第十五話:インペリアル・トルテ
いよいよ、コースの最後にして、最大の見せ場であるデザート
使用人たちが、八割がた完成させたインペリアル・トルテを持ってくる。
今しがた持ってこられたのは俺が事前に焼き上げたチョコレートを練りこんだスポンジにすぎない。
それでは至高のケーキには足り得ないのだ。まだ仕上げが残っている。
俺のチョコレートケーキの原型であるザッハ・トルテとは、チョコレートとバターをたっぷり練りこんだ生地を焼いたチョコレート味のスポンジケーキ。その表面にアンズのジャムを塗り込み、最後にチョコレートが含まれる糖衣でコーティングするケーキ。
あまりの完成度に、チョコレートケーキの王様と呼ばれていた。
そのザッハ・トルテを超えるために、俺のインペリアル・トルテは、バターの代わりにクルミ油を使い、洋酒をわずかに加えて風味づけをしている。さらにアンズのジャムの代わりにエルフの祝福を受けた桃に似たピナルのジャムを使っていた。
ほかにもスポンジを二層にし、フルーツクリームの層を作っている。
「ふふふ、黒い色のケーキとはまたもや珍妙だね。チョコレートというものが影響しているのかな?」
「はい、そうです。ヘルトリング公爵。これは大人のお菓子、最上の気品あるお菓子を約束します」
俺がにっこりと笑って返事をしたころ、使用人が磨き上げられた大理石の台をもってきた。
インペリアル・トルテを作るために絶対に必要なものだ。
さて、仕上げを始めよう。
「これより、皆さまの前で仕上げに入ります。ご覧あれ」
まず、チョコレートが入ったボウルをティナの力で熱してもらい。液状にする。
温度が四〇度から五〇度。これが重要だ。
その溶けたチョコレートの三分の二を大理石の上に流す。
黒い液体が、広がっていく。熱せられたチョコレートの蠱惑的な香りが広がった。
カカオから作った最上級のチョコレート。質がいいだけじゃない、インペリアル・トルテを作るためだけに特化して味を調整してある。
この香りは大の大人をも魅了する。初めて経験した四大公爵はたまらないだろう。
もう、完全に目が釘付けになっていた。
俺は大理石の上のチョコレートを薄く、ヘラで薄く広げながら混ぜていく。
この作業はテンパリングと呼ぶ。この作業を行うと、ココアバターが結晶化され、固まったときに硬くさっくりとした歯ごたえになり、美しい光沢を出すことができる。
作業温度、広げる薄さ、すべてに妥協を許されず、ひどく気を遣う。ほんの些細なミスでチョコレートは光沢を失い、食感が損なわれるのだ。テンパリングを完璧にできるのは一流菓子職人の証でもある。
薄く、どこまでも薄く。
俺の作業風景を見て、周囲の人間が息をのむ。
少しずつ温度が冷えていき、ヘラで引き揚げたときにツノがたった。
無事結晶化ができた証拠。
テンパリングが無事行われたチョコレートを、ボウルに残った三分の一のチョコレートと均一に混ぜる。
ここで失敗すればすべてが台無しだ。
完璧。
俺はチョコレートを練りこんだスポンジに洋酒に付け込んだピナルで作ったジャムを塗り込む。洋酒の風味はチョコレートによく合う。
エルフたちの祝福を受けた最上のピナルをつかったジャムはそれだけでも十分すぎるほどうまい。チョコレートとの相性も抜群だ。
ジャムを表面に塗ったチョコレートケーキの生地をテンパリング済のチョコレートでコーティング。
手早く、均一に。一瞬で。
薄く塗られたチョコレートの衣はあっという間に固まっていく。
念のためティナの余熱を奪ってもらう。冷たい空気をぶつけるのではなく、熱量そのものを奪うことでケーキに悪影響を与えないで固めることができる。
完璧なテンパリングが施されたチョコレートは固まるとどこまでも艶やかで美しい光沢を放った。
「綺麗」
思わず、俺の作業を見ていたレナリール公爵が漏らした。
これで、俺のケーキは完成。
比喩表現抜きで、輝くケーキ。それがザッハ・トルテの進化版。インペリアル・トルテ。
「これで、完成です。今から切り分けます」
インペリアル・トルテをカットしていく。
四大公爵以外のテーブルには昨日、俺が作り置きしておいたインペリアル・トルテが運ばれた。
「では、ご賞味ください。これが私の用意できる最高のお菓子です」
ごくりと生唾をのむ音が聞こえた。
四大公爵がインペリアル・トルテに手を付けた。
「これは……」
「なんと……」
表情が緩む、恍惚の表情。
言葉は最低限に、ただ夢中でケーキをむさぼる。
あっという間にケーキがすべてなくなった。
みな、一様に放心する。
食べ終わるまで、誰一人、何一つ、言葉を発しなかった。
本当に美味しいものは、言葉を奪う。
ここまでの反応を生み出したのは最高のケーキの力だけではない、デザートまでのコース全てがケーキを美味しくために奉仕するものだったからだ。その積み上げがようやく実った。
しばらく経ってからようやく貴族たちは口を開いた。
「これはおどろいた。高貴な苦みと、外側のほどよい甘味のカリッとしたチョコレートとやらを楽しんでいると、その中から優しい酸味の素晴らしいジャム、その奥にはしっとりとしたケーキ生地が隠されている。苦み、甘味、酸味それらが一つになってえも言われぬ感動になるとは。。たしかに、君の言う通り僕が今まで絶賛した料理たちもこれに比べたら前座だよ。いやはや、これがケーキというなら、僕が食べてきたのはいったいなんだったのか」
