18「作戦までの一週間 4 ユウ、再びリルナと遭遇する」
ディースナトゥラ第八街区に着いた私は、まずは第一刑務所に向かうことにした。ゆるやかな円形を描く道路を歩いていくと、ほどなくして到着した。
正面には大きな門があり、鼠一匹逃がさないようぴたりと閉じているのが見えている。警備員と思われる男が二人、ぴしっとした佇まいで門番をしていた。
あまり至近できょろきょろしていると変に思われそうなので、何気ない素振りで周囲をざっと歩いてみた。会議の情報通り、どこも隙間なく高い壁で覆われており、壁の側面と上には高圧電流が流れているという有刺金属線がびっしりと張られているのがわかった。
まあ高いとは言っても、恐ろしく高い中央工場の外壁や町全体を取り囲む外壁と違って、せいぜい数メートルほどである。このくらいの高さなら、男になって脚力を強化すればなんとか飛び越えられそうだった。作戦当日の行きは、奇襲をかけるために、感知システムに反応してしまう男にはなれないが、帰りはどこからでも抜け出られそうだ。
ぐるりと周ったところで、次は刑務所の周辺をじっくりと調べることにした。作戦会議で話し合った逃走ルートの候補を、実際に歩きながらこの目で一つ一つ確かめていく。見たものは心の世界に全て記憶されていくので、しばらくこの作業を続けると、いつでも好きな時に参照出来る自分専用の正確な逃走マップが出来上がった。これだけやっておけばとりあえずは大丈夫かな。
ひとまずすべきことを終えた私は、ぷらぷらと適当に歩き始めた。最初のときと違って心に余裕がある分、ゆっくり町の様子を伺うことが出来た。
この世界に来て初日以来となるディースナトゥラは、ギースナトゥラと比べるとますます綺麗で華やかなところに思えた。道行く人々の表情も明るく、身なりもしっかりしている人がほとんどだ。空を魚の群れのように飛び交う車も、鏡のように綺麗な道路や建物も、ほぼ全く下では見られないものであり、初めて見るわけでもないのについ圧倒されてしまう。上と下では、まるで別世界のようにすら思えてくる。
いくつかお店にも入ってみた。どこも地下の露店とは違って、整った内装であり、売っているものも比較してグレードが高く、値段もちょっぴり高めな印象だった。
地下では見かけなかった高級品店や宝石店などもあり、そこに売られている物は目もくらむような価格が付いていた。何か一つでも買えば、私の持っているお金なんて簡単に消し飛んでしまうほどだ。
よく見ると、支払いを指タッチで済ませている人が多かったのが、特に印象的だった。ナトゥラの指ってカードの代わりにもなるのか。
気が付けば、第六街区にあるディースナトゥラ市立公園にまでやってきていた。この都市で最も大きな公園であり、多くの子連れやカップルで賑わう憩いの場として有名な場所だそうだ。
確かにそれっぽい人たちが、のんびりとその辺を散策していた。きゃっきゃとはしゃぐチルオンの声と、いちゃいちゃするカップルの会話が時々聞こえてくる。
公園は、メカメカしい人工物だらけの街並みと違って、緑に溢れていた。木々が立ち並び、色とりどりの草花も生えている。
ここのところ、周りはずっと無機質な金属色ばっかりだったので、知らず知らずのうちにぴりぴりしていたのだろうか。目に優しい緑を眺めていると、ふっと心がリラックスしてきた。深呼吸してみると、何となく空気がおいしいような気がする。この町にもこんな素敵なところがあったんだね。
足どりも心も軽くなって、ゆったりと公園を歩いていると、噴水の前に、小鳥たちが集まっているのが見えた。
鳥か。この世界で見たのは初めてだ。よく見ると、小鳥たちは向こうから放り投げられてくるパンくずのようなものを、我先にと嘴でつついて食べているようだった。地球なら何でもないような光景だが、この町で食べ物ってかなりの貴重品じゃなかったか。
そんなものを惜しげもなく投げている人のことが何となく気になって、視線を移したとき。私はぎょっとした。だって、ベンチにくつろいで座っていたのは――
流れるような水色の長髪。すらりとした白銀色の手足に、露出度の高いプレートメイルのようなコスチューム。こんなに特徴的な奴は他にいない。間違いなかった。
リルナ! どうしてこんなところに!?
