叔母との別れ
宵の宮の本殿は常に薄暗い。黒宵夜天は夜を象徴する神でもあったので、雰囲気としては合っていると言えよう。
幼子であれば怖がりそうな暗さではあるが、瑠唯は一度たりとて恐怖を感じたことはない。むしろこの薄暗い中で、か細い灯りに照らされた夜天像を眺めていると不思議と心が安らぐのだ。橙の淡い光の中に浮かび上がる慈悲深い笑みは、子を見守る母や父のようで、胸の裡が暖かくなる。
そんな夜天像が見たくて、幼かった頃、瑠唯はよくこの部屋にこっそりと忍び込んでいた。己の両親に違和感を抱いていたし、寂しさからの行動だった。そして女性とも男性ともつかない夜天像に父母を重ねて縋り、尋ねた。
――どうかお答えください、夜天さま。あなたさまは瑠唯の父上さまでしょうか。母上さまなのでしょうか。あいたい、あいたいのです。
しかし今ではもうそれを尋ねることはない。夜天像に向かい、思うことは日々の安寧を感謝する気持ちだけである。そして今日は別れの挨拶も兼ねていた。
あれから慌ただしく日々が過ぎ去り、才楼での生活も後一日となった。明日の朝には阿須南に出立する。準備に追われ、あっというまの一か月間であった。今は宵の宮で、叔母の静と共に最後のお勤めの最中である。
やがて叔母の唱える祝詞が止み、瑠唯は瞼を開いた。目の前には叔母の背があり、ふと思う。
お年を召されたものだ、と。
若い頃、美しいと評判だった叔母の髪にはちらほらと白いものが混じり始めていた。それもそのはず、彼女はもう三十三になる。生来、然程体が丈夫ではない彼女にとって、高齢に差し掛かった今、日々のお勤めは辛いはずだ。最近では寝込むことも増えてきた。だから先頃の神事を終えた後に、瑠唯が叔母の後を継ぐことになっていたのだ。
嫁ぐことになった今では、それはもう叶わない。宵の宮は代々、黒邊の娘が継ぐというしきたりになっているので、瑠唯がいなくなれば妹が継ぐことになるだろう。しかし叔母が妹を育てきれるのか、それが気がかりであった。
「瑠唯殿、お勤めご苦労様でございました」
祈祷を終えた叔母が、背後で控えていた瑠唯に向き直り、静かに言う。
「お坐りなさい」
「はい」
二人してその場に座り、見つめあう。少しの沈黙の後、叔母が口を開いた。
「あなたと……、こうして過ごすのも最後かと思うと、寂しくなりますな」
叔母が首を傾げて寂しげに微笑む。その癖は瑠唯と同じもので、瑠唯が笑えば、静さまそっくりでございますねえ、とよく言われた。叔母と瑠唯の関係を知る者は、決して口にはしなかったが。
「ええ……」
瑠唯は曖昧に微笑んだ。
叔母は自らの感情を滅多に口にする人ではないし、あまり笑うこともないので、寂しいと言うのは本心なのだろう。けれども瑠唯は、わたくしも、と素直に返すことができなかった。
(叔母上のことは割り切ったではずであろう……)
そのはずだった。しかし、心の奥底で燻っているわだかまりは中々消えてはくれないようだ。叔母には感謝しなければならないのに、とままならない自らの心に辟易した。
二人の間に再び沈黙が降りる。どうにも叔母相手だと話が続かない。普段、必要最低限の言葉しか交わさない所為もあるし、苦手意識が邪魔をする。流れでいえば、今までの礼を述べるべきなのだろう。しかし、ようやく絞り出した言葉は、先程の懸念だった。
「宵の宮は、大丈夫でしょうか……」
「案じなさいますな。千也殿は瑠唯殿に到底及びませぬが、それはそれで教え甲斐がありまする。あの我がまま娘を躾けていくのも、また一興。それよりもあなたはご自身のことをお考えなさいませ」
確かに妹は我が強い。けれども底抜けに明るい面もあるので、叔母も彼女に慰められることだろう。日々の生活にも張り合いが出て、元気がでるかもしれない。そう考えると、わたくしが傍にいるよりも余程良いなと、少しいじけた気持ちになった。
「一国の主の妻ともなれば、気苦労が絶えぬことでしょう。意に沿わぬことでも、決断し、手を下さなければならぬこともあるやもしれませぬ。時には瑠唯殿のお力を行使せねばならぬことも……。あなたのお力は心に左右されるもの。それを心して行かれませ」
叔母の忠告に、瑠唯の心が波立つ。それは輿入れが本格的に決まってから、いつも念頭にある不安であった。
瑠唯には生まれた頃より、妙な力が備わっていた。その力は、瑠唯にとっては己の身を守るものであったが、ひとたび瑠唯が激情に駆られれば他者を傷つけることにもなりかねない、そういう危険な代物だった。
実際、過去にこの力の所為で大切な人を失ってしまったことがある。その時のことを思うと、御するための鍛練を日々行っていたとしても、絶対に大丈夫だとは言い切れないのだ。
「わたくしは、あなたを才楼から出したくはなかった。瑠唯殿は我らが神より遣わされた貴き娘。あなたを守ることも、黒邊の務めであろうに……」
叔母の憂いは尤もだと瑠唯は思う。これから己を待ち受けている環境は、精神的に厳しいものであることは間違いない。その中でまかり間違って完全に理性を失ってしまえば、瑠唯は周囲に害をなす厄災となるだろう。本来ならば、才楼から出ないことが自分にとっても周囲にとっても一番なのだ。
「相手が久世では、仕方なきことにございましょう。わたくしが嫁ぎ、両家の縁を取り持つことで皆にご恩返しが出来れば、と思っております。唯一の気がかりはやはり、わたくしの力ですが……修行と思って久世に身を置くつもりでございます。厳しい環境にあれば、嫌でも心が鍛えられましょう。小夜も雪童もおりますゆえ、草臥れたらあの二人にでも愚痴を聞いてもらい、気を晴らすことに致します」
そう言って、瑠唯は不安を笑い飛ばした。道を変えられる力がないなら、順応するしかないのだ。
「瑠唯殿……」
叔母はそう呟くと、じっと瑠唯を見つめた。彼女の目尻が下がり、唇が優しく弧を描く。まるで慈しむような表情に、瑠唯はどきりとした。
「ほんに、立派になりましたなあ。亡くなられた母君にも今の瑠唯殿をお見せしたいものじゃ……」
湧き上がったのは、ああ、やはり、という思いと、ほんの少しの落胆。
どうも今日は感じやすい。叔母と過ごす最後の日ということで、感傷的になっているのだろうか。
そうだ、これが今生の別れとなるかもしれないのだ。気まずい別れ方はしたくない。きっと離れれば、叔母のことは懐かしい思い出になるはずだ。だから今は笑って別れを言わねば――
「叔母上様」
瑠唯はいつの間にか握りしめていた手を開いて床につき、頭を垂れた。
「今まで、ご指導いただき、ありがとうございました……」
伝えたい言葉は他にもあったはずだったが、胸が詰まって言葉にならなかった。中々面を上げられずにいると、ひんやりとしたやわらかい手が、瑠唯の手を包んだ。
「くれぐれも、ご自身の力に振り回されぬよう。何かあればわたくしに文を」
瑠唯はゆっくりと身を起こした。すぐ傍には先程と変わらない叔母の微笑みがある。全てを忘れてしまっても、彼女はそれなりに瑠唯のことを想ってくれているのだろう。――それで充分だ。
「はい」
瑠唯もぎこちなく微笑み、頷いた。