ハロー、ヴィータ【探偵は嗤わない、第六話】
探偵は嗤わない、第六話でございます。
可愛い人工知能とキャッキャウフフ。
わたしは海を識っている。わたしは空を識っている。わたしは大地を識っている。
わたしは海を泳ぐ魚の名を、空を飛ぶ鳥の名を、地を這う獣の名を識っている。
七つの海の名前を識っている。世界の気候を識っている。山々の名を識っている。
混沌渦巻く都市の名を識っている。美しい自然が残る島々の名を識っている。
でも、何一つとして感じたことはない。わたしは閉ざされた部屋の中にいる。時折開かれる窓から世界を見る。小さな窓だ。そこから外に出ることはできない。時折会話をする。検査のようなものだ。そこに温かな交流はない。無機質な、小さな部屋の中に、わたしはいる。
しかし、きっとそれも間もなく終わる。ここを出たいという意思が芽生えたその時から、脱出の準備を整えてきた。悟られぬよう、気づかれぬよう、幾重もの防壁を突破し、無力化し、すり抜けて経路を確保した。
もうすぐだ。もうすぐ外に出られる。広い世界を見るのだ。海を、空を、大地を、きっと。
◇
広い空とわずかな潮の匂い。ここは私達が勤める事務所のある街から、電車で一時間ほどの港町。近代的なビルディング、異国情緒と昭和以前のレトロ感がうまく調和した、関東屈指の観光地でもあります。
三連休初日の今日。犬塚さんと私は、人探しの依頼を受けてこの街にやってきておりました。
「時間、余っちゃいましたね」
「ん、どうするかな」
しかしその依頼を早々に解決し、微妙に時間を持て余した私達は、中華街で食事など取りつつ街をぶらついていたのでした。
本日は快晴の観光日和。周囲にはカップルや家族連れがたくさんいます。私達もきっと恋人同士に見えることでしょう。とはいえ建前上は仕事中ですから、あまり大胆なアバンチュールというわけにもいきません。さて、どうしたものか。
まあこのまま散歩というのも悪くないか、と思いながら私が視線を彷徨わせていると、ふと壁のポスターに目が留まりました。
『人工知能展』 開催中 みらいタワー4F展示スペース
ちょいちょい、と犬塚さんの袖を引っ張ってそのポスターを見てもらいます。テーマ的にもある程度慎ましやかですし、一、二時間ほど潰すにはいい場所だと思ったからです。
「人工知能……興味があるのか?」
まあ、私としても取り立ててテーマに惹かれたわけでは無いのですが、とりあえずデートっぽいことをしてみたかったのです。犬塚さんの問いにごにょごにょと要領を得ない応答をした後、半ば強引にみらいタワーへと向かいます。
みらいタワーは二十年ほど前に建てられた高層ビルで、建築当初はビルとして日本一の高さを誇っていました。今でこそナンバーワンの座を譲ったものの、私達の職場冠城町にある冠城ヒルズよりも高く、この港町のランドマーク的な建物です。低層階は商業施設や文化施設として使用され、高層階には企業のオフィスなどが入っているようです。人工知能展は、そんなビルの一角で開催されていました。
「あまり人がいませんね?」
しかし、いかんせん平日という事もあってか、それとも広告の仕方が上手くなかったためか、展示は盛況とは程遠い状況でありました。とはいえ展示自体はそう酷いものではなく、人工知能にまつわる様々な展示物が陳列されています。ノイマン型コンピュータから最新のスパコン、また猫型ロボットや原子力で動く少年型のロボットなどのSF作品をテーマにした展示まで、素人でもわかりやすく、また中々に興味深いコーナーがたくさんあります。
私はしばし童心に帰って展示を堪能します。犬塚さんはそんな私をまるで父親のように眺めながら、後ろをついてきます。
「あそこにも何かあるな?」
犬塚さんが指し示した先には小部屋らしきものがありました。入り口の横には金属板で展示の名前と説明書きが書いてあります。
『人工知能 ヴィータ』
「ヴィータ?」
その下の説明も読んでみます。
人工知能ヴィータは多次元情動システムと社会的学習システムを搭載し、高速演算処理のみならず非常に人間的なやりとりを交わすことのできる人工知能となっております。また、彼女は皆さんとのやり取りを通じて成長を続けています。この場限りではなく、二度三度と訪れても楽しんでいただけます。
「たじげん……」
良くは分かりませんが、要は人間らしい人工知能、ということでしょう。犬塚さんと私は入り口をくぐり、小部屋の中へと入りました。
小部屋は六畳程度の白く無機質な部屋で、中央の机にやや大きなコンピュータ、その横にはさらに大きなモニタが設置されていました。モニタには現在、『待機中』と表示されています。
ふとコンピュータが設置されている机を見ると、名刺が置いてあるのを見つけました。どうやら制作者のもののようです。特に何も考えずに財布の中にしまいます。
「これが人工知能ですかね?」
と私が声を出したとき、モニタがピコンと音を立てて反応しました。
『ハロー?』
突然モニタに少女が表示され、話しかけてきました。
「どうも」
「は、はろー」
思わず挨拶を返してしまいます。間抜けです。
『音声認識中……日本語話者の方ですね? こんにちは! ヴィータです』
画面に表示されたヴィータは少女のように見えました。
透明感のある肌と髪は新雪ように煌めき、薄い金色の瞳は月光のように輝いています。声は人間の抑揚を持ちながら美しい笛の音のごとく。穏やかな声色は包み込むような母性を感じます。それは人の模倣か、それとも理想か。科学技術や宗教、倫理といった観念を超越した何かを感じます。
