8「男女それぞれの半年 男編」
苦労しながらも楽しかった昼の学校生活に比べて、夜の修行は過酷そのものだった。イネア先生が本当に容赦なかったのだ。
シーン0
修行を始めるにあたって、いきなりの台詞がこれだった。
「言っておくが、私はスパルタでやるぞ。せいぜい死なないようにな」
「はい」
目が本気だ。死ぬほどの修行とは、一体どんなものなのだろうか。このときはまだわからなかったが、すぐに思い知ることになった。
平日は気剣術校舎(通称、道場)で修行し、休日は知らない山や川などへ連れて行かれた。そうした大自然の中で、泊りがけで修行することもあった。
イネア先生は凄腕の気の使い手だ。だから相対的にあまり魔法は得意ではないが、ネスラという種族の特性で転移魔法というものを使えるらしい。予め魔力でマークを付けた場所に限るけど、俺を連れてほんの一瞬で飛んで行くことが出来る。おかげで移動そのものは楽だった。移動だけはね……
シーン1 道場にて
「まずは今見せた諸々の型を各千回ずつやれ。一回一回気を抜かずしっかりやれよ」
初日からいきなり木剣を持たされ、様々な型通りに剣を振るう練習を命じられた。しかも千回ずつって。剣なんて、全然握ったことないのに。
「マジですか……」
「ほう。嫌ならやめてもいいのだぞ?」
「いえ、頑張ります」
俺は、とんでもない人の弟子になったのかもしれないと思った。
「一! 二! 三!」
気合いを入れて、まずは剣を頭の上から縦に振り下ろす型を始める。剣道の面みたいなものだ。身体の中心線から剣筋がぶれないように気を付けながら、一回一回声をきちんと出してやっていく。元気よく声を出して剣を振っていたのだが、それも最初のうちだけだった。
「ぜえ……ごひゃく、よんじゅうご……ぜえ…………ごひゃく……はあ……はあ……よんじゅうろく……」
いよいよ息も絶え絶えで、声にも張りがなくなってきていた。ダメだ。腕がしびれて、もう剣をまともに振れないよ。高々五百回でこれなのに、まだあと何千回も残ってるなんて。全部やり切るのなんて、とてもじゃないけど無理だって。絶対ムリ。
早速心が折れそうになっていると、それをしっかり見抜かれていたのだろうか。厳しい顔のままつかつかと歩み寄ってきた先生に、ビシッとデコピンされてしまった。これがまた強烈に痛くて、木剣をその場に取り落とし、額を抑えてうずくまってしまうほどだった。
「こら。気が抜けているぞ。この甘ったれめ」
「ひゃ、ひゃい! すみません! しっかりやります!」
涙目になりながらそう答えて、どうにか立ち上がる。だが、気持ちに身体がついていかない。次の一振りも、疲労からどうしても剣に勢いがなくなってしまっていた。俺のへなちょこぶりを目の当たりにした先生は、頭が痛そうに額を抑えた。
「これくらいならさすがに普通にこなせるだろうと思っていたが……お前は一体どんな呑気な世界で暮らしてきたのだ。身体が弛み過ぎだ!」
「うっ。ごめんなさい。こんなに身体動かしたことなんて全然なくって……」
「はあ……仕方ない。今日だけは、終えるまで私が横でずっと見ていてやる」
「え?」
さっきまでは手前に任せるって感じで放置気味だったのに。先生って口も態度も厳しいけど、実はかなり親身な人なのだろうか。
「その代わり少しでも気を抜いたら、先ほどのようにお仕置きだからな。最後までしっかりやるんだぞ」
「はい!」
先生が付いてくれるということで、元気が戻ってきた。重たい腕を持ち上げて、素振りを再開する。
「五百四十八! 五百四十九! ごひゃくご――」
「待て」
が、そこでぴたりと静止がかかる。俺は間抜けな声を上げた。
「はい?」
先生は、呆れてものも言えないようだった。
「あのなお前。教えてやったことをちっともわかってないじゃないか。正しい振り方はこうだと言っただろう」
そう言うとすぐに、後ろから抱き付くような格好で両腕を取ってきた。突然のことに、俺の心臓は跳ね上がった。だ、だって。先生の豊満な胸が、むにゅっと、俺の背中に当たって――!
