30「永遠の姫 ラナ」
シュルーから降りても、俺とユイの心は針で穴を開けられたようにきりきりと痛むままだった。頭の中に彼女のことが張り付いて離れない。
『ラナ。悲しい顔をしてた』
『あの絶望は……』
俺はあれと似たものを何度か感じたことがある。
そう。あの深い哀しみは。絶望は。運命に囚われたフェバルが抱えるそれと極めて近い性質を持ったものだ。
おそらく全ての運命を知りながら、不敵にも世界の破壊者として我が意のままに君臨するウィルとは違う。逃れられない運命を身に持って、ただどうしようもないと打ちひしがれるしかないエーナが見せた哀しみに近いもの。
きっとラナには。彼女には、どうにもならない事情があるのだ。それも、あれほどに深くて。苦しくて。痛い。
伝わってしまったから。わかるような気がしたから。エゴかもしれない。放ってはおけないと思った。俺に出来ることはないのだろうか。ないのだとしても、せめて理解してあげることは出来ないのだろうか。
俺は顔を上げて、レオンを見た。レオンはずっと心配していたのか、こちらを見下ろしていたのと目が合う形になった。
「レオン。今回の護衛の対象……ラナに会って話をすることは出来ないかな」
「……なるほど。それは、君が今も浮かない顔をしていることと大いに関係があるみたいだね」
素直に頷くと、レオンは顎に手を添えて考える仕草をした。
「本来ならば、彼女は触れざる象徴だ。遠くより見て想うものである……けれども」
そうだな。心配するな、と彼は微笑んで胸を叩く。
「ありがたいことに、僕は特別だ。望んで会えないことはないさ。僕についてくるような形にはなるが、君たちを彼女に引き会わせてあげよう。それで構わないかい?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
「お役に立てて何よりだ。ただ、話がしたいというのは……期待しない方が良いだろうね」
「それは、どうして?」
ユイが首を傾げた。レオンは肩で溜息を吐く。
「ラナは……あの人は、喋れないんだよ。口が利けないんだ」
ラナは、喋れない。
その事実がもやもやと引っかかったまま、警護の依頼主であるフェルノートのお偉いさんたちと面会した。レオンは彼らにも信頼されており、また非常に顔が利くようだった。
深刻な考え事をしているときでも、外面ばかりは一応取り繕えるようになっていたらしい。挨拶は滞りなく済ませた。
それから数日の滞在とフェルノート見学の後、一般人へのお披露目の前日に、俺たちはラナに謁見することになった。
「僕もね。彼女に会うのは数えるほどしかないんだ」
レオンが先導してくれつつ、浮遊城の真下まで歩いて向かっていった。かなりの大きさゆえ、町の真上に浮かんでいるように錯覚していたラヴァークは、実際のところ町外れの広場の真上に位置していた。
それもそうかと納得する。年に一度とは言え、完全に城の陰に隠れてしまうところにあまり建物は建てたがらないだろう。
広場は静寂に満ちたところだった。ただ一つ、直径数十メートルはあろうかという魔法陣が石床に青文字で描かれて、それが常にほんのりと光を湛えている。これのおかげで、他には何もないのであるが、殺風景な場所であるという印象は免れて、むしろ神聖な場所であるというような気にさせられていた。
「浮遊城には強固な守りがかけられていて、普通に空を飛んでは行くことが出来ないんだ」
「そうなんだ」
「昔散々試したからよくわかる」
レオンは昔はやんちゃだったのだとでも言いたげに、皮肉のこもった苦笑を浮かべた。
「永遠の姫に招かれるためには、勇者のしるしが必要となる」
「しるし?」
ユイが聞くと、レオンは探すのに苦労したんだと再び苦笑いして答える。
「我が剣フォースレイダーがしるしとなる」
レオンは左手で腰の聖剣をすらりと抜き放ち、魔法陣の中心で高々と天に掲げた。
特に何かを叫んだりしたわけではないが。絵になる光景だ。叙事詩にでも残されそうだ。何だかRPG終盤のイベントでも取り出して見ているかのようである。
