禍祓い
※残酷描写注意
月明かりが差す夜道を駆けること小半刻。雑木林の道を抜けると、どことなくうらびれた雰囲気の集落が、瑠唯の視界に飛び込んできた。中央には田畑が広がり、その周りには茅葺屋根の民家が並んでいる。瑠唯たちは馬の速度を緩めて村に入り込んだ。
辺りはひっそりと静まり返っている。虫の声すら聞こえず、まるで生きとし生けるものがこの村にはいないような寒々しい印象を受ける。時折吹く冷え切った風が、それを助長していた。
しばらく進むと、道脇に倒れ伏している人影を見つけた。背格好からして男性のようだ。
近寄るにつれ濃厚になる血の匂いに、あれはもう死んでいるな、と瑠唯は思った。
「酷い有様ですな」
「惨いのう……」
時枝と三郎が見下ろした死体は、背の肉が無残に抉られ、骨や内臓がさらされていた。まるで獣にでも食い荒らされたような有様である。村に降りた物の怪は、中々力あるもののようだ。
「近くにいるぞ。気配は一つだけ。他はいない」
背後で雪童が囁く。瑠唯は小さく頷き、馬から降りた。
「物の怪は近くにいるようです。わたくしは三郎と共に祓って参りますので、時枝殿は東の民家から順に、逃げ遅れた者がいないか探して下さいませ。確認が終わり次第、ここに集合を」
「承知いたしました」
瑠唯の力を信用してくれているのか、時枝は素直に頷き、颯爽と駆けて行く。
信用してくれるのは嬉しい。素直であることも好ましい。ただ、崇めるような視線をやめてくれれば、もう少し気軽に接することができるのだが――そんなことを思いながら、段々と小さくなる後姿を三郎と共に見送った。
やがて時枝の姿が見えなくなった頃、三郎が振り向きにっと笑う。
「では私も住民の捜索に行って参りますかな」
「頼む」
野に放たれた物の怪を祓うときは、他人がいない方がやりやすい。才楼でも瑠唯の護衛をしていてくれた彼は、瑠唯のやり方をよくわかっているのだ。
「姫さま、うっかり手綱を締め忘れて馬に逃げられんようにして下されよ」
そう言うと、三郎はからからと笑いながら民家目指して駆けて行った。
「三郎まで……」
「はは、やっぱりだ」
「ついついということもあろう。揚げ足を取るでない。それで、どこにいる?」
手綱を付近の木に括り付けながら尋ねると、雪童が少し大きめの民家に指をさした。
「あそこだ」
「わかった」
瑠唯は頷き、彼が指し示した場所へと歩き出した。
近くまでくれば、何がどこにいるかを感じ取れるという雪童とは違い、瑠唯は物の怪の気配に鈍感だ。というよりも全く感じ取ることができない。しかしそれで困ったことは一度もなかった。雪童がいるからというのもあるが、他にも理由があるからだ。
ずんずんと近づいていくと、赤黒い人型が民家の入口に立っていた。戸板に両手をつけて、がりがりと爪を立てている。入りたくても入れない、そういう感じだった。
きっとあの中には村人がいるのだろう。そして何かが足止めをしてくれているらしい。しかし戸板には所々に亀裂が入り始めており、今にも破られそうである。早々に片を付けてしまわねば。
「雪童、あれを戸から遠ざけておくれ」
「おう」
すぐさま雪童が走り出す。その間に瑠唯は目を閉じ、意識を集中させて、己の背から"影"をずるりと生み出した。
勢いよく近づく雪童に、物の怪が振り返る。しかし避ける間もなく、物の怪は雪童にぶち当たり、彼もろとも横へと弾け飛んだ。
――グア゛ア゛アァ!
