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悪食  作者:
4/26

夜天の娘

 本殿から出ると、刺すような眩しい光に襲われ、瑠唯は反射的に目を瞑った。そのまま胸に手を当て、こみ上げてくるものを吐き出すように息を吐く。そして背後を振り返った。

 瑠唯の視線の先にあるのは、叔母の姿だ。彼女は夜天像に向かい、まだ何かを祈っている。瑠唯は叔母の小さな背を見つめ、決して本人の前では言えない言葉をぽつりと呟いた。


「母上さま……」


 静は、瑠唯を産んだ実の母だった。けれども、静はその事実に決して触れることはないし、瑠唯も彼女を母と呼ぶことを禁じられている。それには複雑怪奇な事情があるのだ。


 事が起きたのは、静が十五の歳の頃。

 ある日、彼女は突然抜け殻のようになってしまい、皆を驚かせたという。そのような前兆も見られなかったし、医者に見せても原因がわからない。何かを聞こうにも、本人は呆然自失の状態であったので、会話をすることもできなかった。

 にもかかわらず、静が唯一自らの意志でしていたことがある。夜になると、必ず宵の宮の本殿に行き、朝になるまで絶対に動こうとはしない、という奇行だった。

 当時宮の主であった大叔母は、奇行の原因に心当たりがあったらしく、産婆を呼び寄せ静のもとに遣わした。結果は彼女の予測通り。静の腹には子が宿っていたのだ。

 静には常に侍女が付き添っていたので、誰かと契ることなどあり得ない。今までの様子からして、これはいよいよ神の子を宿したかと、宵の宮は憂いに包まれたそうだ。

 もちろん憂いには理由がある。黒邊の歴史を辿ると、神の子に関する事例がいくつかあるが、殆どが歓迎できるようなものではなかったからだ。

 自らの力にのまれ、夜を彷徨う怪となりかけた者。力に慄き心を病んだ者。うまく自分の力と向き合い、多くの人々を助けたという者もいたが、大抵の者は本人が望まぬとも周囲に害をなし、悲惨な末路を歩んでいる。大きすぎる力を持った者は悲劇の種にしかならない、という事例でもあった。


 そして残念なことに、憂いは的中した。十月十日を経て生まれた女児は、黒宵夜天と同じ力を宿していたのだ。


 これが周囲に知れれば、この娘は恐れられ忌避されるだろう。彼女が悪意を受けぬようにしなければならない。今までの例からしても、心を健やかに育てなければ、神の子は大成できぬであろう。と、大叔母は考えたそうだ。

 彼女が考えた末に下した決断はこうであった。赤子の出自を隠し、伯父である恒久と正室の子として育てること。――それが瑠唯である。


 当然出自は本人にも秘されていたが、どういうわけか瑠唯には恒久や正室が親だとは思えなかった。決して彼らの態度に問題があったわけではない。正室の方は、瑠唯が物心つく前に亡くなってしまったし、恒久は分け隔てなく子らを扱っていた。けれども、瑠唯は何となく違う、と感じてしまうのだ。

 やがて事実は瑠唯の知るところとなる。人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、大人たちの噂話が瑠唯の耳にも届いたのだ。

 幼い瑠唯は早速恒久に詰め寄り、本当のことを打ち明けてくれるよう必死に頼んだ。最初は馬鹿を言うなとあしらわれたが、泣いて頼む娘に同情したのだろう。恒久は、一つだけ事実を教えてくれた。産みの母は叔母の静である。けれども、決して本人にこのことを言ってはならぬ、と。

 瑠唯は嬉しかった。優しいあの叔母が、自分の母だったのだ。嬉しくて嬉しくて、瑠唯は侍女の目を盗んで静に会いに行った。そして、言ってはならないと釘を刺されたのに言ってしまったのだ。


 ――叔母上さま! 叔母上さまは瑠唯の母上さまだったのですね!


 静は一瞬目を丸くした後、戸惑いの表情を浮かべた。何を言われているのかわからない、そういう顔だった。


「瑠唯は静殿で遊んでいるのじゃ。ままごとをしたいのなら、わたくしが相手をしてやろう。おいで」


 静の傍にいた大叔母は、有無を言わせぬ口調でそう言うと、瑠唯の手を取り静から引き離した。


 瑠唯は大叔母から酷く叱られ、それから全てを教えられた。何故静を母と呼んではならぬかということも。

 神の子を宿した母体は、子を産み落とした後は気を病むか、数日で死に至っている。静のように、何事もなくいられたのは稀であった。しかし――


 ――静殿はそなたを産み落とした後、何とか正気に戻られたが、一連の騒動を全く覚えておらぬ。瑠唯が自らの子だとは知らないのじゃ。だからこそ健やかでいられるのかもしれぬ。不幸中の幸いと言ったところか。よいな、瑠唯。静殿を母と呼んではならぬし、事実を当人に話してもならぬ。刺激すれば、静殿はどうなることやら。瑠唯も静殿を気狂いにしたくはなかろう?