上空の城から、ゆっくりと青い光が伸びてくる。きっとそれが招いてくれるのだろうと思い、ユイと一緒にレオンの側へ寄った。
思った通りで、暖かい光が三人を包み込んで、次第に浮かび上がっていった。
しばらくすると、俺たちは城の中にいた。
ここはホールだろうか。開かれた空間の向こうには、左右両側に上へと続く白い階段が見える。床には広場の魔法陣と同じものが描かれていて、どうやらここが地上と天空の城を繋いでいるらしい。
この世界の住人は気が読めないから確証はないが。一見して誰もいるような気配がなかった。まるで時が止まったかのようにしんと静まり返っている。
「この城には、出迎えとかはいないのか」
「ラナ以外の方を見たことはないな」
レオンが目を細めて、肩を竦める。彼は待っても無駄だと思っているのか、さっさと歩き始めてしまった。
本当に誰もいないのか。それは、とても寂しいことではないだろうか。一年の間に一日だけしか民衆に顔を見せないのに、城にも話せる人がいないなんて。あまりに寂しいのではないか。俺ならどうかしてしまいそうだ。
『物悲しい空気が満ちているね……』
『うん。ここだけ別世界のようだ』
レオンが先に立って、俺、ユイと続いて階段を上っていく。
ホールを抜けると、白い丸柱が立ち並ぶ廊下へと出てきた。こちらも左右対称的な形で向こうまで伸びている。
前に通ったことがあるからか、レオンは迷いなく右を選択する。しばらくするとまた階段を見つけて、さらに上へ進んでいく。俺たちはただ黙ってそれについていった。途中、誰とも会うことはなかった。
すると、妙な光景に目を見張った。ティーカップセットが独りでに浮いていて、音も立てずにふわふわと奥へと飛んでいくのである。
「あれは?」
「身の回りのことは、全て魔法がやってくれるらしい。掃除も生活の世話もね。大した魔法の力だ」
レオンは見たことがあるのか、さして驚きもせずに答えた。
なるほど。確かにこれだけ広大な城を何の工夫もなしに一人で仕切るのは無理だろう。
「ということは、あのティーカップの行く先に彼女が?」
「客人の用意ということなんでしょうね」
ティーカップセットを案内人にして、またしばらく歩くと、一つだけ生活感の漂う部屋へとたどり着いた。
温かみのある赤の絨毯。ゆらゆらと暖炉の火が灯っている。小さな丸テーブルには、読みかけの本が置いてある。ここはラナの私室だろうと思った。
ティーカップセットはテーブルで止まらずに、さらにもう少し奥へと進んでいった。そこは――そうだ。シュルーの中から彼女を見かけた場所。バルコニーだった。
バルコニーにも、テーブルの用意があった。ティーカップセットは最後にコト、と小さな音を立ててテーブルに着き、自ら中身を注いで案内人としての役割を終えた。
ティーカップの向こう側に視線を移すと。彼女がいた。
永遠の姫、ラナ。柔らかなブロンドの髪が、優しく風に揺れている。今度はまごうこと無き肖像画の笑顔を、悲しい素顔に張り付けて。永遠と謳われるだけあって、確かにその顔立ちは美しく綺麗だった。だが作られた表情は矛盾して、感情がない虚ろなものにすら感じられた。あの素顔を知っていると、どうしようもなく悲しい気分になってくる。が、いきなりそんな顔で相対するのも失礼に当たるだろうと、こちらも努めて平静を心掛けた。
レオンは彼女の姿を認めると、恭しく跪いた。
「ラナさん。お久しぶりです。本日は我が友人をお連れしました」
「はじめまして。ユウです」「ユイです」
ラナは眉一つ動かさなかった。やはり喋ることが出来ないのか、口を閉じた笑顔のまま、深く礼をもって挨拶を返してくれた。
それからレオンは見守る側に立ち、俺とユイに好きに話をさせてくれた。
自分は何でも屋をやっていることなど、自己紹介から始めて、喋れない彼女に対し一方的に語りかけるような感じになった。彼女はただ喋れないだけで、感情表現はむしろ豊かな方だと思う。俺たちの話に目や口や手振りで、一々丁寧に反応してくれた。おかげで話がしにくいということはなかった。
しかし、あの時の突き刺すような悲しみを感じることはない。心を閉じているのだ、とわかってしまった。
