第二十話:世界で一番、甘くて幸せなものは……
ティナのためのお菓子を昨晩試作し、明け方まで改良を続けた。
材料は試作時から変えていない。
水分量や、甘さのぎりぎりの見切り。クリームの滑らかさや濃さの調整。
そういった細部を詰めていく。
自分の舌を信じ、今までのティナの好みを思い出しつつ改良を重ねていく。
すべては、ティナがもっとも喜んでくれるお菓子を作るために。
意識が遠のいていくが、彼女の笑顔を信じて踏ん張る。
そして……。
「ようやく完成だ。今の俺のすべてを込めたお菓子」
まぎれもない全力。
すべてを絞り出した。
少し、仮眠しよう。
そして、ティナにこのお菓子を食べてもらうのだ。
◇
ティナにお菓子を食べてもらうのは夕方だ。
その前に一つ用事ができて外出していた。
ファルノから手紙が届いていたのだ。今すぐ話をしたいと書いてある。
俺は彼女を傷つけた。
大事なプロポーズの前といえども断ることはありえない。
むしろティナにプロポーズをする前だからこそ、ファルノは俺を呼び出したのかもしれない。
なおさら、逃げるわけにはいかない。
真摯に向き合おう。それが俺の責任だから。
◇
ファルノの屋敷にたどり着き、いつものように中へ案内してもらった。
一つ変化があった。
いつも使用人たちは俺をご主人様と呼んでいた。
だが、今日はクルト様と呼んだ。
きっと、ファルノがそうするように指示したのだろう。
そして、そのことからファルノが何を考えているのかがわかる。
案内されたのは彼女の部屋だ。
実のところ、ここに来るのは初めてだ。
使用人が扉をノックすると、ファルノの入ってほしいという声が聞こえた。
使用人が扉を開き頭を下げる。
そうして、ファルノの部屋の中に足を踏み入れた。
「クルト様、呼び出してしまって申し訳ございません」
「いや、いいさ」
苦笑する。
お互い、妙に他人行儀だ。ずっと一緒にやってきたとは思えない。
ファルノはアルノルト領に来てただの客人としてふるまっていたわけじゃない。
経理関係を一手に引き受けてくれて、最近では他の領地との交渉までやってくれている。
アルノルトの経済は、ファルノが来てからずっと良くなった。
ふと視線を移すと本棚が目に入った。
あの本たちは……。
「クルト様、気付かれましたか?」
「ああ、俺が翻訳した本たちだ」
まだ、次期当主になるまえに資金集めと教養を深めるために、本の翻訳の仕事をしていた。
エクラバは港町だけあって世界各地から貴重な本が集まる、それを翻訳することで、金をもらいながら勉強ができていた。
初めて、ファルノとあったときに彼女は俺のファンだといった。
ファルノは原文であろうと読める。
だけど、あえて俺の解釈を見たくて本を買っていると言っていた。
だけど、ここまで大量に持っているとは思ってなかった。
「私の宝物です。クルト様の翻訳している本が好きなんです。クルト様の人柄と頭の良さと思いやりに触れられて、ずっと、ずっと、本を読みながら、クルト様に憧れていましたの」
「実物にあってがっかりしてないといいけど」
「その心配はありませんわ。あなたと実際に会って、こうして共に働いて、もっと好きになってしまいましたの。胸が張り裂けそうなほどに……」
その気持ちには気付いている。
いつもまっすぐにファルノは行為を向けてくれた。
きっと、彼女と結ばれれば幸せになる。
「すまない、その想いに応えられなくて」
「謝らないでください。そういう一途なところも含めて好きなのですから。……クルト様、知っておりますか? いい女はいつまでも過去を引きずらないのです。見るのは過去ではなく、未来。だから、クルト様。今日は未来の話をするためにお呼びしました」
過去ではなく、未来か。
実にファルノらしい。
そういう彼女だから、貴族の娘に生まれても、ただの政略結婚の道具にならずに、実力を身に着けていた。
「クルト様は、一生かけて償うとおっしゃってくれました。だから、少々難しいお願いをするつもりですわ」
「言ってくれ、その言葉を曲げるつもりはない。ファルノのためならなんだってしよう」
そういうと、ファルノが微笑む。
どこか悲し気な微笑みだ。