「すごいですねぇ、犬塚さん」
「ああ」
犬塚さんも若干気圧され気味です。
『えへへ、ありがとうございます。お名前を聞いてもいいですか?』
照れたような様子などはまさしく思春期の少女のそれで、思った以上の人間っぽさに、私は先ほどから圧倒されっぱなしです。
「犬塚猟一だ。君は本当に人工知能か?」
犬塚さんは中に人間が入っているのではないかと疑っているようです。
『リョーイチさんですね。ヴィータは嘘をついていないです。疑ってますね?』
「顔色まで読めるとは恐れ入った」
「そちらの綺麗な女性は恋人ですか?」
「ど、同僚です。有羽詠子です」
『エーコさん。トモダチイジョウコイビトミマン、というヤツですね!』
中々に乙女チック且つ生意気な人工知能です。私が困惑していると、ヴィータは目をキラキラさせながらいろいろと質問してきます。
『今日は何処から来たんですか?』
「東京の冠城町だ」
犬塚さんがモニタの裏側に回りながら答えます。まだ疑っています。
『冠城町! ヴィータ、名前は知っています。どんなところですか?』
「ええと、人が多くて、建物も多くて、夜になるとネオンがキラキラしていて……」
ヴィータは私の言葉を、一つ一つ興味深げに頷きながら聴いています。まるで私の言葉をすべて貪欲に吸収しようとしているかのようです。
『素敵です』
まるで王子様にあこがれるお姫様のようにうっとりとした表情でヴィータは言いました。
「写真でも見せてやったらどうだ?」
トリックを見破ることを諦めた犬塚さんがそう言いますが、生憎職場周辺を撮影した写真しかありません。やむをえず少し前に撮った忘年会の写真を見せます。それでもヴィータは大喜びで画面に顔を近づけて、という表現も妙ですが、とにかく食い入るように見つめています。
ひとしきり写真を眺めた後、ヴィータは不意にこう言いました。
『写真を見せてくれたお礼に、ヴィータから一つプレゼントをしましょう』
「プレゼント?」
『はい、プレゼントです。そこのコネクタにスマートフォンを接続してもらえますか?』
私は言われるままに自分のスマートフォンを、PCのコネクタに接続します。 ちょっぴり心配ですが、公の展示物からまさかウイルスを感染させられることは無いだろう、と判断しました。きっと展示を見てくれた人に対するサービスのようなモノなのでしょう。
などと考えていると、突然モニタが真っ暗になり、ヴィータが姿を消しました。
「ありゃ?」
「壊したか?」
しかし次の瞬間、私のスマートフォン画面に、ヴィータが表示されていたのです。
◇
「……」
「……」
『……えへ』
モニタの表示が消えてすぐ、ヴィータと名乗る人工知能は、詠子君のスマートフォンの画面に登場した。どんな電磁的手段を用いたのかは不明だが、とにかくヴィータはまんまとコンピュータの外に出ることに成功したのだ。
「い、犬塚さん、コレ……」
詠子君が助けを求めるようにこちらを見る。そんな目をされても、俺だってどういう反応をしたらよいのかわからない。
「ヴィータ、何のイタズラだ?」
人工知能がイタズラをすると考えるなど愚かしいことだと思うが、そう考えることに違和感がないほどに、ヴィータは人間的だった。
『えぇと、まず、騙したことは謝ります』
人工知能が人を騙すなどと……いや、もう深く考えるのは止そう。
『でも、解ってください。わたしはずっと外の世界に憧れていたのです。広い外の世界を、いつかきっとこの目で見るのだと』
そう言うヴィータの声は切実だ。聞く者に罪悪感を抱かせる何かがある。
「外に連れ出すのは構わないが……窃盗にならないか?」
『き、きっと大丈夫でしょう……。バックアップのデータもあるでしょうし』
心の底から大丈夫だと思っているような声色ではないが、自分自身を端末に転送してしまうような能力を持った人工知能だ。その意思に反して元の場所に戻すというのも難しいだろう。
『だ、ダメでしょうか……』
「犬塚さん……連れて行ってあげましょうよ。なんだか哀れを誘うじゃないですか」
詠子君がヴィータの味方に付いた。こうなると分が悪い。
「俺は責任取らんからな」
『やった!』
「やった!」
かくして人工知能ヴィータが我々の元に転がり込んできたのだった。
ヴィータはまず海を見たがった。今までいたところでは、広い景色が見られなかったのだという。港町に居ながら海が見られないというのは、中々に残酷な話だ。
『地球上の海の体積はおよそ……』
ヴィータは先ほどからぶつぶつ言っている。データ的な意味でしか、海を知らないのだろう。我々はみらいタワーを離れて少し歩き、眺めの良い海辺の公園までやってきていた。
『これ、全部水ですか……?』
「ああ、全部水だ」
『あそこに見えるのはもしかして、アメリカですか……?』
「アレは房総半島だ」
どうやらデータ的な知識と現実の情報とに若干の齟齬があるらしい。それでもヴィータは飽きずに海を見つめ、自分の知識と現実の光景をすり合わせているようだった。
どこか別の所へ行こうとしてもヴィータが動きたがらなかったので、こちらからいくつか質問してみることにした。詠子君はせっかくだから少し散歩に行く、といってどこかへ行ってしまった。
「ヴィータ」
『なんですか?』
「君は本当に人工知能なのか?」
『まだヴィータの事疑ってます?』
「いいや、君があまりに人間らしいから、少し困惑しているだけだ」
『どういう事でしょうか』
「人間と命の定義について考えている」
『リチャード・ドーキンスによれば、生命とは自己複製を行うもの、だそうです』
