36「ユウ、トレヴァークに降り立つ」
「わあああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーっ!」
真っ暗な闇が突然裂けたと思うと、男が叫んでいるのが目に飛び込んできた。
「ここは……?」
俺はランドシルを助けようとして、あの穴に飲み込まれて……。どうなってるんだ?
頭が上手く働かない。こういうときこそ落ち着かねば。
目の前では、若い男が驚き慄いている。ちょっと頼りなさそうな感じの、優しげな印象を受ける男だ。髪は黒い。
とりあえず声は出る。さっき出た。手と足は――くっついている。おまけにちゃんと動く。
――身体の方は何ともないらしいな。もうダメかと思ったが。
『ユウ!? ユウ!? 私の声が聞こえるの!? 返事をして!』
心配性なユイの声が、『心の世界』を通じてガンガン聞こえてきていた。能力も健在のようだ。
『うん。ちゃんと聞こえるよ。俺、助かったみたいだ』
『ああ……よかった。心配したんだよ。レンクスが多分大丈夫だって言ってたけど、それでも』
なるほど。あいつが浮遊城のときみたいに急いで助けに来なかったのは、こうして何かが起こるという予想が立っていたからか。にしたって、確証はないだろうに。あいつにしてもおそらく賭けだったんだな。
そして賭けは上手くいった……らしいな。
ここは、世界に空いた穴の向こう側というところだろうか。状況は全くの不明だが。ユイと心が通じているという事実は、何より心強い。
とにかく無事であることにほっと一息吐きたいところだったが、すぐそこでは青年が目を真ん丸にしてパニックになりかけていた。
『取り込み中だ。状況が落ち着いたらまたすぐ連絡入れる』
『そうみたいだね。わかった。見守ってるから』
一度心通信を切り。
さて。ここがどこかもわからないし、早まった行動を取られては後がよろしくない。適切に対処しなければ。なるべく警戒心を持たれてはいけない。
俺はどうにか笑顔を作って、挨拶した。コンセプトは通りすがりの無害なお兄さんだ。だいぶ無理があるが。
「あ、どうも。こんにちは。お邪魔してます」
「あ……はい。こ、こんにちは……」
「こんにちは~」
よし。掴みはいいぞ。あっけに取られたまま、出鼻を挫いた。100点中70点くらいはいけた感じだ。このノリで押し切ろう。
「いやあ。あはは。おくつろぎのところ、大変ご迷惑をお掛けしました。では、俺はこの辺りで……」
「あ、あの」
「失礼します。ごゆっくり~」
目に付いた部屋のドアからさりげなく急ぎ足で出ようとしたのだが。
「ちょっと待ってよ!」
ギクッ。身体が固まり付いた。
「突然人の家に出て来て、あなた一体何なんですか!? 警察呼びますよ!」
うん。そうだよね。やっぱりそうなるよね。当然の反応だ。はあ。困ったな。
作戦変更。誠実な対応を心掛ける。
「すみません。俺も突然のことで色々と混乱してて……。悪いことはしませんから、話を聞いてもらえないでしょうか?」
「……わかりました。あんまり悪い人じゃなさそうですし」
ああよかった。こういうとき、甘ったれの子供に見えるのは得するよね。たまには良いことあるじゃないか。
彼はローラー付きの椅子に座っていて、俺にパイプベッドへ腰掛けるよう勧めてくれた。勧められるまま、素直に腰をつける。ベッドが軋む音が嫌にはっきりと耳に残った。
椅子の向こうに見えるデスクに、PCのようなもの、レポート用紙らしきもの、教科書類と思しき物が目に留まる。見たところ、一人暮らしの学生部屋という感じだ。俺も高校生のときは概ねこんな感じだったような気がする。今向き合っているこの人は、高校生というにはやや大人びている感じがするけど。大学生っぽいかなあ。大学というものがあればだけど。
その彼はやや緊張と、それから興味の伝わってくる面持ちで、俺のことをじろじろと眺め倒していた。少し視線に耐えがたくなってきた頃、ようやく口を開いてくれた。
「色々と聞きたいことはありますけど。まずは名前を聞いても良いでしょうか」
「俺はユウ。ユウ・ホシミと言います」
「僕、リクです。コウヨウ リク」
その名乗りを聞いたとき、心に触れるものがあった。
「リクが下の名前なんですか?」
「ええ。珍しくもないと思いますけど」
ほう! 珍しくもない! いや俺にとってみれば姓名の順は珍しくて!