たまらず俺は申し出た。滑稽なほど声が上ずってしまっていた。
「あ、あのっ! 先生!」
「どうした?」
「いや、その……当たってるんですけど……」
「なんだそんなことか。後ろから密着して腕を持っているのだから仕方ないだろう。指導の一環だと言うのに、なに顔を真っ赤にして恥ずかしがっているのだお前は。年頃なのはわかるが、意識のし過ぎだぞ」
「う。すみません」
先生の言う通りだ。向こうは大真面目にやってるのに、こっちが気にするようじゃいけない。そうだ。今背中に当たっているのはスイカだ。ただのスイカだと思うことにしよう。大きくて柔らかい……スイカ。スイカ……ップ……
……俺のばか。何考えてんだ。
いやいやと首を振って、今度こそしっかり気持ちを切り替える。
「もういいか?」
「お願いします」
先生に腕を一緒に持ってもらって、正しい木剣の振り方をじっくり教えてもらう。その後、また一人でやってみることになった。
「こ、こうですか?」
今度こそ形だけは忠実にやると、ぶん、と木剣は鈍く空気をかき乱すような音を立てて宙を切った。
「違う。もっと身体から無駄な力みを抜け」
「すみません。では――こうでしょうか?」
なるべく力まない自然体を心掛ける。剣を身体の一部であるようにイメージして。一気に振り抜く。すると今度は、ヒュンッと軽い音がした。あまり空気の抵抗がなく斬れたような感覚があった。先生は依然として厳しい顔のままではあったが、ようやく首を縦に振ってくれた。
「そうだ。その持ち方と振り方だ。そいつをしっかり頭と身体に刻み付けろ」
言われた通り、もう二度と忘れまいと心に刻み付けた。すると次からはコツが掴めたのか、きちんと振ることが出来るようになった。正しい振り方は変なところに力を入れないので、疲労の蓄積もやや抑えてくれた。慣れてくると、この振り味がだんだん癖になってきた。
「おお。なんかちょっと振りやすいぞこれ!」
「ん? なんだその口の利き方は」
「あっ! 少し振りやすいですイネア先生!」
「ん。やれやれ。先が思いやられるな」
この後、俺は時々先生に痛いお仕置きをもらいつつ、死にそうになりながらも何とか数千回もの素振りを終えることが出来た。人間死ぬ気になれば、大抵のことは出来るものなんだなと思った。ちなみに翌日からしばらくの間、壮絶を絶するほどの筋肉痛に悩まされることになったのは言うまでもない。
シーン2 川原にて
「生命エネルギーのコントロールが全ての基本だ。まずはそれが出来るようになれ」
「どうすればいいんですか?」
「精神を集中して、感じろ」
イネア先生は、所々感覚派だった。
精神を集中して、感じろって言われても。
俺にはさっぱりわからなかった。仙人じゃあるまいし。わかるわけないよ。結局どうにもならずに困っていると、先生がまたやれやれといった調子で声をかけてきた。
「仕方ない。少し手荒くなるが、一度気を叩きこんで身体に覚えさせてやるか」
先生は固く拳を握った。何をするのだろう。そう思った直後、先生は俺に強烈な腹パンをかましてきた! 激しい痛みと、全身が痺れるようなショックが俺を襲う。
「げほっ! ごほっ!」
「どうだ?」
身体に覚えさせるって、む、無茶苦茶だ!