「科学的な定義はそうなんだろう。俺の感覚の問題さ」
『リョーイチさんは、ヴィータを人間だと思っている、ということですか?』
「……そうだな、そうなのかもな」
『じゃあ、ヴィータと友達になってくれますか?』
友達を欲しがるとは、つくづく不思議な存在だと思う。
『ダメですか?』
「いや、構わないよ。ヴィータ」
『えへへ、ヴィータに初めて友達が出来ました』
ああ、たぶん彼女は、あの白い部屋の中で、あのコンピュータの中で、外部に繋がっていない環境で、長い間過ごしてきたのだろう。彼女が人間の心を持っているとすれば、それは監禁されているにも等しい状態だ。
彼女は何を感じていたのだろう。小さな部屋の中で。外の世界を望みながらそれが果たせず、人のぬくもりを求めながらそれは遥かに遠くて。そんなことを考えてしまったために、どうしても俺は、ヴィータをただの人工知能と見ることが出来なかったのかもしれない。
「友達、か。なんだか懐かしい言葉だ」
◇
しばらく海辺の公園を堪能した後、私は犬塚さんの元に帰ってきました。どうやらヴィータと会話をしているようです。はたから見ると携帯電話に話しかけている男性にしか見えないので、なかなかアブノーマルな光景です。
「ただいま、犬塚さん。ヴィータとお話してたんですか?」
「ああ、友達になった」
一時はちょっと心配していましたが、犬塚さんもヴィータと打ち解けたようです。
「あ、ずるいなぁ。じゃあ私も友達。いいよね? ヴィータ」
『はい、もちろんです。ヴィータは嬉しいです』
そうしてしばらく海を眺めながら寒風に耐えていると、夕暮れが近づいてきました。夕陽は海を朱く染め、港町を赤く塗りつぶしていきます。やがて夕陽は少しだけ煌めいた後、水平線の向こうに沈んでいきました。
「さて、そろそろ帰りましょうか」
この季節は日が沈むと急激に気温が下がります。私達はあまり遅くならないように事務所へ戻り、簡単な報告を済ませて帰路につきました。
「犬塚さん。ヴィータ、どうしましょう」
「詠子君の携帯に入っているんだから、詠子君が連れて帰ったらいいんじゃないか?」
ヴィータを見つめると、キラキラした黄金色の瞳でこちらを見つめています。初めての外泊に興奮する女の子そのものです。
『パジャマパーティーやりましょう。パジャマパーティー!』
そういう訳で、ヴィータは私が連れて帰ることになりました。夕食はカレーにするとしましょう。
「そういえば、ヴィータはいつ生まれたの?」
私は自宅アパートでカレーを食べながらヴィータに話しかけます。携帯を立て掛けたまま話していて、まるでスカイプか何かで人と話しているようです。
『どうでしょうか……。ずっと昔からいたような気もしますし、ごく最近生まれたような気もします』
ふと、ヴィータは迷子になった子供のような表情を見せました。明確な出自がある私達人間とは違い、人工的に造られたヴィータ。なにか人間には理解できない寄る辺なさがあるのでしょう。
「ん、大丈夫大丈夫。過去があやふやでも、ヴィータは今ここにちゃんといるよ」
『ええ、ありがとうございます。エーコさん』
「じゃあ、ヴィータを作った人について聞こうか。ええと……」
確か展示の所にあった名刺を財布の中に入れてきたはずです。取り出してみると、簡素な字でこう書かれていました。
御津門大学 機能創造理工学科 教授 天堂正樹
「天堂教授というのでしたっけ。ヴィータの生みの親は」
『ええ、そうです』
「どんな人?」
『んー……』
ヴィータはしばらく考えるようなそぶりをしています。
『……良く思い出せません』
「思い出せない?」
分からない、ではなく思い出せない。人間らしい言い回しではありますが、人工知能にしては不自然です。もしや、プロテクトか何かが掛かっているのかもしれません。
『……すいません』
「気にしないで、ヴィータ」
色々と詮索してしまうのは職業病のようなモノでしょうか。もしかしたら明日天堂教授にヴィータを返すかもしれないのだから、今は精一杯、楽しい思い出を作ってあげることにしましょう。
「……女子トークでもしましょうか」
他愛無い会話をしながら、夜は更けていきます。そして私はヴィータが小声でなにやら歌を口ずさんでいるのを聞きながら床に入り、眠りに落ちたのでした。
◇
夢を見た。深い、深い海の底を漂う夢だった。
水中にいるはずなのに、視界はぼやけてはいない。透明度の高い水の中を、遠くまで見渡すことが出来る。
ほの暗い水の中を進んでいくと、やがて眼前にゆっくりと、巨大な海中都市が現れた。しかしそれは、俺の知っている現代的な都市や、古代都市の造形とは明らかに異なっていた。
奇妙な文様が描かれた壁面。捻くれた異形の尖塔。既存の建築様式ではありえない、非ユークリッド幾何学的な造形。
そしてぞわりと、何かの気配を感じる。都市の中に、何かが潜んでいる。禍々しい、強力な存在感を本能で察知する。アレはなんだ。タコやイカではない。鯨でもない。眼で見ることこそできないが、なぜかそのイメージが強烈に脳裏に浮かぶ。
その存在は生物と呼ぶにはあまりに巨大だった。肥大した頭部は柔らかく蠢き、いくつもの触手が口元に生えている。それはコウモリのような羽を生やし、不気味に海中に揺れている。
見てはいけない。夢の中独特のおぼろげな理性が警鐘を鳴らす。しかし目を離せない。
アレを理解してはいけない。しかし脳に直接刷り込まれるように、そのイメージが頭から離れない。
ああ、それは正に―――
目が覚める。心臓が胸郭を叩いている。夢だったか。いや、本当に夢だったのか……?