 大叔母の言うことは理解できる。けれど瑠唯は幼すぎて受け入れることができなかった。不幸中の幸い……。瑠唯を忘れたことが幸せだというのか。どうして、何故、酷いではないか……。

 悲しくて悲しくて、瑠唯は静を恨み、避けるようになったのだった。


 全く見当違いな恨みである。不幸中の幸いなどと静が言ったわけでもないし、この件にしても彼女の所為ではない。分別の着く年頃になって、やっとそう思えるようになった。

 今はほんの少しの寂しさと、後悔が瑠唯の胸を占めている。もっと叔母と話しておけば良かった、と。


(虫のいいことじゃな……)


 湧き上がる苦い思いに、ぎゅっと唇を噛みしめる。すると不意に手を軽く握り込まれる感触がして、瑠唯はそちらに目を向けた。

 雪童が己の小さな手で瑠唯の手を握り、瑠唯と同じものを見つめている。雪童、と小さく呼びかけると、彼は視線だけをちらりと瑠唯へ向けた。表情にこそ出さないが、大丈夫か、と瑠唯を気遣ってくれている。不思議なもので、雪童と触れ合っていると、お互いの気持ちが何となくわかるのだ。


「お前は叔母上に挨拶は済ませたのか?」

「とっくに」


 成程。どうやら気を利かせて二人きりにしてくれたらしい。


「言いたかったことは言えなかったようだが」


 肝心な時に駄目な奴だなあ、と思われている。確かにその通りだとは思ったが、同意するのは何となく癪に障った。こちらにも事情があるのだ。


「胸が一杯になって言葉にならないということもあるのじゃ。経験したことのないお前にはわからぬだろうが」

「まあな。それよりも俺は腹が一杯になるほうがいい」

「お子様じゃのう……」


 ふっと笑って瑠唯は雪童を見下ろす。彼は一瞬片眉をあげたが、すぐに口端を釣り上げて、握っていた手をパシリと弾いた。


「俺は大人だから余裕があるし、いちいちむくれたりはしないのだ。浮き沈みの激しい瑠唯の方がお子様だ」

「生意気な。大人だとていつも余裕があるわけではないのだぞ」


 瑠唯は今度こそムッとして、さっきのお返しと言わんばかりに雪童の頬を指で軽く弾いた。大人を自称する彼は、それに怒ることなくけらけらと笑うだけだった。


「はいはい。で、もういいのか?」


 心残りはある。しかし叔母を前にして、うまく伝えられる自信がない。


「うん……。後で文を書く」


 文ならば心を落ち着けて書けるし、素直な気持ちを伝えられるだろう。しこりを残したまま阿須南には行きたくなかった。


「なら行こう。天白にも参って行くんだろう?」

「うん」


 すたすたと歩く雪童の後ろを、瑠唯はゆったりと歩いて行った。




 本殿を出て、その裏手に続く細い石畳を進むと、白木造りの小さな社がある。そこに祀られているのは、黒宵夜天と対をなす天白祥陽(てんはくしょうよう)という神だ。穏やかな夜天とは違い、猛々しく雄々しい姿をしている。

 黒邊には然程重要視されていない神ではあるが、瑠唯は天白に夜天と同じくらいの愛着を持っていた。というのも、実は天白に会ったことがあるからだ。幼い頃のことなので鮮明ではないが、彼と会ったあの時、何があったかということだけは絶対に忘れないだろう。それぐらいに様々なことがあった日だったのだ。


 一人で遊ぶ瑠唯の前に、とんでもないものと一緒に現れた白髪の青年。それから……、色々なことを瑠唯に話してくれて、天白像の前ですうっと消えてしまった。だから彼が天白だと名乗ったわけではないけれど、幼い瑠唯は彼を天白だと信じて疑わなかった。今思うと神にしては少々俗気があったので、天白の眷属だろうかとも思う。どちらにしても、瑠唯にとっては好ましい御仁であったことに違いないが。


(貴方様にまた会える日は来るのでしょうか……)


 天白に祈りを捧げながら考える。

 確か阿須南の付近には、天白を祖とする白陽の民の国があったはず。彼らは今や久世の配下なので、瑠唯が国を訪ねても障りはないだろう。


(落ち着いたら行ってみようか……)


 もしかしたら分かたれた民と和解もできるかもしれない。そう考えると、瑠唯は阿須南行きがほんの少しだけ楽しみになった。


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