第一話:さらに高まるハードル
公爵家に行くことを伝えると、ファルノが微笑した。
「心強い言葉、ありがとうございますわ。いつにもまして頼もしいです」
覚悟は決めた。
あとはレナリール公爵領に行くだけだ。
可能な限り準備をしておきたい。
「問題はどうやって、レナリール公爵領に行くかだ。確か、山を二つ、三つまたぐことになる」
「クルト様が向かうのはお父様の屋敷です。レナリール公爵が迎えをお父様の屋敷によこします。普通じゃない手段での迎えになりますので、どうしてもこの村に直接というわけにはいかないのですわ」
レナリール公爵の迎え、普通じゃない手段。
その二つを聞いて、脳裏に一つのことが思い浮かぶ。
まさか、生きてるうちにあれを体験できるとは。
世界で一番高価な移動。まあ、無理もない。馬車なんて使おうものなら、片道で半月はかかる。
だが、あれなら二日でたどり着けるだろう。
「わかった。次は出発の時期だ。なるべくいろいろと仕込んでいきたい。レナリール公爵が食べたことがないお菓子を作るには、彼女が知らない素材を使うのがてっとりばやいしね」
おそらく、今手持ちにある葛やピナルはその役目を十分に果たす。
だが、それ以外にもありとあらゆるものを用意しておきたい。
「それが……十日後に四大公爵の定例食事会がありまして、迎えに来るのが三日後の昼なんですの」
少し、表情がひきつった。
三日後の昼にフェルナンデ辺境伯領に迎えが来るのであれば、明日の昼には出発しないとまずい。
なんて、むちゃくちゃなスケジュールだ。
しかも、レナリール公爵の領地に四日後についたとして、仕込みの時間はたった六日しかない。
六日で、ここから持ち込んだものと、レナリール公爵の領地でとれるもので最良のお菓子のレシピを考案し、さらに仕込みを行う。
こんなスケジュール正気じゃない。
だが、嘆いている時間はない。
そして、もう一つだけ嫌な予感がする。というよりも、怖いことを言っている気がする。
「レナリール公爵は、薔薇のクッキーは俺の力の一端で、もっと素晴らしいものを用意できると言ったんだよな」
「はい、そうですわ」
「それは、本当にお菓子だけのことを言ってるのか?」
そこがすさまじく気になる。
ファルノのセリフを思い出す【四大公爵相手に最高の食事会にすると言っているらしいです。その場でクルト様に存分に腕前を披露しろとのことですわ】。
お菓子だけ最高で、最高の食事会なのか?
もしかすれば、彼女はお菓子だけではなく前菜からメインディッシュまですべて最高の”コース”を要求しているのではないか。
それも、誰もが食べたことがない。新しいもの。
「あは、あはははは、そんな、そんなわけないですよね。そんな、いくらクルト様でも、お菓子だけでも大変なのに、たった六日で誰も食べたことがない最高のコースなんて」
ファルノが乾いた笑いを浮かべている。
おそらく、彼女もありえると思っているのだ。
ではないと、最高のお菓子という表現ではなく、最高の食事会を開くなんて表現はしない。
「一応、本人にも確認するが。最悪を考慮して動くよ。明日の出発まで時間がない。限界まで準備をする。すまない、ゆっくり話したいがその時間すらないようだ」
俺の村で作り上げてきた、さまざまな武器を総動員しないと、この難局はこなせない。
杞憂に終わって欲しい。
さあ、今からは一分、一秒が戦いだ。
「わかりましたわ。クルト様。わたしも微力ながらお手伝いさせていただきますわ。最悪の想定、振る舞うのがお菓子だけではなくコースとした場合、欲しいものを紙に書いておいてください。フェルナンデに到着しだい、迎えが来るまでにありとあらゆる力を使って集めますわ。おそらく、港町であるエクラバのほうが、公爵領よりも品物の種類が多いはずです。」
それは頼もしい。
前に市場は一通りみた。ほしいものはある程度目星がついている。
「ファルノの力を借りるよ。助かる」
「いいえ、もともとはフェルナンデの不始末ですわ。全力で協力するのは当然、それに私はクルト様の妻ですから!」
「ありがとう。その、一つお願いがあるんだ。どうしても欲しい食材がある。アルノルトの財布ではとてもじゃないが買えない。フェルナンデの力を借りていいか」
その食材はパティシエとしては、もっとも親しんだものの一つ。エクラバで見たときは歓喜したものだ。
だが、あまりにもふざけた値段でなくなく諦めていた。
「もちろんですわ! お金は気にしないでください!」
それが使えるのは心強い。
力強い言葉を背に、俺はファルノの屋敷を出た。
◇
あまりにも突然で、レシピなんてまったく決まっていない。
ありとあらゆる状況に対応できるように、けして公爵領では手に入らないものを集めていく。
クルミ油……栄養たっぷりのクルミから絞り出した特製の油。これを使うことで、くどくなくそれでいて力強いお菓子が作れる。
はちみつ……ラズベリーの花の蜜だけを吸ってできたすっきりとしたハチミツ。この領地の味にして、俺のお菓子職人としてのはじまりの味。
葛粉……精霊の里でとった葛。葛粉はこの世界ではまったく出回ってない。間違いなく未知の味だろう。
ピナルとパプル……これも精霊の里の特産。それに質が非常にいい。ピナルのほうは一部ハチミツ漬けにしておく、ハチミツ漬けにすると生とは違った魅力がある。
これらはお菓子を作るためのもの。
そして、今度は料理をつくるときのためのものを用意する。
家の裏にある倉庫。
そこには鹿肉がつるしてあった。
肉を熟成させているのだ。
だが、俺が使うのが熟成させているものではなく、倉庫の奥にこっそり隠してある。
「よし、あった」
カチカチに固まった楕円形の茶褐色の物体。
軽く壁をたたくとカーンと固い音がした。
見た目も、音もまるで鰹節。
これはいわゆる鹿節というものだ。現実の地球のフランス料理に近年になって取り入れられた最新の食材。
もとより、鰹節などの旨み成分。そこに注目されていたが、魚臭さで敬遠されていた。
そこで、さまざまな材料で旨み成分を得ようとシェフたちが試行錯誤して選ばれたのが鹿の赤身で作った鹿節。
これを使うと、素晴らしい出汁が作れる。
「さて、これを使うようなことにならなければいいが」
そんなことをひとりごちて、倉庫を出た。
まだまだ、準備は必要だ。
俺はてきぱきと、武器となる食材たちを集めていった。