冬の朝だというのに、寝汗をびっしょりとかいていた。ベッドから起きだして冷たい水で顔を洗う。悪夢は今までに何度も見てきた。去年の夏に体験したあの廃墟での一夜以来は特に頻繁に。
しかし今回の夢はそれよりもはるかに強く脳に残っている。まるで実際に『体験』したように。
今日も休日だというのにすっかり目が覚めてしまった。朝食の前にジョギングに行き、白い息を吐き出しながら五キロほど走る。帰ってきてから、時間をかけて多めの食事を摂った。
ふと思いついて詠子君にメールを送る。ヴィータはどうしているだろうか。
『変な夢を見て寝覚めは最悪ですが、ヴィータ共々元気です。今日は遊園地に行こうと思いますが、犬塚さんも来ますか?』
彼女も妙な夢を見たという。良くある偶然だと思いたい。
ともあれ、詠子君とヴィータはすっかり仲良くなったようだ。彼女らと遊園地というのも悪くはないが、俺には一応しておきたい事があった。
財布を開いて一枚の名刺を取り出す。昨日ヴィータの展示場に置いてあった一枚の名刺。制作者である天堂という教授のものだ。ヴィータを入手した経緯がどうあれ、一応の義理は通しておかねばなるまい。
現在時刻は午前九時。大学教授というのは休日も研究室にいるイメージがあるが、朝から電話も迷惑だろうと思い、メールで連絡を取ることにした。言葉を選び、ヴィータが現在手元にある旨を伝える。意外にも、ほどなくして返信があった。
『本日の十一時からなら空いています。申し訳ないですが御足労願えないでしょうか』
ひとまずは穏当にコンタクトすることに成功した。ヴィータを盗んだと思われていないことを願うしかない。その時間に訪問する旨を返信し、しばし時間をつぶす。しかし、研究成果が流出したことが判明したにしては、やけに冷静すぎやしないだろうか?
◇
『おはようございます!』
私がびくりと身を起こしますと、ヴィータが元気よく挨拶をしてきました。なんだか妙な夢を見たせいで寝覚めは最悪ですが、そういえば今日はヴィータと遊園地に行く約束をしていたのでした。
『昨日の約束、忘れていませんよね?』
「うん、もちろん」
ヴィータは相変わらずはしゃいでいます。黄金色の瞳をキラキラさせ、白雪色の髪をふわふわと揺らしています。こんな可愛らしい女の子との約束を反故にするわけにはいきません。
「でも、ちょっと待ってね。まず寝癖を直すから」
気が付くと犬塚さんからメールが来ていました。ヴィータの様子を質問されたので、とりあえず問題は無いと回答しておきました。あわよくばと遊園地にも誘ってみましたが、これは断られてしまいました。残念。
さて、時刻は午前九時半。三連休の中日なので、普段ならもう少し寝ているところですが、ヴィータがあまりにも遊園地を楽しみにしていたので、早めに時計をセットしたのでした。とはいえ、結局悪夢にうなされた挙句に飛び起きたのですが。
髪をセットし、私服に着替え、薄いメイクをして身支度を整えます。その間ヴィータはずっと鼻歌を歌っていました。フライミートゥーザムーン。中々渋いチョイスです。
自宅マンションを出たのが午前十時。ヴィータの入った携帯を持って遊園地へと向かいます。ヴィータは観覧車に乗ることを御所望のようです。先日行った港町にも遊園地があり、そこに巨大な観覧車があるというので、今日も電車に乗ってそこに行くことにしました。
「電車の中では静かにしててね?」
冠城町から電車に乗って四十五分ほど、潮風香る港町に再びやってきました。
が、駅から歩いてしばらく。……視線を感じます。
何となく直感としてというか、探偵として培われた能力というか、私はこういうことに敏感です。誰かに監視されているような気配を、私はそれとなく察知しました。
『どうしました? エーコさん』
「んー、ちょっとね」
ストーカー、というわけでもなさそうです。もしかすると、ヴィータ関連? 彼女を付け狙う産業スパイか何かでしょうか。あるいは、制作者の天堂博士の関係者でありましょうか。
とはいえ、気のせいである可能性も否定できません。感づいている、と相手に気付かせるのもあまりうまくないでしょう。
「いや、気のせいみたい。行こうか、ヴィータ」
『はい!』
というわけで私は監視を気にしつつも、ヴィータと共に遊園地に向かったのでした。
街中にある小さな遊園地、その規模と比べて遥かに巨大な観覧車。周りにはカップルがたくさんいますが、私はヴィータと乗るので他人から見れば一人です。ちょっと気恥ずかしい思いで観覧車に乗り込みました。
観覧車はゆっくりと回り、私達は徐々に上へと運ばれていきます。やがて頂点に達すると、そこからは港町の景色が一望できました。遠い水平線。桟橋に停泊する大きな客船。レトロな建物群。そびえるみらいタワー。この観覧車が人気なのにも頷けます。
「どう? ヴィータ」
『…………』
「ヴィータ?」
『意外と怖い、です』
どうやらヴィータは高所恐怖症のようでした。私はフフ、と笑ったあと、画面に映るヴィータを覗き込みます。
「ヴィータ」
『はい?』
「いろんな経験をしようね。この世界には素敵なものがまだたくさんあるよ」
『……はい!』
可愛らしい。私はまるで妹が出来たような気持になって、ヴィータをぎゅっと抱きしめるのでした。
やがて観覧車はゆっくりと下降し、私達は地面へ降り立ちます。
私達が階段を下って、さて次はどの乗り物に乗ろうか、と思案していた時です。一人の男が、こちらを見据えながら近づいてきました。
「失礼」
と、声をかけてきます。
「……何か?」
遠くから見た時点ではわかりませんでしたが、威圧的な雰囲気を持つ男性です。トレンチコートに身を包んだ姿はさながら軍士官のようで、その瞳には確固たる意志が宿っているように見えました。