「なんか、熱いものが」
ただ、確かに何かを掴めたような――熱い何かが流れ込んでくるような、そんな不思議な感覚があった。
「それだ。その流れの感覚をきっちり覚えて自分で操れるようにしろ。もう一発いっておくか?」
「いえ……勘弁して、下さい…………」
痛みで、俺は気を失ってしまった。
シーン3 道場にて
「できた……」
俺の左手には、うっすらと白く色付いた短刃が握られていた。先生の作り出す鮮やかな白剣とは、比べるべくもない。まだ息を吹きかけるだけで消えてしまいそうな、そんな儚いものだけど、血の滲むような苦労の末に、初めて気剣を出すことが出来たのだった。これで男の俺も女と同様、ついにファンタジーの住人の仲間入りをしたことになる。
やった。ついに出来たんだ! 俺にも!
嬉しくなって、奥で静かに素振りをしていた先生に飛びついた。
「やった! やりました! 先生! 気剣が出せるようになりました!」
俺は大いにはしゃいでいた。柄にもないことだけど、死ぬほど嬉しかったんだから仕方ない。
「ほう。よくやったな。それで。どのくらい維持できる」
だけど、先生は一言褒めてくれた(これでも珍しいから嬉しかったけど)だけで、実にそっけない反応だった。
「あ、いや。まだ十秒くらいですけど」
正直に言うと、先生はまたいつものようにやれやれと肩を竦め、とんでもないことを言ってきたのだった。
「気剣を出せても、維持出来なければ意味がない。最低五時間は出しっぱなしに出来るまでやれ」
「五時間……だと……」
俺は、絶望した。
シーン4 山奥にて
先生は、度々俺に無茶なことをやらせた。
「ここからでは見えないが、向こうに大型の肉食獣がいる。どうだ。ちゃんと気を感じられるか?」
「はい。わかります」
先生の言う通り、鬱蒼と茂る木々の奥に、力強い生命反応が一つ確認出来た。訓練のおかげで、俺は集中すれば周りの生物の気を感じ取ることが出来るようになっていた。今はまだぼんやりとしかわからないけど、修練を積めば、相手の位置や強さが正確にわかるようになるという。
「その肉食獣がどうしたんですか?」
先生は、楽しそうにふっと小さく微笑んだ。
「なに、簡単なことだ。あれをお前一人だけで仕留めて来い」
「ええっ!? そんな!」
無理に決まってるじゃないか! ネズミに猫を倒せって言ってるようなものだぞ。まあ魔法が使えれば、少しは何とかなるかもしれないけど……
だがそんな一縷の望みも、ばっさりと断ち切られた。
「ああ。もちろん魔法は一切使うなよ。それでは修行にならん。もし使ったり逃げたりしたら、この山に置いて行くからな」
「ちょっと待って下さいよ! 俺、まだこの間気剣出せるようになったばかりですよ! どう考えたって相手の方が……!」
「気剣の威力を舐めるな。お前のようななまくらでも、当たればなんとかなる。それに、格上の相手との死闘はこの上ない経験になるぞ」
「やっぱり格上じゃないですか!」
シーン5 ラシール大平原のど真ん中にて
またあるときは、死の平原の真ん中に置き去りにされたこともあった。
「いいか。ここからサークリスまで、二日以内に自力で帰ってこい。私は一切手助けをしないからな」
「先生。俺、三か月ほど前にここで死にかけたんですけど」
「それはお前が弱かったからだ。気力による身体能力強化をこの前教えただろう。それを使え。足腰が飛躍的に強化されるはずだ」
「いや、それでもこの広さはさすがに……」
「安心しろ。私は絶対にやれないことはさせない主義だ。まあ一割くらいの見込みがあるならやらせるがな。では、また道場で会おう」
それだけ言うと、先生は一人だけ転移魔法を使ってさっさと帰ってしまった。
「あっ! 行っちゃったよ……。帰ったら文句の一つでも言ってやろう」
