思わぬ展開
「姫さま、姫さまっ! そろそろお起きなって下さい!」
花の焦った声で、瑠唯の意識は眠りの縁から浮上した。しかし体が鉛のように重く、瞼が中々開けられない。朝はいつもこうなのだ。
「花殿、何度も言いますが、声を掛けたぐらいでは瑠唯さまは起きません」
ぴしゃりとした小夜の声が聞こえたかと思うと、布団を引っぺがされた。が、それでも瑠唯は目覚めない。むにゃむにゃと喃語を呟くだけである。
「さあさあ、姫さま、いい加減起きましょう」
今度は美禰によって上半身を起こされた。そして顔にべちゃりと濡れた手拭いを掛けられ、遠慮のない力で拭われる。
「……うん、皆、おはよう……」
ここまでされて、瑠唯はようやく目が覚めたのだった。いつもの朝の光景である。
花と美禰が瑠唯付きになった当初、寝起きの悪さに体の調子でも悪いのではないかと心配されたものだったが、これが平常と知るや唖然としていた。今ではもう慣れたもので(花はまだだったが)、容赦なく瑠唯を起こしにかかって来る。
「昨日一日中休まれたというのに、今日は一段と寝覚めが悪うございますね。ああほら、目をお開けくださいませ!」
再び瞼をおろそうとする瑠唯の背を、美禰がばしばしと叩く。そんな彼女に、花が口を尖らせて言った。
「強行軍でしたから無理もありませんよ。私だって、あれには参りましたもの! 姫さまも疲れが抜けきっていないのでしょうねえ」
「うん……」
確かにとても疲れた。
物の怪騒ぎの翌日、出立前に強行軍で参りますと突然言われ、五日と予定していた道程を三日に短縮されたのだ。籠の揺れは以前にも増して激しくなり、うっかりしたら舌を噛んで死んでしまうのではないかと思ったほどである。そんな状態だったので、阿須南の白織城についた翌日は、それこそ死んだように眠り続けた。
休息は十分に取れたが、まだ少し体が痛い。けれど寝覚めの悪さは、疲れが取れていないからというわけでもない気がするのだ。
昔の瑠唯は、自分でちゃんと起きることができていた。それが年を経るごとに寝覚めが悪くなり、今では人の手を借りなければ起きられない有様である。
(数年後には、眠ったままあの世へ行っているやもしれんな……)
眠気の抜けきらない頭で、瑠唯はぼんやりと思った。
◆◆◆
定昌が亡くなった。それが強行軍を強いられた理由である。
病死であると言われていたが、本当のところはどうかわからない。それはともかく、この縁談を推し進めたのは定昌だ。結婚前に彼が亡くなったとなると、瑠唯の状況も変わってくる。
縁組には様々な思惑が入り乱れるものだ。小国の姫などよりも、もっと利を得られる国との縁を、もしくは箔を付けるために貴族の娘を、と声を上げる者もいるだろう。それならそれで別に良いのだ。故郷に帰れるのならば、瑠唯としても万々歳である。ただ禍祓いをどうするべきか、というのが気がかりであった。
おそらく祝言を上げた後、初夜の床で祓いを行うという段取りであったのだろう。しかし縁談が無くなればそれもできない。
「それで、どういう状況なのです? わたくしは今後どうしたらよいのでしょう」
身支度と朝食を済ませた瑠唯は、割り当てられた部屋に百目鬼を招き、尋ねた。
「それが困ったことになりましてな……。大殿が亡くなられてから、姫君の腰入れに異を唱えるものが増えまして、六日後の祝言を延期せよと……」
「肝心の八定さまは?」
「妻はいらぬ。亡くなられた兄君の子を養子に取ると申しております……。ですが、姫君にお会いになれば、きっとその決意も変わるはず。どうか今しばらくお待ち下され」
必死に言い募る百目鬼を、瑠唯は複雑な思いで見つめた。
定昌が亡くなり、尚も瑠唯を八定に引き合わせようとするのは、やはり彼を亡きものにするためだろうか。生死は問わないと言っていたが、彼は嫡男である。その彼が死ぬかもしれないとなると、誰を跡取りにするかという根回しはおそらく済んでいたに違いない。つまり祓って命が助かっても、そのうち暗殺されるかもしれないのだ。
暗殺の手伝いなどしたくはないし、助けた命を殺されるなど以ての外である。
(この話、ご破算になってくれないだろうか……)
瑠唯が痛い頭を悩ませていたその時だった。小夜の悲鳴じみた声が聞こえ、瑠唯と百目鬼はぎょっとして襖に目を向けた。
「困ります! まだ姫さまはお話し中で――」
「すぐに済む。どけ」
「あっ」
ザッと襖が開けられる。
そこから何の断りもなく入って来たのは、豊かな白髪を背に流した、初老の男だった。彼は瑠唯を見るなり眉を上げ、その場にどっかりと腰を下ろした。
「お初にお目にかかります、才楼の姫君。私は家老の葉山向陽と申します」
「ええ、あの」
「遠路はるばるご足労いただき、真にありがとうございます。ですが事情が変わりましてな、姫君との縁組はなかったことにして頂きたい。申し訳ありませんな」