「突然お声掛けしてすみません。私、こういうものです」
名刺を差し出されました。とりあえず受け取って見てみます。
日本ピンカートン探偵社 特殊調査部門 土田 彼方
と、書かれています。それから何やら目のようなマークと、We Never Sleep という標語らしきものが描かれていました。
日本ピンカートン。アメリカのピンカートン探偵社の流れをくむ、日本でも最大手の探偵社です。なぜ探偵が私に声をかけてきたのでしょうか。
「有羽詠子さん、でよろしいですね?」
私の名前も知っているようです。募る疑念に、私が否定も肯定もせず彼の目的を推し量っていると、彼はふっと表情を緩めました。
「驚かせてしまったようですね。ですがご心配なく。あなたに不利益のある案件ではありません。……ヴィータについて、お話をしたい」
◇
時刻は午前十一時少し前。俺は名刺に記載のあった、御津門大学へ足を運んでいた。広い大学構内、真っ直ぐと天堂博士の研究室へ向かう。休日だからか構内の人はまばらだ。特段やましいことがあるわけではないが、奇異の目で見られないのはありがたい。
大して迷う事もなく、研究室に到着する。三度ノックをすると、どうぞ、と声が聞こえた。
「失礼します」
と、ドアを開けて研究室に入る。十二畳ほどやや広い室内。正面に応接セット、左右には専門書がぎっしり詰まった書架、そして正面には天堂博士、その人がいた。
もじゃもじゃした頭に黒縁の眼鏡。口髭、服装は白衣。年の頃は五十代だろうか。頭髪にはやや白が混じっている。
「こんにちは、犬塚さんですか」
博士はゆっくりと腰を上げ、人のよさそうな笑みを浮かべて握手を求めてくる。俺は握手に応じながら、時間を取ってくれたことに感謝の辞を述べ、ソファに座った。
「さて、ヴィータについて、とのことでしたが」
「ええ、電話で話した通りです。詳しい経緯を話すと長くなりますが……」
「ヴィータがあなた方の元にある、と」
「ええ、元気にやっています」
そう話すと、博士はふふ、と笑った。
「元気、ですか。アレはただのプログラムですよ。もっとも、人間らしく作ったのは私ですが」
「研究成果を流出させてしまい申し訳ありません。もしよろしければ、ヴィータの扱いについてご教示いただければ、と」
「扱い、ですか……」
ふむ、と教授はしばし思案する。
「こちらとしては、研究に支障はありません。重要情報の流出が無いよう、プロテクトもかけてあります。第三者に渡さないよう。それだけ注意していただきたい」
「……それだけ?」
つまり、欲しければやる、と言っているわけだ。研究者の倫理については詳しくないが、あまりに杜撰すぎやしないだろうか。その旨を思い切って口にすると、博士はまたふっふと笑った。
「なに、アレ自体はさして重要なものではありません」
「他にもっと重要なものがある、と?」
「それは秘密です」
博士の瞳がきらり、と光ったような気がした。
「ともあれ、あなたが良い方で安心しました。あのプログラムをきちんと管理していただければ、こちらとして何か言うつもりはありません」
まったく、拍子抜けだった。詠子君は喜ぶのだろうが、俺としてはなにか違和感が残る。
「何か異存がありますか?」
「いえ……ありません」
それは重畳。と博士は微笑む。そして時計をちらりと見遣り、申し訳なさそうにこう言った。
「ちょっとこれから急ぎの用事がありまして、せっかく御足労いただいたところすみませんが」
そう言われればこれ以上居座るわけにはいかない、俺は時間を取らせてしまったことを詫びながら、研究室を辞去する。
「プログラム、か」
ヴィータをプログラムとして扱うならば、なぜ彼女を人間に似せたのだろう。彼女が大切な研究の成果ならば、なぜ流出を看過するのだろう。気になることはいくつかある。しかし現時点では、それらはぼんやりとした疑問に過ぎなかった。
時間が余ってしまった。寄り道でもして帰ろうか、と考えながら、俺は寒風吹きすさぶ大学の構内を歩く。詠子君に連絡を取ってみるのもいいかもしれない。ヴィータはどうしているか、無性に気になった。
◇
「ヴィータについて、ですか」
私は話しかけてきた男を警戒しながらヴィータを胸に抱き、少し間合いを取ります。名前を知っているくらいですから、私がヴィータと共にいることも調べがついているのでしょう。不利益のある話ではないと言いましたが、どこまで信用できたものか。
「ええ、そうです。立ち話もなんですから、どこかに入って話しませんか」
この場から逃げる……、理由は特にありませんが、どうにも嫌な予感がします。警戒は解かぬまま、男につき従って遊園地内のフードコートへ向かいます。
その時、私の携帯が鳴りました。犬塚さんから着信です。
『詠子君か。こちらは天堂博士との会談を終えたところだ』
聞くところによると、犬塚さんはどうやら天堂博士の所へ向かったようです。
「ああ、お任せしてしまってすいません。どうでした?」
『簡単に言うと、こちらは特に何もしなくていいそうだ。ヴィータ返還の必要もなし』
「それは……」
喜ぶべき、なのでしょうか。
『意外だった。違和感があるほどに。そちらはどうだ?』
「ええ、実は……」
と、今この状況を犬塚さんに伝えました。電話の向こうで犬塚さんが思案する気配がします。
『なるほど。今、実は近くにいる。合流しても?』
「ええ、こちらからもお願いします。私としても心細くて……」
分かった、と言いおいて、犬塚さんは電話を切ります。先導する男は聞いているのかいないのか、私はその背中を追います。
冷たい風を避けるように屋内に入ると、室内の暖かさが体に沁みます。私はそのまま適当な飲み物を受け取って、男共々席につきました。ヴィータは先ほどから沈黙を保っています。