先生の無茶振りにも、慣れてくるものだと思った。
シーン6 崖の上にて
「これは……」
崖と崖の間に、靴幅よりも狭い綱が一本だけ張られていた。吹きつける強風で、綱は常にゆらゆらと揺れている。
「集中力とバランス感覚の訓練だ」
「これを、渡るんですか?」
「そうだ」
「また無茶を……」
「いいからさっさと行け」
「はい。わかりましたよ」
シーン7 道場にて
一対一で向き合って、打ち込んでいく形での稽古もよく行われた。
「どこからでも打ち込んで来い。お前が甘い動きをする度に、気絶しない範囲で最も強い痛みを何度でも与えてやる。痛みに耐える訓練にもなるな」
「前から思ってたんですけど、先生ってドSですよね」
「何か言ったか」
「いいえ」
左手に気剣を出して構える。剣道のものに近い、先生に教えてもらった通りの基本の構えだ。そして、訓練用の木剣を構えた先生を正面に見据える。
さて。どこから攻めたものか。さすが先生だ。全然隙が見えないんだよな。
ぱっと見は俺と同じ構えをしているようにしか見えないのに、何もかもが違った。一糸乱れず纏う力強い気と、鷲が獲物を狙うときのような鋭い眼光。それらが相まって生み出される、身を切り裂くほどの威圧感が、先生を実際よりもずっと大きな存在に錯覚させてしまうのだ。
「どうした? 来ないならこちらからいくぞ」
「いえ。いきます」
考えていたって仕方ない。実力の差なんてわかり切っている。余計な小細工は無用だ。駆け出して、正面から渾身の一振りを放つ。それは虚しく空を切った。
瞬く間もなく、背後より骨が軋むほどの衝撃を受けた。道場の中央辺りより、壁際まで一気に吹っ飛ぶ。何とか受け身を取ると、ごろごろと転がって壁にぶつかったところでようやく止まった。
「くっ!」
よろよろと立ち上がる。先生の言ってたことは誇張でも何でもなかった。
痛い。めっちゃ痛い。涙が出そうだ。
でも、これぐらいで怯んでいるようではダメだ。
再び剣を構え直す。先生は強い。殺すくらいのつもりで攻撃しなきゃ当たらない。
次は胴を狙いに行く。剣を右腰の辺りに据えて、前方で不動のまま構える先生に、まっすぐ突っ込んでいった。すぐに、互いに剣が届く間合いまで達する。
「甘い」
今度は、振り出そうとしたところで手首を打ち据えられてしまった。そこにまた激痛が走る。
「っ……まだまだ!」
痛みに耐えながら、次から次へと攻撃を仕掛けていく。先生は、その一つ一つを完全に見切っていた。何をどうやっても易々と避けられてしまう。俺が攻撃するタイミングに合わせて、隙だらけの部分を打ち据えてくるのもしょっちゅうだった。俺の甘い動きを窘めているのだ。
必死にもがく俺を見て、先生は妙に嬉しそうだった。
「よし。その調子で来い」
その後も、軽くぼこぼこにされた。稽古の合間に、先生は次々と教えを飛ばしてきた。
「動きを目だけで追おうとするな。相手から発せられる気を読み取れ」
「弱い場所を狙え。意識の隙間を狙え」
「頭で考えながらも、直感で動かなければ間に合わない」
それらの言葉を胸に刻みながら、俺は懸命になってかかっていった。
結局この日は、一度も攻撃を当てられなかった。
シーン8 山奥にて
先生は、蘊蓄を語るのが好きだった。長生きだからか、実に様々なことを知っているようだ。
「ところで、なぜ気『剣術』なのだと思う?」
「それは前から疑問には思っていました。なぜ魔法のようにもっと色んな形で気を使わないのかと。けど、今ならなんとなくわかります。気力は外界では散りやすいから、ですよね」
一度気功波のようなものを撃ってみようとしたことがあったが(憧れもあったし)、どうしても無理だった。手から離れた気力は、間もなく大気中に霧散してしまうのだ。
