がない。そんな感じだ。
独りぼっちだと思っていたのが、味方がいるとわかったときの救われた気持ちはよくわかる。自分も経験があるから。
こんな状況じゃなければ、俺だって単なる病弱少女の空想話か何かだと思っていたかもしれないしね。
「二つの世界と二つの身体」
ハルは人さし指と中指を立てて、そう言った。
「これがキーワードではないかと、ボクは睨んでいる」
「それは俺も考えていた」
一見全く異なる二つの世界。一見全く異なる二人の人間。
だが両者には、切っても切れない関係がある。密接にリンクしている。
ラナソールとトレヴァークにそれぞれ存在する、繋がりの感じられる二人の人間。
いくら表面上は違っているように見えても、心を偽ることは出来ない。
全く同じではないにせよ、根っこは同じなのではないか。
リクとランド、シルヴィアとあのストーカーの子を見ていると、そう感じるのだ。
【神の器】による観察も、その仮説を支持している。
「元は一つの人間の心が、異なる二つの世界で、異なる二つの身体に、それぞれ別の現れ方をしているんじゃないか。そんな風に思えるんだよね」
「そうとも。キミもボクと同じようなことを考えていたんだね!」
彼女が、興奮気味に手を叩く。
要するにだ。表裏一体。この世界には、この世界に至る前の俺とユイのような関係の人間が、数え切れないほどたくさんいるということだ。
心の根っこは同じで、でも肉体や置かれている環境が違うから、あり方も異なる。別の人間として成立している。
俺とユイの性別が違うから、生まれ育ってきた環境が違うから、似たような性格ではあっても、決して同じ人間とは見なされないように。
二つの世界で、みんなが二つの身体を持っている。
一々変身するたびに仰天されていた能力ではあったけど、ことラナソールとトレヴァークにおいては、何も珍しい事象ではなかった。そういうことではないか。
「みんながみんな、二つの身体を持っている。けれども、決して交わることはない。二つの世界は、断絶されている」
そこでハルは俺を指さして、パチリとウインクした。
「でもキミは特別さ」
「俺が特別、か」
レンクスも同じようなことを言っていたな。
「そう。キミはキミのままで、二つの世界を自由に渡ることが出来る」
「実はまだ、好きに来られるわけじゃないんだけど」
「そうなのかい? でも、時間の問題だと思うよ」
断定的ではないが、曖昧に頷いた。おそらく、向こうからこちらへ来る手段さえ確保出来れば、二つの世界を自在に行き来することも可能となるだろう。
「さて。ユウくん。実は、ボクはただアイデアの共有をしたくてこんな話をしていたわけではないんだ。そろそろ本題に入りたいんだけど、いいかな」
「ああ。いいよ」
何を話すつもりなのだろう。身構える。
ハルは、気さくな調子のまま、お願いをしてきた。
「キミに一つ、依頼をしたいんだ。あっちではそれが流儀だったよね」
何でも屋『アセッド』のことを指しているのだろう。
ということは、この子はうちの店を使ったことがあるのかな。
そう言えば、君も向こうの世界に対応する人がいるはずだよなあ。
誰なんだろう。仮にお客さんだとしても、たくさんいすぎて候補が絞り込めないけど。
「とっても大変だけど。報酬もないかもしれない。でも聞いてくれると、すごく嬉しい、かな?」
彼女は真摯な瞳で、しかしどこか余裕の感じられる表情で、また可愛らしく首を傾げてみせた。
まるで断られるとは思っていない。俺のこと信頼し切っている。そんな調子だ。
そして彼女は、言った。
「この世界を、トレヴァークを救ってくれないかい?」
「…………へえ」
世界を救ってくれとは。また大きな話になってきたな。
ごくりと喉が鳴る。自然と緊張が高まったような気がした。
「夢想病のことは、よく知っているね?」
「原因不明の死病。ここにも患者がたくさんいるな。どうもあの人たち、ラナソールの夢を見ているみたいなんだよね」
「ふうん。もうそこまでわかっているなんて。さすがはユウくん。ボクも、寝言からの推測だったんだけどね」
人さし指で唇をなぞったハルは、一人納得したように頷いて、続ける。
「ここのところ、ますます感染者は増大していて。緩やかに世界は死に向かっている」
「確かにね。このままでは、いずれ破滅は免れないだろう。俺も何とか出来るなら、何とかしたいけど」
「ふふ。良い人なんだね。キミに力になってもらいたいのは、まさにそこなんだよ」
「なんだって?」
夢想病に対して、俺に出来ることがあるのか?
驚く俺に、彼女は優しく口元を緩めた。
「ユウくん。どうしてこの病気は起こってしまうのだと思う?」
「さあね」
わからず、俺は肩をすくめた。
「ボクはね。とある仮説を立てたんだ。あれは、医療で治せるものではない。もし、ボクの考えが正しいとすれば――」
ハルは、俺の両手をひしと取った。
「人の心を繋ぐというキミの力なら。もしかしたら、彼らを救えるかもしれないんだ」
熱のこもった瞳を潤ませて、彼女は俺のことをじっと見上げていた。




