第二十話:空とカカオとお茶会
ティナの尻尾枕ですっかり体調が良くなった。
眠れたのは三十分程度だが、体がだいぶ軽い。
肉体的な疲れだけなら、【回復】で無理やり直せるが心の疲れと頭の疲れは不思議と癒えないのだ。
ティナのもふもふ尻尾に包まれての熟睡は、心と頭の疲れに利く最高の癒しだった。
俺を呼びに来た使用人たちについていく。
案内されたのは、謁見の間だ。
中に入ると、相変わらずのセンスの良さだ。最高級の調度品をそろえながら見事に調和している。
さすがは芸術と文化の最先端を自負するだけのことはある。
「久しぶりね。アルノルト次期準男爵、いえ、これからはアルノルト男爵と呼んだほうがいいかしら?」
茶目っ気を込めて、レナリール公爵が声をかけてきた。
「お久しぶりです。その呼び名は正式に男爵になってからでお願いします。じゃないと、ちゃんと男爵になったあとの喜びが小さくなります」
「気の利いたことを言えるぐらいなら安心ね。あなたのことだから心配はしていなかったわ」
レナリール公爵は俺を気遣ってくれていた。
多くの貴族は、変に増長したり逆に不安になったり、心のバランスを崩すことが多いと聞いている。
それとは別に、純粋に彼女の性格だろう。
「男爵位の受勲は、レナリール公爵の尽力によるものです。ありがとうございました。これで、アルノルトの悲願を果たせます」
頭を下げる。
いろいろと思うところがあれば、この気持ちは本当だ。
「私はあなたの働きに報いただけよ。それに、あの男の横やりを止めきれずに無理な日程を押し付けてしまったわ。そこは謝罪したいわね」
あの男? そう言われて脳裏に一人の男が浮んだ。
あいつが何か裏で人を引いているのか?
そんなことを考えていると、レナリール公爵が別の話題を振ってきた。
「あなたの店のお菓子素敵ね、新作が出るたびに竜車で買いに行かせているわ」
レナリール公爵なら権力にものを言わせてアルノルト側に使者を派遣してお菓子を届けさせろと言っても当たり前なのに、一般客に混ざり列に並んで買ってくれる。
その心遣いが嬉しかった。
「お買い上げいただき、ありがとうございます。さきほど、使用人に店では出せない特別なケーキをお渡ししましたので、そちらも是非楽しんでください」
「たしかに受け取ったわ。実は我慢しきれずに箱を開けて見た目と匂いを確かめたのだけど、食べるのを我慢するのに苦労したわ。香りが素敵すぎたもの。お店で出さないのはもったいないわね」
「カカオを使用しますので、貴族にしか売れない値段になります。それに、カカオが仕入れられるかどうかは運しだい。実際、先日もカカオを買おうとしても市場にありませんでした。それを商品にするのは厳しいのです」
カカオの入手は難しい。
結局、王都で作るお菓子のカカオを諦めきれなかった。
ぎりぎりまで入手方法を探す。今日はこれから、この街の市場を駆け回るつもりだ。
香り高い黒い宝石。それを使う以上、最高のお菓子と言い切るにはチョコレートが必要だ。妥協はしたくない。
「そういうことね。実は、あなたのインペリアル・トルテを食べてからというもの。あの味が忘れられなくてね。あなたから聞いていてカカオを安定して入手できるように手配したの」
レナリール公爵が指を鳴らす。
すると、使用人たちがワゴンを押してやってくる。
その上にあるのは紛れもないカカオ。
それも殻がついて、獲れたてのものだ。質もかなりいい。
「カカオなんて、よく入手できましたね」
「一度でも市場に並んだのなら産地は調べられるわ。そうすれば、竜車で行くだけ。これが高いのは、かなり遠い大陸から海を越えてやってくるうえに、内陸部でしか生産していないし、生産量が少ないというものね。でも、竜車で直接産地に行けば安く、それも安全に仕入れられるの」
それもそうだ。
この世界の造船技術はまだまだ未熟で事故が多い。近距離ならともかく大陸を渡る規模のものは命がけ。その分、値段が高くなる。
さらに、内陸部で育てているなら、港町までにいくつもの関所を通り税金をとられる。
高価になる要件がそろいすぎていた。
だが、竜車は違う。
大陸を跨ごうが空路はとんでもない速さでいける。
さらに竜は幻想種であり、食料を必要とせずに大気中のマナを摂取するので無補給でたどり着ける。
数ある関所を空を行くことで通過できるといいことづくめだ。
……もっとも、その竜自体が大貴族の屋敷と同じぐらいに高価なのだが。
「羨ましいですね。カカオは俺も喉から手がでるほどほしいですから」
「なら、定期的に届けるようにしましょうか。値段はこれぐらい」
提示された値段は、とんでもなく安かった。
前回カカオを購入した値段の二十分の一以下だ。
仕入れ値からすると妥当な値段だろうが、市場に出せばもっと高値で売れる。
「私としては嬉しいですが、裏があるとしか思えませんね」
「あるわよ。これは交渉なのだから当然よね」