ヘルトリング公爵は、信じられないと言った様子だ。
「このチョコレートというのは素晴らしいな。だが、そのチョコレートを完璧に生かし切った技量。さすがに、文句のつけようがない。レナリール公爵、あんたの勝ちだ。これほどのものを出されて、最高で、最新のコース料理であることを否定はできない」
西のアイスホルンもついに降参した。
レナリール公爵は微笑む。
「喜んでいただいて何よりです。これで私の支配する東の文化水準の高さを認めていただけたかしら?」
「そうだね。認めよう。一〇〇年は進歩したコースだ。ただね。これは本当に東の力かな?」
「何がいいたいのかしら? ヘルトリング公爵」
「いや、なんでもない。今日は最高の食事会だったよレナリール公爵」
そこからは平和的な談笑に入る。
なんとか、食事会は成功させられた。
最上の素材を思う存分使えたのはいい経験になったが、こんな緊張感あふれる仕事は今後避けたいものだ。
「そういえば、今日のコースはすべて君が指揮して作ったんだよね。クルト・アルノルト次期準男爵?」
「はい、そうです」
「ここまで素敵なコースを味わえたのは初めてだよ。ぜひ、お礼がしたい。あとで褒美を取らせよう」
「さすがは西のヘルトリング公爵。太っ腹ですな。西の公爵としても遅れをとるわけにはいかん。こちらも褒美を送らせていただこうか」
公爵直々の褒美。おそらく、俺が一生目にすることがないほどのものだろう。
今後、アルノルトが発展するためにも受け取りたい気持ちはある。
だが……
「大変、申し訳ございませんがお断りさせていただきます。私はレナリール公爵の手足となって動いているだけにすぎません。今回の食事会が素晴らしいものであったのなら、それはすべて、私という手足を選んだレナリール公爵の手柄です。私が褒美をもらうとすれば、レナリール公爵からのみ。それ以外のかたからは受け取れません」
そう言うしかない。
こんな露骨な引き抜き工作、乗ってしまえば一時的に得したとしても確実に悪評がたち、敵が増える。
「あははは、クルトくん。君は……いいね」
ヘリトリング公爵の口調は明るく友好的なのに、背筋がぞくりとした。
「今の話は忘れてくれ。ただね、これだけは言わせてくれ。僕は君の料理をまた食べたいよ。たった一度きりなんて我慢できそうにない。また振る舞ってくれるかな?」
「そうなるかは、レナリール公爵次第ですね」
「あはは、そうだね。その通りだ。うん、それにしても驚いたよ。鳶から鷹どころか竜が生まれるなんてね」
そこで俺とヘルトリング公爵の会話が終わる。
レナリール公爵が俺に微笑みかけてくれた。
たぶん、これで正解なんだろう。
それからしばらくして食事会は終了した。
「お腹も膨れたことですし、ダンスホールに移動しましょう。歓談の場を設けております。自由参加ですので、あとはご自由に」
その言葉と同時に大移動が始まる。
自由参加とはいえ、コネを作る絶好の機会。逃す貴族はいない。
俺はその場に立ち尽くす。
できれば、参加したくないがそういうわけにはいかないだろう。
曲がりなりにも貴族なのだから。
おそらく、レナリール公爵のお気に入りのように見えている俺に取り入ろうとする貴族たちは多く、めんどくさいことになりそうだ。
ただ、今は少し休憩だ。精神的にかなり消耗している。
使用人たちに案内されていくほかの貴族を後目に立ち尽くしていた。
そんな俺に初老の男が話しかけてきた。
北の四大公爵オルトレップだ。王族派でレナリール公爵の味方。
「素晴らしい料理をありがとう。そしてレナリール公爵を助けてくれたことを感謝しよう」
「俺は自分の仕事を果たしただけです」
「それでもだ。あの子の味方は少ない。十全に仕事を果たせ、信じられる存在がいるだけでも、心強いじゃろうて」
俺は返事に迷う。
この人が相手なら、下手なことをいえば不遜ととられる。
「お主の料理、よかったぞ。味だけじゃない。心配りがよかった。今日は、食べる前より体が軽いぐらいだし、非常に演出も楽しかった。ああいうものは、食べる者のことを考えておらんと出来ん。お主はいい料理人だ。ヘルトリングではないが、また、お主の料理を食べる機会を楽しみにしておる」
それだけ言うとオルトレップ公爵は背を向ける。
そして俺を見ないまま口を開いた。
「年だけは重ねてきたわしからのアドバイスを一つを贈ろう。お主は力を見せつけすぎた。今後はよくない奴らも近づいてくるだろうし、今までの味方が欲に目を眩んで、豹変することもあろう。人を信じすぎるな、だが人を疑いすぎるな。貴族として生きる以上、そのことは肝に銘じておけ」
底の見えない人だ。
彼の言葉には重ねてきた年月以上の重みがあった。
彼の背中が消えていく。一人きりになってから俺はつぶやく。
「確かにその通りだ。菓子職人だけの力じゃ足りないな。もっと学ばないと」
俺は前世の知識で、お菓子や料理の知識はあるが、それ以外はこの世界で学んだものしかない。そして、アルノルトは貴族として振る舞う機会が少なすぎた。
俺の能力は、ただの菓子職人の域を出ていない。
ただの菓子職人だけでは、魑魅魍魎の蔓延る貴族社会で食い物にされる。
そのことを、痛いほど実感した。