物の怪がおぞましい咆哮を上げ、鍵爪のような手を雪童に振り下ろす。
寸前、"影"が人の手を模って、素早く物の怪へと巻き付き、動きを封じた。凄まじい力で抵抗されたが、影の手を二本三本と増やして拘束する。雁字搦めになった物の怪は、なす術もなく瑠唯の目の前へと引きずり出された。
物の怪は女性の姿をしていた。しかし髪は短くところどころ剥げている。その剥げた部分には、泣き叫んでいる赤子の爛れた顔が張り付いていた。そして般若面を思わせる形相、所々腐り落ちた肉、まさにおぞましいの一言に尽きる姿だった。
瑠唯の背に冷や汗が流れる。
恐ろしかったから――ではなく、空腹で堪らなかったからだ。空腹だと影を生み出すのも操るのも辛い。しかし飢えはもうじき満たされる。彼女によって。
瑠唯は影の手で、物の怪の手を口元に引き寄せた。熟れた果実のような甘い匂いが瑠唯の鼻腔を擽る。瑠唯だけが感じる、物の怪の匂いだ。憑かれているか、いないかも、この匂いで判別するのだ。
瑠唯は引き寄せた手に口をつけて、吸い込んだ。物の怪はするすると瑠唯の口の中に引き込まれる。甘く瑞々しいものが喉を通り、体の隅々を満たしていく。その感覚が心地よく、瑠唯は夢中で物の怪を喰らった。
そして全てが瑠唯の中へと吸い込まれる瞬間、怒りと悲しみに満ちた叫びが物の怪から放たれた。
――コロセ! 川下ノ奴ラヲ殺シテ……!
その叫びを最後に、彼女は完全に消えた。
飢えは満たされた。けれども後味の悪い思いが残る。物の怪を喰らいきる瞬間はいつもこうなのだ。恐怖や怒り、悲しみの断末魔が放たれる。それを気まずく思う自分がいる。気にしてなどいられないのに。
というのも、瑠唯は物の怪を喰らわねば生きられない、そういう異質な存在だった。そしてそれこそが、瑠唯に与えられた夜天の力である。
物の怪を喰らい、影を操る。その力でもって人を助け、時には牙を剥き、人を屠る。
厄介な力を与えられたものだと思う。特に物の怪を喰らわなければならないというのが、辛いところである。
今回の長旅でそれを痛感させられた。人目があるので、調達することもままならないのだ。時折雪童が捕まえてきてくれる小物で、飢えを凌ぐ他なかった。
今の一件は、まさに渡りに船と言えよう。おかげで阿須南までは十分もちそうである。
「中々の獲物だったな」
繁みに転がっていた雪童が、ひょっこりと立ち上がり、駆け寄って来る。久々にまともな食事をしたおかげが、彼の表情も明るい。
「まあ、な。これで雪童も小物取りをせずとも済む」
「あれはあれで楽しいぞ」
そうか、と笑いながら、瑠唯は微動だにしない戸板を伺った。戸を取るべきかとも思ったが、外した瞬間物の怪と勘違いされて槍で突かれたらたまったものではない。まずは声を掛けて確認するのが無難であろう。
「ご無事ですか? 物の怪は失せました。どなたかいらっしゃるのであれば、お声を聞かせてくださいませ。私は寺より参った者です」
「…………お入りください」
よく通るが、力のない声に促されて、瑠唯は戸板を外して中へと入った。
民家の中には、数名の村人と怪我を負った僧侶が一箇所に固まっていた。僧侶の顔には見覚えがある。確か彼が一番弟子の永信だ。足止めをしていたのは、おそらく彼で間違いないだろう。
永信は村人に体を支えられながら、血の気の失せた唇を開いた。
「あれは、どうなったのですか……?」
「貴方様のおかげで、物の怪が失せたのです。外はもう安全なので、皆さまご安心を」
瑠唯の言葉を聞くやいなや、村人たちから安堵の声が一斉に零れる。そして永信に向かって、感謝の言葉を口々に言い始めた。
永信はもの言いたげな視線を瑠唯に向けている。それもそうだろう。足止めをしていただけで、あんな凶暴なものが失せるはずもないのだから。不審がられてもおかしくはない。