無意識にびびったのか、身体は咄嗟に踵を返そうとしたが、その前に彼女は私の存在に気付いてしまった。楽しそうに餌をちぎっては投げていた彼女は、顔を上げると手を止めて、さらっとしたノリで話しかけてきた。
「ん。お前は確か、いつかの半生体素材の――名前は、聞いてなかったな」
「ユウです」
もう逃げられない。内心の動揺を必死に隠しつつ、まだ男のときの名前はばれていないので、そのまま本名を名乗ることにした。
私は、自分の名前にはこだわりがある。なるべく偽りたくはなかった。亡き両親の形見でもあるし、最初に履いていたジーンズも使い物にならなくなって捨ててしまった今、この名前だけが地球との唯一の繋がりでもあるから。
「ユウか。変わった名前だな」
「よく言われます。リルナさんは、ここで――」
「前は言いそびれたが、リルナでいい。それにタメ口で構わない」
私の言葉を遮ってそう言った彼女は、軽く溜め息を吐いて続けた。
「同僚以外はなぜかほぼ皆、さん付けや様付けで呼んでくるのだ。どうも気疲れしてしまってな。わたしはただ真面目に仕事をやっているだけの、一公務員に過ぎないというのに。中には、最強のナトゥラなどと呼ぶ者までいる始末。まったく。人を格闘家か何かみたいに。謎の崇拝ぶりには困ったものだ」
やれやれと肩を竦める彼女。
あなたがそれだけ強くてカリスマ性があるってことじゃないのかな。未だこの世界で、自分を含め、彼女を超えるどころか、並ぶ力の持ち主すら誰一人目にしていない私は、素直にそう思った。
「リルナは、こんなところで何を?」
「何も。ただくつろいでいるだけだ。今日は非番だからな」
そう言って小さくあくびをした彼女は、どこか可愛らしく、そしてこの上なく無防備に見えた。いつでも展開可能な無敵のバリアを張っているというのが、全く想像出来ないくらいだ。
「わたしは、この場所が好きなんだ。この町で唯一緑に溢れているところ。小鳥たちもここにだけは降りてきて、鳴き声を聞かせてくれる。ここで日を浴びながらのんびりしていると、心がすっと落ち着いてくる」
穏やかな顔をするリルナからは、初日に「俺」と敵対したときの恐ろしさは、微塵も感じられなかった。
「私もここ、好きかな。リラックス出来ていいよね」
同意してくれたのが嬉しかったのだろうか、彼女の目が少し輝いた。
「そうだろう。わたしは緑も大事だと思うんだ。今度他の公園にも植林するように、環境課に進言してみるか」
「いい考えだと思うよ」
「ユウもそう思うか。よし。決まりだな」
彼女はすっきりした表情で頷いた。それから、やや顔を暗くする。
「ところで、あのヒュミテの男。せっかくお前が情報をくれたのに、結局見つからなかった。すまないな」
「それは残念だね」
まあ「俺」だからね。見つかるわけないよ。
「このわたしがヒュミテを取り逃がすなんて。屈辱だ」
彼女はギリギリと歯を食いしばった。急に怖い顔になったので、私はびくっとしてしまった。
「次見つけたら殺す。どこまでも追いかけて、必ず亡き者にしてくれる」
「……どうしてそこまで、ヒュミテを目の敵にするの?」
まるで修羅のような表情をする彼女に、なぜそこまでと疑問に思ってしまった私は、つい素で尋ねてしまった。リルナは怪訝な顔をした。
「当たり前だろう? 奴らはナトゥラの敵だ」
「本当に、そうなのかな」
「そうに決まっている!」
彼女は突然激昂した。あまりの大声に、私は竦み上がってしまった。
「わたしはヒュミテが憎い。憎い――脳裏にくっきりと焼き付いて離れない。わたしたちをゴミのように扱ってきた奴らの、悪魔のような顔が」
彼女の目に漆黒の闇が宿った。怒りと悲しみがごちゃ混ぜになったような、そんな顔をしている。
私は思わず息をのんだ。饒舌になった彼女は、そのまま思いの丈をぶちまける。
「歴史は、ナトゥラとヒュミテが決して相容れないことを証明してきた。今でもヒュミテの下らない抵抗が、罪もないナトゥラの死者を生み続けている。奴らを生かしておいてはならない。根絶やしにしなければならない。奴らを野放しにしておけば、もし奴らが再び勢力を取り戻せば、またいつか必ず凄惨な争いは繰り返される。そして、また多くのナトゥラが犠牲となる。万が一にも、ナトゥラが再び奴隷となる日など、あんな奴らにこき使われる日など、来てはならない。絶対に」