やっぱり。だが、交渉と言ったのだから出される条件は、俺も利益があると判断できるラインに抑えられているはず。
「実は、このカカオを手に入れてシェフたちにあなたが作ったチョコレートと呼ばれるものを作らせようとしたのだけど、ぜんぜんうまくいかないの。高貴な香りも、ほろ苦い甘さも、なにもかもが違うの」
それも当然だろう。
チョコレートを作るにはそれなりの知識がいる。
ココアバターの画期的な抽出法など、地球ですら見つかるまでにかなり時間がかかった。
そして、レシピを知ったとしても作ることしかできない、”美味しく”作るには熟練の技が必要だ。
チョコレートの粒子を滑らかにするコンチングは、魔術の力を借りず普通にやれば三十時間ぶっつづけの上、雑にすれば台無しになる気の抜けない作業だし、チョコレートの結晶を安定したものにするテンパリングは長年の経験と勘が不可欠だ。
少なくとも、一級品のチョコレートを作るには数年間の修行が必要になる。
「条件は、チョコレートの製法ですか?」
「そこまで無茶は言わないわ。私は美味しいチョコレートのお菓子を食べたいだけなの。そうね、月に一回、新しいカカオを納入するときに新しいチョコレートのお菓子を振る舞ってもらおうかしら」
実は製法は教えても良かった。教えたところで二級品しか作れないので俺のアドバンテージは失われない。
だが、無理にレシピを押し付けることもないだろう。
「そういった条件なら喜んで」
これだけいいカカオが、この値段で手に入るなら一か月に一度新作のお菓子を作るぐらいは苦でもない。
「なら、交渉は成立。カカオがほしかったのでしょう? とりあえず、そこにあるカカオは厨房に保管しておくから自由に使っていいわ」
内心でガッツポーズをしていた。
このカカオが使えるなら、王都で作るお菓子の試作ができる。
チョコレートを作る際に熟成の工程が入る。今から手を付け始めてぎりぎりだろう。本当に助かった。
「今日の夜に、パーティを開催するの。まずはそこで、私の派閥の貴族たちにどんどん紹介していくわ。そのつもりでいてね」
「ええ、楽しみにしています」
もとより、その予定はフェルナンデ辺境伯から聞いていたし、フェルナンデ辺境伯の屋敷で付け焼刃だが、礼儀作法や適切な会話を学んでいる。
「これで仕事の話は終わりよ。パーティまでに時間があるわ。お茶会に付き合いなさい。プライベートな時間だから、そのつもりでね」
言葉通りに取るわけにはいかないが、ほんの少しだけ気を緩めてもいいだろう。
「かしこまりました。今回のケーキも自信作なので是非楽しんでください」
「ふふ、いろいろとあなたのお話を楽しみにしているわ」
そうして、庭園に招かれて、その場で赤ワインとチョコレートの新作ケーキ、ロートヴァインクーヘンを振る舞った。
その場にはフェルナンデ辺境伯とファルノもいて、みな絶賛してくれたので一安心だ。
俺も香りを楽しんだあとに口に入れる。
赤ワインの力強さとチョコレートの甘苦さが絶妙に混ざり合う。
赤ワインとチョコレートは最高の組み合わせの一つだ。
酵母を使った生地はふわふわで、この世界では久しぶりに味わう食感であり、俺以外にとっては生まれてはじめての快楽だろう。
「このケーキ、すごいわね。王都のケーキはこれでいいんじゃないかしら」
「このケーキはうまいです。俺も大好きなケーキです。ですが……」
そこで一度言葉を切る。
ロートヴァインクーヘンは俺の好物であり、よく自分で食べるために作っていたし、だからこそ改良を繰り返してきた。
これには、欠点があるのだ。
「王に献上するだけの格がない。レナリール公爵に贈るために、かなり苦心して見栄えをよくしましたが、それでもインペリアル・トルテのような美しさや、見るものを陶酔させえるだけのインパクトがないのです」
これだけはどうしようもない。
元がドイツの大衆菓子だからか、全力で飾り立ててもまだ足りないのだ。
「そうね、たしかにすごく美味しいけど。インペリアル・トルテのときのような感動はなかったわね。……あなたが王都で作るケーキにはそれがあるの?」
「当然です。ぜひ、ご賞味ください。ただ、王族からの依頼が誰も食べたことがないものということなので、レナリール公爵に振る舞うのは王族の方が食べたあとになります」
「すごく残念ね。でも、楽しみにしているわ」
レナリール公爵が笑う。
平和的にお茶会はすぎていった。
これからは嵐のような忙しさになる。その前に、こういう時間が取れて良かった。
紹介してもらう貴族たちの多くは、田舎貴族だと馬鹿にするだろうし、あまりにも早い出世に嫉妬をするだろう。取り入ろうとするものもあらわれる。
そういうのを苦手に感じている。
逃げたい気持ちはあるが、こうして支えてくれる人たちのために最後までやり遂げたい。俺はそう思っていた。
ブクマや評価を頂けるとすごく嬉しいです!
カカオが無事手に入った、クルトくん
これからをお楽しみに!