「葉山さま! お待ちください! それは」
「やかましい! お前は黙っておれ。で、姫君」
いきり立つ百目鬼を制して、葉山は再び瑠唯に向き直った。
「来て早々にお帰り下さいというのも、あまりに心ないので、一週間ほど滞在して下さって構いませぬ。こちらの都合でお越しいただいたのですから、おもてなしは存分にさせて頂きますぞ。丁度城下では明日から祭りが開催されますから、楽しんで行かれるとよろしい。それでは失礼」
瑠唯の言葉を遮った挙句、言いたいことだけ言って、葉山は去っていった。あまりの無礼な振る舞いに、瑠唯は空いた口が塞がらない。
呆然とする瑠唯に、百目鬼は慌てて平伏した。
「申し訳ありません、姫君! どうか、どうか、お怒りくださいますな! 殿とお顔を合わせる機会を必ずやお作りしますので、今しばらくの御辛抱を!」
驚きはしたが、怒ってはいない。むしろ葉山が促してくれたついでに、帰りたいなとも思い始めている。けれど額を畳に擦りつけて謝り続けている百目鬼を見ていると、そんなことは言えなかった。
まああの様子では、瑠唯の出る幕はなさそうだ。しばらくは阿須南を見物して回るのもいいだろう。
「百目鬼殿、お顔を上げてくださいませ。すぐには帰りませぬ。葉山殿の仰っていた一週間は、ここに滞在させて頂きますので」
協力する、とはあえて口にしなかったが、それでも百目鬼は悲壮な顔に笑顔を浮かべて喜んだ。
「おお、ありがとうございます! ありがとうございます! 必ずや、この百目鬼、使命を果たして見せましょうぞ!」
果たさずともよい。心の中で突っ込みつつ、瑠唯もにこりとほほ笑む。
「時に百目鬼殿、一つお願いがあるのですが」
「は、何なりと」
「明日、葉山殿の仰っていた祭りに行こうかと思っております。あまり仰々しくない形で。つきましては、案内をどなたかに頼みたいのです」
百目鬼は一瞬きょとりとした後、破顔し、お任せ下さい、と頷いた。
改めてみると、この白織城はどこもかしこも凝っていて美しいなと瑠唯は思う。立体的な意匠が施された彫刻欄間など初めて見たし、城のどこかには、金箔が貼られた襖もあるそうだ。瑠唯が宛がわれた部屋などは、内装に異国風の装飾が取り入れられており、しかも見事にこの国の調度品と調和していた。
ここに着いた当初は、じっくりと見る余裕もなかったが、今がその時である。何と言っても、
「何なのですか! あの葉山とかいう輩! 無礼にもほどがあるでしょう!」
「うんうん」
小夜がずっとこの調子なのだから。
百目鬼が去った後、小夜は葉山の無礼な振る舞いに怒りを爆発させた。それからずっと瑠唯は彼女の愚痴を聞き続けているのだ。
小夜の怒りも分かるし、鬱憤を晴らすのも必要だろう。そう思って最初のうちは真面目に相手をしていたが、少々疲れてきた。今は芸術品のような内装を鑑賞しながら、適当に頷いている。
「全く、あんな無礼者が家老など信じ難い限りです!」
「うんうん」
何度目かの相槌に、もう! と小夜がまた爆発した。先ほどから同じ返事しかよこしていないので、当然かもしれない。
「先ほどから瑠唯さまはそればかり! 腹が立たないのですか!? 軽んじられたのですよ!」
「まあ少しは。でも小夜が怒っているのを見たら、気が晴れたな。それはさておき、明日は祭りじゃ。存分に楽しもうではないか」
はしゃぐ瑠唯に、小夜は怒らせていた肩を落とし、苦笑いを浮かべた。
「……まあ、わたくしも少々興奮してしまいました。確かに、嫌なことを考えるより、楽しいことを考えた方が良いですね」
「ふふ。あの剣幕で少々か。怖いな」
「はい。小夜の本気は怖いのでございます」
一瞬の間の後に、二人でけたけたと笑いあう。そうしていると、襖がコン、コンと軽く叩かれた。周辺を出歩いていた雪童が戻ってきたのだろう。部屋に入りたいときは、襖を二回叩くこと。それがあらかじめ決めておいた合図だった。
小夜が襖を開けてやると、雪童が瑠唯の名を呼びながら駆けてきた。何か珍しいものを見つけた時の、雪童の癖である。
「どうした?」
「瑠唯、あの葉山とかいう男、白陽の民かもしれないぞ」
「何故そう思う?」
「黒宵の民など冗談ではない、って廊下でぶつぶつ言っていたから……」
「そうか……」
黒宵の民というのは、黒邊家のことである。
白陽と黒宵は以前共に暮らしていたらしいが、仲違いをして別離したという。
大分昔のことであったし、今の黒邊には白陽の民に嫌うほどの感情はない。しかし白陽の民はどうやら違うようだ。
もし久世の家臣に白陽の民が他にもいるのなら、そして葉山と同じような考えならば、余計にもこの縁談は阻止したいだろう。うっかり妻になどなってしまえば、瑠唯の方が暗殺されるかもしれない。
破談になって良かった。完全に決まったわけでもないのに、瑠唯はこっそり胸を撫で下ろした。