「二つあります。一つ、ティナとの結婚ですが私との約束の期限。婚約からの一年経つまで、公表しないでくださいませ。夫婦としてふるまってもかまいません。ただ、それを表に出さないでください」
「それはいいが、理由を聞かせてもらっていいか」
「お父様にぎりぎりまで気付かれないようにするため。いろいろと根回しをしないとひどいことになりますから、その時間が必要ですわ」
まさか、ファルノを振った俺にまだ力を貸してくれるつもりなのか。
「そんな顔をしないでくださいませ。クルト様のためだけではないですわ。私のためでもあります……それから、もう一つ。私はフェルナンデを捨てて、ただのファルノになります。ですから、従者として雇ってください。クルト様の右腕になりますわ」
「ファルノはアルノルトにとって必要な人材だ。嬉しい申し出だけど、それでファルノは幸せなのか?」
ファルノの能力は素晴らしい。
経営能力も、交渉能力もある。
複数の言語を扱え、見目麗しく、礼儀作法も完璧。
ファルノがいれば、他の領、他の国と交易を結ぶときは非常に助かる。
これほどの人材を得られることはない。
だが、それでファルノは何も得ていない。フェルナンデを失っただけだ。
「ええ、幸せですわ。クルト様は、これからますますアルノルトを発展させていきます。私の知らない景色を見せてくれます。せっかく、ここまで一緒にやってきたのに、途中で投げ出すなんて絶対に嫌ですの。ただのファルノとして、私の力を全力で振るう贅沢。フェルナンデでは絶対にできませんわ。……だからクルト様、夫婦にはなれませんでしたが、パートナーとして私を選んでくださいませ」
ファルノは手を差し出してくる。
まっすぐな目だ。
それは共に夢を追う、パートナーとしての目。
「すまない。いや、ありがとう。ファルノ、君の力を貸してくれ」
「ええ、これからも頑張っていきましょう。さて、これから忙しくなりますわ。うまく根回ししないと、お父様に妨害されますもの。クルト様、これからもよろしくお願いします」
「頼む」
それだけしか言えなかった。
ファルノの伸ばした手をしっかりと握って、固く握手をする。
感情が胸に溢れている。
裏切った俺と、一緒に夢を見たいと言ってくれたことが、嬉しくて、申し訳ない。
「クルト様、一言申し上げておきます。私はこう見えて、欲深くて、諦めが悪いのです。過去は振り返らない主義ですが、より良い未来は常に見据えていますからね。私に気を付けてください。ティナを泣かせることになるかもしれません」
「……ファルノでも冗談を言うんだな」
「冗談ではありませんわよ?」
それからは、ただ雑談を続けた。
思えば、ファルノとはこういう何気ない話をすることは今までなかった、いつも仕事の話ばかりだ。
これからはこういう時間を取ろうと思う。
パートナーとして。
◇
ファルノと別れた。
そろそろティナとの約束の時間だ。
ティナと会う場所は決めている。
お菓子を入れたバスケットをもって向かう。
ティナを探す。
いた。
シートを広げて、そこからの景色を眺めている。
ラズベリー畑と、養蜂するために作った木箱。
俺たちの夢の始まりだ。
初めて甘い物を得た場所であり、ティナと二人、ゼロから始めて作り上げた場所。
ここが俺たちの原点だ。
ティナにプロポーズするならここだと決めていた。
「ティナ、待たせたな」
「いえ、クルト様はちゃんと時間通りに来ました!」
ティナの声と動きが妙に固い。
緊張しているのだろう。
「そんなに緊張しているとお菓子の味なんてわからないぞ。とは言っても、俺もかなり緊張しているけどね」
ティナの腕をとり、俺の心臓の位置に当てさせる。
「クルト様の、心臓、すごくどくどく言ってます」
「王族にケーキを振舞ったときも、ここまで緊張しなかったよ」
そういって笑いかけるとティナの表情が少しだけ柔らかくなった。
少しは緊張がほどけたみたいだ。
「クルト様も緊張するんですね」
「ああ、人生の一大事だからね。ティナ、改めて言うよ。俺はティナのために、世界で一つだけの最高のお菓子を作った。もし、このお菓子を気に入ったら、結婚してほしい」
「はい、その、よろしくお願いします」
ティナが顔を真っ赤にして頷く。
俺は微笑んで、バスケット中から皿に盛られた、ティナのためだけに作ったお菓子を取り出す。