しばらく話して打ち解けてきたと感じた頃、俺は意を決して本題を切り出した。
「ラナさん。君にお聞きしたいことがあるのです。もしかしたら、とても話しにくいことなのかもしれませんが……」
慎重に前置きする。ラナは、真っ直ぐ俺の瞳を捉えて、真剣なのを察してくれたのだろう。こくんと小さく頷いた。
「君は……本当は、とても悲しんでいるのではありませんか?」
その言葉を告げたとき。ラナは――はっとして、両手で口を覆った。まさか。どうしてそれを知っているのかと、目に明らかな困惑の色を浮かべて。よろよろと一歩、二歩と後ずさる。
「どうしてかはわかりません。だけど、俺は感じたんです。はっきりと。君の笑顔の奥に、この世界の誰よりも深い悲しみがあることを」
泣きそうな顔で、いやいやと首を振って、力なく後ずさる彼女。その反応が、彼女の悲しみが真実のものであることを示していた。
――もう少し。慎重になるべきだったのかもしれない、と後になって思う。
「どうしてですか。世界は、こんなにも楽しみで満ちているのに。君は、どうして。俺たちに、少しでも教えてもらえないでしょうか。もしかしたら――」
――だけどこのときはまだ、わからなかったんだ。
俺が、身を引くラナに手を差し伸べて、触れようとした。
そのとき。
ピシ。
何かが、割れるような音がした。決定的な、何かが。
空気。大気が、割れている。目の前が、割れて――
何が。何が、起こっているんだ?
割れていく。
恐ろしい光景だった。寒気がした。
六角晶の規則正しい模様が。青く細かな模様が、次々と展開されて、視界を埋め尽くしていく。
レオンも。ラナも。そして、ユイも。全てに模様が走っていって。亀裂が。
割れる。
「うわあああああああああああああっ!」
気付けば、激しい痛みが走って。いきなり俺は弾かれていた。吹っ飛ばされていた。
何が何だか。目まぐるしく視界が回って。空が見える。
向こうに、城が。俺は、外――!? 空――!?
空から。世界から、六角晶の模様が消える。割れかけた世界に、秩序が戻る。
『ユ……ウ……!』
ユイの叫ぶ声が、かすれかすれで聞こえてきた。
城は輝きが集まって、もやもや漂っていた怪しげな白い光は、今やはっきりと全体を包み込むバリアとなっていた。あらゆる侵入者を許さない、鉄よりも堅い壁。
浮遊城が、空へと浮かび上がっていく。手の届かない場所へ。
眼下の街――フェルノートも、みるみるうちに緑の光に包まれていった。街を守るように。息もつかせぬ状況の変化。
何が起こっているのか、全く頭が追い付かない!
――え。
瞬間、目の前を覆いつくすほどの緑光の束が発生し――俺に、迫って――。
「ユウッ!」
誰かが目の前に飛び込んできた。金髪の――レンクスだ!
「レン――」
「うおおおおおおっ!」
バチィッ!
鼓膜が破れそうなほどの轟音。圧倒的な力と力のぶつかり合い。
「っ……おりゃあっ!」
彼は気力を纏わせた剛腕でもって、魔力波を強引に空へ打ち上げた。
視界を光で覆っていた恐るべき攻撃――それが攻撃だったのだと、ようやく認識出来た――当たっていれば自分がどうなっていたのかもわからないそれは、レンクスの咄嗟の助けによって空の果てへと消えていった。
事実を遅れて理解して。
身体が震える。さっきまで日常だったじゃないか。それが、こんな。なんで。とにかく。
「助かった……」
「また心配かけやがって。間に合って良かったぜ」
レンクスもびっしょりと冷や汗を拭っていた。あのレンクスがここまで。能力なしとは言え、それだけやばい攻撃だったのだろう。
ふらつく身体は、重力を思い出したらしい。空の飛べない俺は、黙って従って落ちていくところを、レンクスに抱き留められた。
「……何が、どうなってるんだ」
「俺が聞きてえよ。慌てて来てみれば。さっぱりわけのわからないことになってやがる」
世界はまるで何事もなかったかのように、正常な姿を取り戻していた。俺たちだけが、命懸けでくそ真面目に騒いだみたいだった。
落ち着くなく鼓動する胸に手を当てて、呼吸を整えながら、俺は空の一点を睨んだ。既に浮遊城は影も形もなかった。