拳を固く握りしめた彼女からは、それと同じくらい固い決意が感じられた。彼女がそれだけナトゥラのことを大事に思い、真剣に未来を憂いているというのが伝わってきた。けれど――
「あのさ」
「なんだ」
彼女がギロリと私を睨んだ。私は怯まずに率直な気持ちを告げた。
「ナトゥラもヒュミテも、仲良くすることは出来ないのかな。共にわかり合い、共に暮らすことは出来ないのか?」
少し落ち着きを取り戻していたリルナは、今度は叫び返すことはせずに、やや考える素振りを見せてから、きっぱりと首を横に振った。
「近年は、かつてないほどに反ヒュミテの感情が昂ぶっているようだ。長年の積み重ねを経て蓄積したこの感情を、容易に拭い去れるとは思えない。わたし個人の感情と、世論は、ヒュミテが滅びることを望んでいる。ヒュミテもそうだろう。わたしたちが憎いはずだ」
彼女は椅子からすっと立ち上がると、こちらを睨むような目で見つめながら、私に、そしてまるで自分にも言い聞かせるように、静かに、力強く宣言した。
「わたしはナトゥラを守り導く者。ナトゥラを脅かすものは排除する。政府の命に従い、民の総意に従い、敵対する者は全て――殺すまで」
透き通るような青い瞳に、氷のような冷たさと滾るような殺意が同時に宿った。 私はぞっとした。
この殺気だ。ヒュミテのことになると、まるでスイッチが入ったように全身から漂う雰囲気が一気に険しくなる。それがどうしてなのか最初はわからなかったけど、もしかしてこの人は、ヒュミテに対して何かしらの拭い難いトラウマでも持っているのだろうか。
すっかり凍り付いてしまった私を見て、リルナはしまったと思ったのか、表情を緩めて申し訳なさそうに言ってきた。
「ふっ。変なことを話したな。お前には関係のないことだ。気にするな」
むしろ当事者なんだけどね。心中におびただしい冷や汗を感じながら、苦笑いして誤魔化した。
このままヒュミテの話をしていても、いたずらに彼女を刺激するだけだ。話題を変えよう。
ちょっと彼女の特殊機能に探りを入れてみるか。彼女の情報が欲しかった私は、思い切って尋ねてみることにした。
「そういえば、あのとき周りで見ていたんだけど。あのヒュミテの男とリルナが対峙したとき、君は突然消えていたよね。あれは何だったの?」
「あれを見ていたのか。あれは、わたしの持つ機能の一つだ」
「機能? 一体どんなものなの?」
何か聞けることを期待したが、彼女は口を噤んでしまった。
「大事な仕事道具だからな。お前を疑うわけではないが、どこかから漏れて対策されてもいけない。どうか秘密にさせて欲しい」
そっか残念。まあ当然と言えば当然か。
でも、あれ? とすると、ちょっとだけ変だな。
「あれ? なるべく秘密にしていたいなら、どうしてみんなに聞こえるように、攻撃モードに移行だとか言っていたの?」
すると、初めて彼女はわかりやすく狼狽えた。機械なので、顔こそ赤くはならないが、人間ならまず間違いなく顔が真っ赤になっているくらい恥ずかしがっていた。
「あ、あれか。仕方ないだろう。あれはわたしの意志じゃないんだ。どうしてか、モードを始めとする一部の機能は、使用時にわたしの口から勝手に名前を宣言してしまうようになっていて、だな……」
最後の方は、消え入るようなぶつぶつ声になってしまっていた。周りから聞いていた、リルナの血も涙もない鬼だとか戦闘兵器のような一面以外にも、こんな素があったのかと思う。
「わからない。名も知らぬわたしの設計者は、一体何がしたかったのだ? ……実は結構恥ずかしかったのだが、何度も言っているうちに慣れてきてしまった」
リルナの思わぬ苦労がわかってしまった。
私は彼女に同情した。要するに、私で言ったら《センクレイズ》を強制的に発声させられるようなものだろう。何考えてるんだ、名も知らぬ設計者。
「あのだな。わたしからも、少しいいか」
「なに?」
「お前から良い匂いがするのだが、一体どんな香水を使っているんだ?」
あら。意外な質問が来たね。
「ああこれ。ギースナトゥラで買ったの。素敵な掘り出し物だったよ」