急にこの人に親近感が湧いてきた。
「実は俺もなんですよ! 本当は星海 ユウって言うんですけど、そう名乗っても中々わかってもらえなくて」
「ああ。なるほど。聞くとそうかなって思いましたよ」
「あはは。ごめんなさい。ついはしゃいじゃって」
「いえいえ」
きっかけはどうあれ、そこで多少は打ち解けられたような気がした。彼の警戒心が緩んでいる。口元でわかった。
「それで。ホシミ君は」
「ユウでいいですよ」
「なら僕もリクでいいですよ。それで。ユウ君は、どうやってここに? あれはどんな現象なのかな!?」
妙に興味津々というか、食いつきがよかった。もしかすると呼び止めた理由は不審だったというよりこっちがメインだったのかなと思う。
「どんな現象と言われても……。気が付いたらここにいたというか、何というか」
そうとしか答えようがない。どうしてこうなったのか誰か教えてくれるのなら、俺の方が聞きたいくらいだ。
「本当に?」
「本当ですよ。さっぱりわけがわからなくて」
わかりやすく肩を竦めてみせるが、リクは半信半疑だった。
「坊や。話せることはちゃんと話した方がいいと思うんだ」
「坊や……。これでも一応25なんですよねえ」
苦笑いすると、彼は仰天した。
「うっそだあ! ぜんっぜん見えないですよ!」
だよな。見えないよな。だって肉体は16歳になり立てのままだし。
「僕まだ21ですよ。年上だったんですか……」
「一応そうなるね。でも気にしないでいいですから」
「って、あれ。前にもこんなことあったような……あ、いや。こっちの話です」
「そうですか」
言われてみると、俺もさっきからどうしてか初めて会ったような気がしないんだよな。絶対に初対面のはずなんだけど。
不思議なこともあるものだ。
それから、とりあえず他言無用という約束を取り付けて、話せる範囲でここに至るまでの事情を包み隠さず話した。
俺の直感と心を読む力が、この人は悪い人ではないということを感じさせてくれたからだ。それと、俺がいきなり何もない所から現れたという非現実的な現象が、もしかするとこの人にとっては荒唐無稽に過ぎない話でも信じさせる土壌があったということも大きい。何より、こいつが何でも話さないと帰してくれなさそうなわくわく顔でどんどんがっついてくるのが一番だったわけだが。
「とするとあれですか。ユウさんは、ミッドオールというところで冒険していたら、変な穴に突然吸い込まれてこちらへ来てしまったと」
「そういうことになるかな」
「うわあ! とんだびっくりファンタジーだよ! クレイジーだ!」
まるで子供がはしゃぐかのように両手を叩いて、大喜びするリク。最初こそ半信半疑だったが、もはやあまり疑っていない。昔の騙されやすかった素直な自分を見ているかのようだ。
そうだ。誰かに似てると思ったら。ランドにそっくりなんだ。言葉遣いも性格も一見全然違うけど、本質が似てるんだ。大人になっても子供らしさを失わない純真な心が。
ランドとリク。何という偶然だろうか。名前がぴったり英語と日本語の関係なのは。まあ本当に偶々なんだろうけど。いや、「俺の認識で」英語と日本語ということは、無関係ではないのか?
「まったく信じられないよ! 嘘でもいいや。こういうのを待ってたんだ! ラナ様ありがとう!」
何気ない彼の言葉に、ぴくりと自分の眉が動いたのを感じた。
「ラナ様? ここにはラナがいるのか?」
「えっ?」
何言ってるんだこの人って目で見られた。そんな目で見なくても。
「僕たちの世界の守り神のことですよ。一応ラナ教の信者なんですよ、僕」
「ラナ教か。なるほど。彼女はラナソールの守り神って扱いでもあったわけなんだね」
確認のつもりで返したのだが、彼にはわけのわからない顔をされてしまった。
「はい? ラナソール? 彼女? どこのどなたのことですか?」
「えっ?」
今度はオウム返しのように、俺の方が何言ってるんだこの人って態度になっていた。
「だって。この世界は、ラナソールという名前じゃないのか?」
「いやいや。トレヴァークに決まってるじゃないですか」
「トレヴァーク!?」
あまりにあり得ないことを聞いているのだろう。リクに鼻で笑われてしまった。
続いて、なぜそんなに驚いているのかと、不思議そうな視線を向けられる。
トレヴァークだと!? じゃあ、なんだ。また違う世界だとでも言うのか!?
ユイだけ残して、新しい異世界にもう旅立ってしまったとでも言うのか?
そんなこと。困るぞ。
すると彼は、何やら思い出したように手を叩いた。
「あー。一応ラナクリムって似た名前のゲームならありますけど。まさかそれのことじゃないですよね?」
「ゲームだって!?」
「はい。僕、結構好きなんですよ」
そう言って彼は、壁の一角を指し示す。それは何の変哲もないゲームのポスターである。
そのはずだった。彼もそのつもりで紹介したのだろう。
だが気付けば俺は愕然と立ち上がり、ふらふらと吸い寄せられるように、そのポスターへ向かって歩いていた。
今まで目の前の人物ばかりに気を取られ、そこに注意を払っていなかったので、気付かなかった。
――ああ。何ということだ。
レオン。
あの剣麗レオンの姿が。ポスターにでかでかと描かれているではないか!
「どういう、ことなんだ……? なぜ、君が……?」
寒気がした。
それは世界が割れかけたときとも、世界に穴が空いたときともまた違う。
明確な恐怖ではない。ホラー映画で怪奇現象の原因が最後までわからないような。正体不明の恐ろしさ。
まるで自分のいた場所が。その根底が、足元から崩れていくような。薄ら寒さ。
頭がくらくらした。実際に身体がふらついていたのかもしれない。声も明らかに震えていた。
「レオンは? レオンは、いないのか?」
「創作上のキャラクターですよ。何言ってるんですか」
「魔法は……精霊は……!?」
「魔法、精霊。ぷっ。あはははは!」
リクが笑う。
最高に気味が悪かった。彼が笑っているというその事実が。ただそれだけのことが。たまらなく。
「冗談よして下さいよ。そんなものあるわけないじゃないですか。ファンタジーじゃあるまいし」
心に、その言葉がやけに重く深く沈んでいった。
まるで鉛の塊にでも殴られたかのように、重く。何度も反芻されて。
じゃあ。
俺がさっきまでいた場所は。
ユイ。レンクス。君たちが今いるその場所は。一体何なんだ……?




