プロローグ1 葛西美空
札幌市大倉山ジャンプ競技場。
北の都札幌市が誇る、オリンピックや世界選手権の舞台にもなったスキージャンプの競技場である。
その大倉山の、最大斜度三十五度という断崖絶壁のような急斜面を、時速九十キロメートル以上の猛スピードで、小柄な少女が滑り降りていく。
『シャッ』
踏み切り時に透き通るような音を奏でて、少女はジャンプ台を飛び立つ。
他の誰よりも高く飛び出した少女は、飛び出すと同時に美しいVの字にスキーを開き、身体をピタリと止める。高い飛行曲線を描いた少女は、K点と呼ばれるジャンプ台の基準点となる百二十メートルを遥かに超え、「これ以上飛ぶと危険」とされるヒルサイズの百三十四メートルをも超えた地点に着地する。
『出た、百三十六メートル! これは文句なし! 葛西美空選手、なんと中学二年生の新チャンピオン誕生だ!』
興奮気味にアナウンサーが叫ぶ。そのアナウンスが聞こえていたかどうか、ヘルメットを取った少女、葛西美空はあどけない笑みを見せる。
着地点奥で待っていた、去年の優勝者の女子選手が声を掛ける。
「凄かったわ、美空ちゃんの二本目。次は負けないから、来年も一緒に世界で戦っていきましょうね」
「はい、加奈子先輩、よろしくお願いします!」
かくして、中学二年生にして世界で戦っている先輩選手達を破って優勝した美空は、たちまち新聞のウィンタースポーツ欄を飾るようになる。
そのボーイッシュで整った容姿も相まって『美少女天才ジャンパー現る!』『天才少女ジャンパー、目指すは金メダル!』とたちまち話題の人となった。
そして迎えた中学三年、夏のサマージャンプ大会。冬の本シーズンに日本代表に入るための大事な一戦である。
「(今日は雲の流れが早いな)」
札幌市内を一望できるスタート地点で待つ美空が、上空を見る。ジャンプ競技にとって風の流れは重要である。
美空はいつものように斜面を弾丸となって滑っていく。そして踏み切ろうとした瞬間。
大倉山特有の突風が美空の踏み切りに合わせるように吹いてきた。
横風に煽られ、美空の視界がぐにゃりと歪む。
「……っ!」
気付いた時には美空は地面に叩き付けられていた。
ざわめく観客。担架に乗せられて医務室へと運ばれていく美空。
★
「でも良かった。骨折も筋肉の断裂も無かったなんて」
「はい、打撲だけで済んで、お医者さんからもよほど綺麗な受身を取ったんだねって褒められました。着地の瞬間は覚えてないんですけど」
見舞いに来た加奈子の言葉に、美空が答える。
「痛みが取れたらすぐに練習再開できると思うので、シーズンの後半には日本代表に復帰できるように頑張りますね」
「美空ちゃんならあっという間だわ。楽しみにしているわね」
「はい!」
この時は、打撲の痛みさえ引けばすぐにジャンプが再開できると美空は思っていた。
そして、冬シーズンを前に、転倒後はじめてのジャンプを飛ぶ美空。
いつものように、急斜面を滑り降りていく。
そして踏み切る瞬間。
「……っ!?」
美空の頭の中に、転倒時の歪んだ視界がフラッシュバックする。
踏み切りが遅れた美空のジャンプは、飛ぶというよりは落ちるといった感じでストンと六十メートル付近に着地してしまう。
呆然としながら着地後のランディングバーンを滑り下りてくる美空。他の選手達も、あの葛西美空の完全な失敗ジャンプに空気が凍りつく。
「(復帰後最初のジャンプだ。あんなこともあるだろう)」
気を取り直して、美空が二本目の練習を行う。しかし、今度もまた、飛び出す瞬間に歪んだ視界がフラッシュバックし、踏み切りが大きく遅れてしまう。
百分の一秒単位の踏み切りの遅れで成功ジャンプが失敗ジャンプになってしまうスキージャンプの世界で、踏み切り時に脳内に余分な残像が入るということはジャンプ選手として致命的なことだった。
その後、何十本という本数の練習をしても、結局、美空が元のジャンプを取り戻すことはできなかった。
★
「明日から高校生、か……」
ベッドの上で美空が天井を見ながらつぶやく。
結局美空はジャンプを辞めることを決めた。
周囲からは、転倒事故のあと数年かけて復活する選手もいる、美空はまだまだ若いんだから辞めてしまわずに休養期間にしてもいいんじゃないかという声が多数上がった。しかし、まだ中学生の美空は、多少調子が悪い時はあってもスランプというものに直面したことはなかった。
ただでさえスランプの経験も無かった上に、転倒事故という無意識の恐怖も加わり、美空には、自分が再び以前と同じようなジャンプができるようになるというイメージがどうしても沸かなかった。
ジャンプを辞める決心をした美空は、なるべく知り合いと会いたくないという理由で、学区を越境して札幌南女子高校、南女に入ることにした。勉強はそこまで自信がなかったので、合格発表の掲示板に自分の番号があった時には信じられないという気持ちの方が強かった。
「今までジャンプだけやってて友達もいなかったし、まずは高校に入って友達が作れたらいいな……」
明日の入学式を前に、ベッドに入った美空は天井を見つめながら、そうつぶやいた。