「地下の貧民街か。わたしは任務以外では、滅多に行かないな――ん、もしかしてあの男、地下に逃げ込んだんじゃないのか」
眉根を寄せた彼女に、私はぎくりとした。やばい。当たっている。
私は慌てて彼女の気を逸らそうと考えた。何かないか。あ、そうだ。
「そうだ。もう一本あるから、一つあげるよ」
「いいのか?」
彼女はきょとんとしていた。私はにっと笑顔で言った。
「うん。二本独り占めするよりは、君にも使ってもらった方がいいかなって思うし」
ウェストポーチから紫色の液体が入った小瓶を取り出すと、彼女の目がわずかにキラキラしたのを見逃さなかった。
リルナって話し方からさばさばしてる印象があったけど、こういうの普通に好きなんだな。手渡すと、彼女は少々ぎこちないながらも、素敵な笑顔を見せた。
「感謝する。大事に使わせてもらうぞ」
明らかに声が弾んでいた。こんなに喜んでくれるんだなと、意外に思った。
とそのとき、彼女の懐から小さなブザー音が鳴った。彼女は私に「失礼」と言ってから、電話を取り出して誰かと通話を始めた。
「もしもし――ええ――はい――なに!? アマレウムで小規模の武装蜂起だと!? ああ、わかった。すぐに行く」
電話を切った彼女は、大きな溜め息を吐くと仕方なさそうに言った。
「悪いな。急な仕事が入ってしまった。行かなくてはならない」
「わかった。しょうがないよ」
「ああ。それではな。また縁があったら会おう」
「うん。さよなら」
別れを告げた彼女は、表情を引き締めると、この前と同じように、目にも留まらぬ速さで風のように走り去っていった。
彼女がいなくなってからもその場に突っ立っていた私は、かなり複雑な気分になっていた。
今こうして普通に話せていた彼女と、香水をあげただけであんなに素敵な笑顔で喜んでくれた彼女と、命を賭けて戦わねばならないのだ。ほんの数日後に。
彼女はきっと、容赦なく私たちの命を狙ってくるだろう。殺すことも全く厭わないだろう。そうした冷徹な一面は十分に垣間見えたし、それも彼女の真実の姿には違いない。
だが、今見せてくれた人間臭い一面もまた、きっと彼女の真実の姿なのだ。
私はルナトープの隊員やアウサーチルオンの集いの人たちのように、どうしても彼女を憎む気にはなれなかった。彼女もまた、世の感情だとかそれまでの歴史だとか、個人的な感情を踏まえて自分なりの正義を掲げて戦っているだけの、一人の戦士に違いないと思ったから。
ルナトープとディーレバッツの戦いは、それぞれの正義のぶつかり合いだ。どちらが正しいというものでもない。どちらが間違っているというわけでもない。
私は、どうすることが正しいのかわからなかった。テオを助けることでヒュミテ側が活気づけば、リルナの言う通り、将来に争いの禍根を残す可能性だって十分にある。私のやろうとしていることは、火に油を注いでいるだけではないのか。
常に傍観者に徹するというフェバル、トーマス・グレイバーの気持ちが少しだけわかったような気がした。まだまだ私の力は小さいけれど、彼らほどになれば、その気になれば本当に世界を変えられてしまうのだから。
自分のすることが世界にどんな影響を及ぼすのか。そんなことを毎回真面目に考えていれば、そのうち嫌になる人がいても仕方がないのかもしれない。
――私も、何もしない方がいいのかな。全てに見ないふりをして、リミットが来る半年が経つまで、のんびり過ごしていた方がいいのかな。
ううん。私は首を横に振った。それでも私は、今虐げられている者の側に立ちたい。放っておけば滅びてしまう、弱い立場の人たちに手を差し伸ばしたい。今困っている人たちを、どうにか出来るかもしれない力があるのに見捨てるなんてことは、やっぱり私の主義に反するから。
まだまだこの世界は見えていないことが多い。なるべく世界を見て回ろう。その結果何も変わらなかったとしても、何もしない方が良いのだとわかったとしても、本当に何もしないよりはまだ納得出来る。この町の中だけにずっといても、見えるものは限られてくる。まずはこの町を抜け出して、色んなものを見るんだ。ルオンヒュミテにも行こう。ルナトープに協力するのは、ここから抜け出すための手段でもある。
やれることから始めるしかない。私は改めてそう決意すると、ぎゅっと拳を握りしめて公園を後にした。