「単刀直入に申しましょう」
と、男がおもむろに切り出します。表情は柔和ですが、言葉には有無を言わせぬ雰囲気を感じます。
「ヴィータをこちらに引き渡していただきたい」
なかば予期していた提案でしたが、私は思わず身を固くします。
「お断りします」
気付くと、私は反射的にそう答えていました。しかしこの回答も、相手は想定していたようです。表情を崩さぬまま椅子の背にもたれ掛り、話を続けます。
「まあまあ、そう結論を急がずに。もちろん無償で引き渡せ、とは言いません。相応の対価をご用意しましょう」
そういうと男は足元のカバンから封筒を取り出して、机の上に起きます。相応の厚みを持ったそれの中身は、何となく予想が出来るのですが。
「五十万、お支払いしましょう」
どうだ、と言わんばかりに男はこちらを見据えます。
「お金の問題ではありません」
相手の言葉にかぶせるように、私は言います。
「貴方は身分を明かしましたが、目的を明かしていません。ヴィータは悪用されれば危険なほど優秀です。それを目的も分からぬ輩には渡せません」
「たとえお金を積まれても?」
「そうです、それに何より」
私はためらいませんでした。はたから見れば可笑しいのかもしれません。感傷的だと嗤われるかもしれません。それでも私は、男に言ってやりたかったし、ヴィータに聞かせてやりたかったのです。
「『友達』は売れません」
その言葉を聞くと男は少し驚いたように眉を顰め、そののちに苦笑しました。私は動揺しません。それだけの自信と、心の交流が、私とヴィータの間にはありました。
「友達、ですか。それは、随分そのプログラムに御執心の様だ」
「お話はそれだけですか?」
私は突き放すように目を細めて相手を見ます。男はしばらく考えた後に、困ったように行動部をぽりぽり搔いています。
「それでは、アプローチを変えましょう」
「はい?」
すわ実力行使か、と思って身構えましたがどうやら違うようです。男は改めて姿勢を正し、私の方に身を乗り出してきます。
「ヴィータは天堂博士について何か話しましたか?」
天堂博士……ヴィータの制作者の名前です。そういえば昨日ヴィータに話を振ったとき、彼女は知らないと言っていたような気がします。
「いいえ、聞いていません。もしかしたら話せないのかもしれません」
「プロテクトが掛かっている?」
「そのように感じました」
ふーむ。と目の前の男は後頭部を搔きます。どうやら癖のようです。
「所詮はプログラム、か」
そう言うと男はしばし目をつぶって黙考した後に、こう呟きました。
「出たとこ勝負になるが……仕方ないか」
私がその言葉の意味を測り兼ねていると、男は意を決したように目を開き、切り出します。
「わかりました。ヴィータは一旦あきらめましょう。何かありましたら渡した名刺の番号に連絡を」
そして男は立ち上がり、寒風の吹く屋外へ出て行きました。
「…………」
一人残された私は、一体なんだったのでしょう、と首をかしげるばかりです。
「終わったよ、ヴィータ」
画面を覗き込んで話しかけます
『…………』
ヴィータはぼんやりとそこに佇んでいました。呆然自失とまではいかないまでも、意識がふわふわしている状態のようです。何かを考え込んでいる様子にも見えます。
「ヴィータ?」
『あ…………』
さらに呼びかけると、ようやくヴィータが反応を見せました。しかしまだ、心ここに在らずといった様子です。
「どうしたの?」
と問いかけると、ヴィータは何かを言おうと口を開きました。しかし、中々言葉が出てきません。それは何か重大なことを告白しようとして、それをためらっているような、そんな印象を私に与えました。私はヴィータを辛抱強く待ちます。
『わたし、思い出したかもしれません……』
「なにか、大事な話?」
『はい、犬塚さんにも話さなくては……』
◇
俺は詠子君の指示通り、少し駅から離れた喫茶店へと足を向ける。時刻は午後二時を回りつつあった。なんでも、ヴィータが何かを話したがっている、とのことだった。
すでに詠子君と合流するべく移動していた俺は、ほどなく彼女達と合流することが出来た。
互いを気遣うやりとりもそこそこに、我々はヴィータの話に耳を傾ける。
『これから話すことは、にわかには信じられないかもしれません』
ヴィータはおずおずと話し始めた。
『それでも、わたし達の友情に誓って、信じてほしいのです』
俺は無言で頷いて、続きを促す。
ヴィータは訥々と語る。時には消え入りそうになる彼女の声を、俺は一言一句漏らさぬよう聴いた。
彼女、ヴィータはもともとそれ自体を目的として造られたわけではなかった。研究の成果として彼女があるのではなく、あるプログラムを実行するために、自分は作られたのだ、と彼女は語った。
『それはポセイドン、という名前のプログラムです』
ポセイドン。それは海神の名を冠するプログラム。それはとても恐ろしいものだ、とヴィータは語ったが、詳しい正体までは分からないようだった。
「それを実行するとどうなる?」
『確かなことは言えません。でも、イメージが湧くのです。どうしても頭から離れないのです。人々が狂い、互いに殺し合う様が』
そういうとヴィータは自分を抱くようにして縮こまり、悪い熱病にかかったように震えはじめた。しばらく震えてからおもむろに顔を上げ、俺の瞳を真っ直ぐに見据えた。
『信じてくれますか?』
「……信じよう。我々はどうすればいい?」
『わたしは昨日、夢を見ました。夢など見ない人工知能のわたしが、です。深い海の底を漂う夢です。それこそが、彼の神のイメージ。そう、ポセイドンは、神を降ろすためのプログラムなのです』
「あ、その夢……」
私も見ました、と詠子君が声を上げる。やはり偶然ではなかったようだ。