瑠唯は彼の傍に近寄り、じっと目を見つめた。
「永信さま、今までよくぞ持ちこたえてくださいました。お疲れさまでございました」
怪訝な表情を浮かべていた永信は、はっとしたように、目を見開いた。
「貴女は……」
どうやら気づいたようだ。瑠唯は頷いて、「ええ、今夜一晩の宿を頂戴した者です」と囁いた。
「お辛いでしょう。すぐ医者を呼んでまいります」
「いえ、それには及びません……。怪我もそれほどひどくはありませんから。寺に、戻らねば……」
「では共に来た者に、馬で送らせます。参りましょう」
瑠唯は永信の身体を支えながら、共に民家を後にした。
隣を歩く永信の足取りは重い。かなり体力を消耗しているようだ。ましてや怪我人。歩かせるのは酷だろうと思い、民家の前で待機することにした。手に持った灯りを掲げておけば、三郎か時枝が気づいてくれるだろう。そうしていると、「姫君……」と密やかな声が降ってきたので、瑠唯は永信を見上げた。
「貴女様が封じて下さったのですか? あの祟り神を……」
祟り神、と聞いて瑠唯の眉間に皺が寄る。ではあの物の怪を祀り、ご利益を得ていたのか。何だか、余計なことをしてしまったような気分になる。
「申し訳ありません。封じてはいないのです。……祓ってしまいました」
「……いえ、良いのです。貴女様のおかげで、皆救われたのですから。感謝、します」
辛そうな声音である。早く寺に送り届けて差し上げねば、と気が急く思いで闇夜を見渡す。しばらくすると、蹄の音が近づいてきたので、瑠唯はほっと胸を撫で下ろした。
三郎が戻ってきたのだ。見慣れた人影はすぐにわかる。彼は馬を操り、瑠唯の元まで颯爽と駆けつけた。
「おお、ご無事でしたか」
「三郎、そちらはどうであったか?」
「だめですな。生きている者はおりませなんだ」
「そうか……。では三郎は永信さまと一緒に、一足先に寺に戻っておくれ」
「承知いたしました」
沈鬱な顔を俯けている永信の背を押し、馬に乗るように促す。彼は三郎と瑠唯に支えられながら、何とか馬に跨った。
「どうか、住職さま以外にはわたくしのことは内密にして頂きたい」
「ええ、わかっております」
最後にそれだけ交わして、瑠唯は三郎たちの後姿を見送った。
◆◆◆
川下村のすぐ傍には、その名の通り川がある。そのほとりに建てられた小さな御堂が、今回の騒ぎの出どころらしい。
時枝と合流して戻ろうとした時、ふと目に入った御堂の異様さに気が付き、立ち寄ったのだ。
「ここから出たのか……」
中に祀られている像が、真っ二つに割れていた。
「少し前に隣の村といざこざがあったと聞いています。おそらくは、その時の合戦で破損したのでしょうね」
それがきっかけで封が綻び、今日という日にとうとう封印が破れてしまったのだろう。
あの物の怪は酷く村を恨んでいた。彼女はきっと、川を鎮めるための人柱だったのだ。それも自らの子と共に。
「御堂の修繕をしなければなりませんね……」
「ここにはもう何もいないのに?」
雪童が不思議そうに呟く。瑠唯は頷き、独り言のように呟いた。
「人柱になった者のことを、忘れることなどあってはならない……」
例えそこに宿るものが何もなくても、だ。
「ええ、真に。住職さまや村長には、その旨伝えておきましょう」
「お願いします。ではそろそろ戻りましょう」
「はい。いや、それにしても……」
時枝が御堂をじっと見つめてから、瑠唯に視線を向ける。
「祟り神までも祓ってしまわれるとは……。やはり瑠唯さまのお力は素晴らしいですね」
素晴らしいのだろうか。瑠唯にしてみれば食事をしただけである。だから称えられるたび瑠唯は思うのだ。
(……単なる悪食じゃ)