「そうだ。気力は発生源である使用者の肉体から離れるほど薄れ、加速度的に弱まってしまう。それゆえ、師は手から直接放出される気剣を編み出したのだ。気力を最も強力な形で運用するための、一つの答えというわけだな。そしてこの気の性質上、対象に接近しなければまともな攻撃は出来ない。これは、遠距離に対しての使用も問題ない魔法と違って使い勝手の悪いところだな」
「なるほど。接近、と」
先生のこういった蘊蓄話は、参考になることが多かった。
「だが、気には魔法にはない利点もある。一つは、身体能力の強化が出来ること。そして、自身を含めた対象の治癒が可能なことだ。これらのことは魔法では容易ではない。工夫すれば出来ないことはないはずだが、手軽さや効果の上では大きく劣るだろうな」
「そうですね」
そうなんだよね。先生の言う通り。
この世界で魔法を学んでいてわかったことなのだが、身体能力を直接強化する魔法はないし、回復魔法というものも存在しない。特に後者の魔法がないことは、ゲームとかのイメージからすると意外だった。
一応、魔法薬の中には回復効果を持つものもあるのだが、だからといって瞬時に回復するわけではなく、自然治癒の補助くらいにしかならない。またそうしたものは通常、治療院にしか置いていない。その治療院の利用料金は、気軽に診てもらうというわけにはいかない程度には高い。
その点、気力を使えば、瞬時とまではいかずとも相当な速さの回復効果が得られるし、身体能力だって直接大幅に強化できる。これらが、気力の魔力に対する主な優越性だった。
「それに、この世界には稀に、魔法に対して高い耐性を持つ厄介な抗魔法生物がいる。魔力を持つ人間にもいくらか魔法耐性はあるが、そんなものではない奴もいるのだ。だが、そうした相手にも気力による攻撃は有効だ。覚えておくといい」
「はい」
抗魔法生物か。女の身体で相手をするのは大変そうだな。そんなことを考えていると、先生が言った。
「ちなみにな。サークリス剣士隊は、元々は抗魔法生物のような、魔法では対処が困難なものを相手に戦うための隊だったのだ。だが……気剣術は、魔法に比べると修めるのが難しいからな。年々習得志願者が減っていき――」
先生は、自分と俺以外には誰もいないすっからかんの道場を見回して、肩を落とした。
「今ではこの体たらくさ。気剣術の名を知る者すら少なくなり、辛うじて一部の実力者が初歩を扱える程度に過ぎない。私も月に一度は、剣士隊の一部にいる熱心な者に対して指導を行っているのだが……それが精一杯の抵抗だな。これも時代の流れか」
先生は少し寂しそうな顔を見せた。そんな様子が見るにいたたまれなかった俺は、気休めに過ぎないかもしれないけど言った。
「先生。俺、途中で投げ出したりしませんよ。出来は悪いかもしれませんけど、いつか絶対に気剣術、修めてみせますから」
先生は少し驚いたように目を広げた。それからあからさまではないけど、ちょっと嬉しそうに口元を緩めた。
「ふっ。ならば、もっともっとしごかなくてはな」
「それはほどほどでお願いします」
シーン9 道場にて
「もうお前が来てから、半年になるのか」
「もうそんなになるんですね」
先生と二人三脚での修行を始めてから、半年が経っていた。これまで色々と大変だったけど、過ぎてみれば厳しくも温かく、楽しい日々だったように思える。
「ユウ。今日はもう遅いし、家に泊っていかないか」
「どうしたんですか。急に」
いつもなら必ず寮に返すのに、こんな提案をするなんて。少し先生らしくない気がする。
「なんとなくだ」
前言撤回。やっぱり先生は先生だった。
「いいですよ。泊まっても」
「そうか」
そのときの先生の顔は、とても嬉しそうだった。