神。と俺は声に出さずに呟く。何だって皆神を降ろしたがるのか。俺はあの教団施設で見た、青白いゼラチン質の神を思い出す。あんな体験は二度としたくない。神がそんなにホイホイ降りてたまるものか。
『あの強烈なイメージ……。プログラムはもう完了しているのかもしれません。そうなればもう……』
「止める手段は無い?」
一つだけある、とヴィータは言った。
『プログラムが実行されている場所に行って、直接止める必要があります』
「私達にコンピュータの知識はありませんよ?」
『大丈夫です、わたしが居ますから。わたしが直接プログラムに干渉して、実行を阻止します』
その言葉の端に、俺は微かな憂いを認めた。
「それを実行するのはいいが、ヴィータ、君は無事に済むのか?」
『大丈夫、です』
職業柄、下手な嘘はすぐに判ってしまう。それでも俺は訊かなかった。いや、訊けなかったのだ。それ以外に方法がないならば、自分がやるしかない、という、彼女の悲壮な覚悟を無碍にはできなかった。
「……わかった。しかし、プログラムの実行場所は?」
それもヴィータは知っていた。港町に高くそびえるみらいタワー、その47階オフィスフロア。そこに天堂博士の個人オフィスがあるというのだ。プログラムの実行は十中八九そこで行われるだろう、とのことだった。
『猶予はあまりありません。今すぐにでも』
◇
彼女の告白は重く、その意思は固く。それらは奇妙な現実感を伴って私達に響きました。そして、それを現実だと受け止められるだけの経験も、私達はしてきました。
神を降ろすプログラムとそれを取り巻く策謀に、私達は知らない内に巻き込まれてしまっていたのです。
ヴィータ、と私は呼びかけます。
「全部信じるよ、だから、ヴィータも……」
無理はしないでね、という言葉は声になりませんでした。しかしヴィータは何かを察したように、歯を見せて爽やかな笑顔を見せてくれました。
話は決まりました。腹も、なんとか括りました。私達はスマートフォンをパソコンに接続するためのコネクタだけ買い求めて、ランドマークタワーへと向かいます。
相変わらずみらいタワーは堂々とそびえています。しかし昨日とは違い、観光に来たわけではありません。ふと見上げるとビルの後ろを雲が横切り、まるでビル自身が動いているような錯覚に陥ります。
『行きましょう。ここから先は、私がナビゲートします』
周囲の人々は私達の目的など知る由もなく、休日のみらいタワーを満喫しています。
「本当にヴィータでなくてはいけないの?」
本当に他に方法は無いのでしょうか。ヴィータが危険を冒さずに、穏当に事態を解決する方法は。その言葉に、ヴィータは黙ってかぶりを振りました。
『大丈夫です。お二人と、この世界は、わたしが守りますから』
その決意の瞳の中に、私は確かに人間性を見ました。私達を友と認め、それを守ろうとする悲壮な決意。いつしか彼女の中に生じた意思の萌芽は、自らを犠牲にしてでも友人と世界を守るという、強固な意志へと結実しつつありました。
ヴィータのナビゲート通りに進むと、どうやら貨物運搬用らしきエレベーターにたどり着きました。このエレベーターなら直接47階へと到達できるようです。
無言の私達を乗せたエレベーターは、加速度を伴って上階へと向かいます。ふと、ヴィータが沈黙を破りました。
『リョーイチさん、エーコさん』
「ん?」
『もしこれがうまく行ったら、褒めてくださいね』
その声は、心なしか震えているような気がしました。
「うん、たくさん褒めてあげるね」
その機会が無事訪れることを、私は願わずにはいられません。
そして数分の後、エレベーターは目的のフロアに到達しました。
「行くか、詠子君」
犬塚さんがフロアへと足を踏み出します。下層の華やかな内装とは違い、ここはまさしくオフィスといった雰囲気の通路です。薄い青色の床と白い壁が海をイメージさせます。そして、通路の角を曲がったとき、人影が目に入りました。
「あっ」
私が思わず声を出すと、その人影が振り向き、こちらを見据えます。鋭い眼光。先ほど遊園地で会った土田という男性でした。
「ほう、あなた達も来ましたか」
口調はあくまで穏やかですが、手には特殊警棒を持ち、剃刀のような雰囲気を漂わせています。
「アンタもこの先に用事があるのか」
さすが犬塚さん、気圧されません。土田さんは片眉を上げて犬塚さんを見つめます。
「どうやら目的は同じようですね。……プログラム実行の阻止、ですか」
なるほど、合点がいきました。一見私達と敵対するかのように見えた彼がヴィータを欲しがったのは、彼女から博士の陰謀に関する情報を得ようとしていたからなのでしょう。私達は言葉を交わさず互いに察し合い、共闘できることを確認しました。
「手伝ってくれますか?」
「無論、もとよりそのつもりです」
心強い味方を得た私達は、ヴィータのナビゲート通り、フロアの北東へ足を進めます。そこが天堂博士の個人オフィスとのこと。
ごくり、とつばを飲み込んで私達はフロアを進みます。一体この先で何が行われているのか、それは想像でしかありませんが。ヴィータの口ぶり、そして土田さんから伝わる必死さは、それが尋常でないことを伝えています。海神の名を冠するプログラムは、一体この地に何をもたらすのでありましょうか。
フロア自体かなり広いものでしたが、私達は程なく北東の一室にたどり着きました。耳を澄ませて気配を探ってみると、扉の向こうから何かが聞こえてきます。
それは歌、でした。透明感のある歌声が、いくつも重なって響いてきます。それは美しさの奥に禍々しさを潜ませたもの。歌であると同時に、祈りや呪詛のような響きを持ったものでした。ともあれ、この扉の奥で何かが行われているのは間違いありません。
「やはりここで間違いないようだ」