「ティナをイメージして作ったんだ。生涯、ティナ以外に食べさせることがない特別なお菓子……ティナ・シュネークライト」
純白のギュネーブで、黄金のマロンクリームを挟み、淡雪を降らしたお菓子。
冷たくて綺麗な雪。だけど、その内側には温かさと芯の強さを隠し持ったティナを表した。
今の俺に作れる最高のお菓子だ。
「うわあああ、真っ白で綺麗なお菓子です」
ティナが目を輝かせる。
そして、フォークで二つに割った。
すると、中の黄金のクリームが露わになり、白と金のコントラスを作り出す。
ティナは、震える手で一口サイズに切ったティナ・シュネークライトを口に運ぶ。
柔らかくぷるぷるに仕上げた白いお菓子に震えが伝わり揺れている。
「美味しい、美味しいです、すごく。ふわふわで、中のクリームが滑らかで、一つになって、溶けていく。すごく優しくて温かい味。それに、ほんのわずかに酸味と苦みがあって次の一口が止まりません」
ティナは二口目を食べる。
「それに懐かしい味」
「ティナ・シュネークライトは砂糖は使ってない。俺たちの夢の始まりの蜂蜜に拘った。だから懐かしい味なんだと思う。その酸味の正体も実は蜂なんだ」
ティナが驚いた顔をする。
俺は、最後に降らした淡雪の原料を取り出す。
それは小瓶に入っており、白くどろっとした液体だ。
「ローヤルゼリー、女王バチになる幼虫に与えられる、最高の栄養。ヨハンたちが必死になって集めてくれた、これを使った」
ローヤルゼリーはすさまじい栄養が含まれている。
味のほうは、酸味と苦み。
そのまま食べれば、美味しい物ではない。
だけど、他の材料とまぜて淡雪にすることで、わずかな酸味と苦みが味を引き締めてくれる。
甘いだけのお菓子というのは飽きやすい。酸味や苦みというのは最高のアクセントになってくれる。
蜂蜜を主体にした甘さづくりをしているからこそ、相性もいい。
これがあることで、ティナ・シュネークライトは一つ上の味になる。
ティナはすべてを食べきる。
そして、涙を流し始めた。
必死に、涙をぬぐおうとする。
「ティナ、ダメだったか」
「違うんです、美味しくて、美味しすぎて、今まで食べたどんなお菓子より美味しくて。それに、クルト様が私のためだけにこんなにも素敵なものを作ってくれたのがうれしくて、涙がとまらないんです」
どんなお菓子より美味しい。
そう聞いた瞬間、感情が爆発した。
「そうか、美味しかったのか」
「クルト様、あの、その、ふつつか者ですが、どうかよろしくお願いします。こんなお菓子を食べさせてもらえた私は、世界で一番の幸せ者です」
そういったティナをぎゅっと抱きしめた。
そうしないではいられなかった。
ティナの涙が俺の首筋を濡らす。
「きゃっ、クルト様痛いです」
「ごめん、だけどがまんできない。こうさせてくれ」
「クルト様もわがまま言うんですね。今日は知らないクルト様がたくさん見れました」
「俺はわりとわがままだ」
わがままだからこそ、こうして夢を諦めずに走り続けてきた。
ティナを選ぶという決意をした。
ようやく気持ちが落ち着いて、ティナから離れる。
ティナの顎に手を当て上を向かせる。
いつのまにか、ティナはこんなに美人になっていたのだと、いまさらながら気づく。
心臓の音が高鳴る。
「ティナ、いいか?」
何をとは言わない。
きっと伝わるから。
「……はい」
ティナが返事をくれた。
俺はティナの唇に自分の唇を合わせる。
初めてのキス。
唇を離す。
「クルト様とキスしちゃいました。夢みたいです。ずっと、ずっと憧れてて」
ティナは泣き止むどころか、よりいっそう顔をぐしゃぐしゃにする。
「俺も、ずっとティナとキスをしたいと思ってた」
無防備なティナの前で、紳士的にふるまうのにどれだけ苦労させられたか。
好きな女の子が目の前にいるのに手を出せない日々は拷問だった。
だけど、それも終わりだ。
「ティナ、これからこういうことをたくさんすると思う。結ばれた以上、がまんしないからな」
「はい、どんどんしてください。私も、ずっとずっとそう思っていましたから」
さっそくもう一度キスをした。
直前にお菓子を食べていたからか、ティナとのキスは甘い味がした。
いや、それだけじゃない。もっと特別な甘さだ。
ティナとのキスは、俺が味わった中で、もっとも幸せな甘さだった。