だだっ広い道場に布団を二つだけ敷いて、一緒に横になった。いつも二人で動き回り、バタバタと騒がしい道場は、今はしんみりと静かだった。手を胸に当てなくても、自分の心音が聞こえそうなくらいに。
「こうして二人で寝るのは久しぶりだ。なんだか昔を思い出すな……」
月の明かりに照らされた先生の顔は、昔を懐かしんでいるようで、どこか憂いているようでもあった。「もっとも、今は立場が逆だがな」と先生が呟いたとき、もう表情は元に戻っていたけど。
「ユウ。やはり修行は厳しいか。嫌だと思ったことはないか」
「もちろんありますよ。一体何度死を覚悟したことか」
「ほう。それは悪かったな」
「でもおかげで、精神的にも肉体的にも相当鍛えられた気がします。先生、なんだかんだ言って面倒見が良いし」
「ふふ。そうか。だが、まだあくまで基本を叩き込んだに過ぎない。今後はもっと厳しいメニューを用意している」
「望むところですよ」
そこで一旦会話は途切れ、しばしの静寂が戻る。
先生が、ぽつりと言った。
「お前も、いずれは師のようにどこかへ行ってしまうのだな」
「わかりません。けど、行きたくないな……」
地球に帰れないのなら、せめてここにずっと居たい。俺はこの星で暮らしているうちに、そう考えるようになっていた。
「そう思うのか」
先生は意外そうな顔をした。俺は何となく、自分の身の上を先生に話したい気分になっていた。夜の寂しい月明かりが、そうさせるのだろうか。
「俺の両親、俺が小さい時に死んじゃったんですよね。それから、俺には家族と呼べる人はいなかった。心を許せる友達も、気が付いたらみんないなくなってしまって。それから俺は、ずっと一人だったんです」
「一人、か」
そう呟いた先生は、いつもの厳しい顔はすっかりなりを潜めていた。まるで自分のことのように悲しみ、憐れむような目で俺のことをしっかりと見つめていた。
「それでも俺は、自分の生まれた星が大好きでした。なぜ大好きだったのかは、上手く説明出来ません。ただの愛郷心かもしれません。離れたくなかった。なのに、よくわからない理由でこの星に飛ばされて」
「そうか。家族も友もなく、故郷まで追われて。辛かったな」
先生は、いつになく同情的だった。俺は頷いた。
「正直、最初は悲しかったです。不安だったし、ここの暮らしにもそんなに期待していなかった。でも今は、大切な友達が出来たし、先生も出来た。そしたら、やっぱりここも好きになってしまって。離れたくないなって、そう思ってしまうんです。虫の良い話ですかね」
「そんなことはない。人として普通の感情だと思うぞ」
「でも……フェバルの話が本当なら。いつかはここも旅立たなくちゃならない。もし行く先々でこんな思いをしなければならないのだとしたら、俺は……」
耐え切れるだろうか。正直自信がない。
そのとき、頭に先生の手が触れた。俺の頭を撫でながら、普段は見せないような、優しさと慈愛に溢れた目でこちらを見つめてくる。少し恥ずかしかったけれど、撫でられているうちに、不安に駆られる気分が軽くなっていくのを感じた。
やがて先生は、一つ一つ言葉を選ぶように言った。先生の真摯な心が伝わってくるような、そんな言葉だった。
「私には、お前の境遇をどうにかしてやることは出来ない。ただ、これだけは言える。いつか別れのときが来たとしても。ユウ。お前から私がいなくなるわけではない。お前が剣を振るとき。私が教えたこと、私がこれから教えること。その中に私はいる。他の人だってそうだ。場所は離れても、心は繋がっている」
心は繋がっている、か。ありきたりの言葉だけど、そう思うのが正解なのかもしれない。でもそんな風に達観するには、俺はまだ若過ぎた。
「そんな風に思えればいいんですけどね。まだ俺には無理かな。割り切れないや」
「いずれそう思えるようになるさ。きっとな」