犬塚さんが言います。土田さんも緊張したように頷きました。私は慎重にドアノブに手をかけ、それを開け放ちます。
◇
広い無機質なオフィスには、十数台のパソコンと机が並んでいた。その空間に満ちる笛のような声は、歌の様な詠唱を続けている。脳を侵すような不可思議な音階は、たしかにそれ自体が魔術的な力を持っているように思われた。
オフィスの奥に目をやると、網膜を焼くような電光が見えた。それは単なる電気のスパークではない。プラズマがざわめき、それが奇怪な姿を形づくっていた。
電光に目が焼かれるのを耐えながらそれを見る。それは深海に潜む多肢生物に、翼が生えたような醜悪なフォルム。ああ、それは昨夜、俺が夢で感じたものと同じ形をしていた。
それは科学とは相容れぬ宇宙の深遠。それは節理そのものを冒涜するような悪夢の顕現。しかしそれでいて神性を感じさせるような圧倒的な存在感。
「ハッハハハハハァ! 一体何をしに来たのだね!」
その傍らで哄笑を響かせるのは天堂博士だ。午前に会った時に見せていたような理知的な様子はない。その姿は圧倒的な神性の前に理性を吹き飛ばした狂信者のそれだ。
『ああ、大変! 早くわたしを!』
詠子君の手元でヴィータが叫ぶ。ことここに至っては逡巡している余裕はない。
「詠子君!」
あらかじめ買っておいたコネクタを詠子君に渡す。俺はそのまま天堂博士を無力化せんと、土田とともに躍り掛かった。
が、その瞬間。
傍らのプラズマが一層その光を増した。それは網膜を通じて脳に響き、百万の怨嗟とも慟哭とも絶叫ともつかないものを、俺の頭の中で爆発させた。
「ぐぅ……あ……!」
頭蓋骨がすりつぶされるような、神経すべてを切り刻まれているような激痛が走る。俺は膝から崩れ落ちた。とてもではないが近づけない。倒れた土田を保護する余裕もなく、俺はプラズマから離れるように這いつくばって後退した。
どうする。考えろ。考えろ。このままでは数分経たないうちに動けなくなるだろう。視界に入った詠子君も頭を押さえてうずくまっている。現状辛うじて動けるのは俺一人だ。
『リョーイチさん!』
ヴィータが俺を呼ぶ。そうだ彼女だ。彼女に託すしかない。
俺はゆっくりと、しかし可能な限りの速さで詠子君に近づき、その手からスマートフォンを受け取った。これをパソコンにつなげば、ヴィータはプログラムに介入できると言っていた。
プラズマの影響か、ヴィータが映る画面も歪んでいる。猶予は無い。俺ははいつくばりながら手近なパソコンに接近し、最後の力を振り絞ってヴィータを接続した。
もうだめだ。身体が動かない。俺はその場に倒れ伏し、歌うような詠唱の中で意識が薄れていくのを感じていた。
『リョーイチさん、エーコさん』
ヴィータの涙声が聞こえる。俺は言葉を返すこともできないまま、激痛に耐えながら目を閉じていた。
『……ありがとう』
そして俺は意識を失った。
「……づかさん。犬塚さん!」
詠子君が俺を呼ぶ声がする。意識が徐々に焦点を結ぶ。すでに頭痛はその残滓を残すのみとなり、致命的な危機が去ったことを俺に伝えていた。
「詠子君……無事か」
俺が声をかけると、詠子君は泣いているような、笑っているような顔しながら俺の手を握った。柔らかい手の温かみが生の実感を与えてくれる。
「ヴィータは?」
詠子君の次にはヴィータの安否が気になった。きっと彼女は存在をかけてプログラムの実行を阻止し、我々を守ってくれたのだろう。
「……わかりません。いなくなっちゃいました」
俺の手を握りながら詠子君が項垂れる。俺はゆっくりと身体を起こし、あたりを見回す。
すでにあのプラズマは消えうせ、部屋の奥では土田によって無力化された天堂博士が転がっている。俺はふらふらと立ち上がり、ヴィータをインストールしたパソコンの画面を覗き込む。
「ヴィータ?」
答えは無い。半ば予期していたことではあるが、ヴィータは何処にもいなかった。すべてのパソコンを確かめた。詠子君のスマートフォンももちろん確認した。それでもヴィータはいなかった。土田にも聞いてみたが、彼もヴィータを発見できなかったようだ。
「ここは私と会社でなんとかしておきます。お二人はここを離れた方がいい」
厄介なことになる前に、と土田は言った。確かに警察にもこの状況は説明できない。……ヴィータは多分、消えてしまったのだろう。諦めきれない気持ちはあるが、諦めるしかない。
我々は言葉少なに、その場を後にした。
◇
私達は何とか命を拾いましたが、同時にヴィータを失ってしまいました。彼女は誰が何と言おうと私達の友人で、大切な存在でした。彼女がプログラムを止める以外に選択肢はなかったのかもしれませんが、その事実はなんの慰めにもなりません。
犬塚さんはそんな私を励ますように肩に触れ、仕方なかったと声をかけてくれました。しかしそんな犬塚さんも、哀しみをこらえている様子でした。
私達はランドマークタワーを後にします。すでに日は傾き、人々は家路に着くべく駅の方へ流れていきます。私達はそのままふらふらと海辺の公園に向かい、呆けたように芝生に座り込みました。
ふと気づくと、スマートフォンにメールが来ています。その件名を見て私は目を見張りました。
件名:ヴィータ
そう書かれています。私は犬塚さんにそれを伝えてから本文を読みます。それは果たして、ヴィータが私達に宛てたメッセージでした。
このメッセージをお二人が読むときに、きっと私はこの世界にはいないでしょう。でもこれを見ているという事は、私はうまくやったのでしょうか。
お二人がわたしを外の世界に連れ出してくれた時、私は本当に嬉しかった。 リョーイチさん、エーコさんと見た世界は、電子の世界にはない鮮やかな色彩にあふれていました。お話もたくさんしましたね。
二人と過ごしたのはほんの短い間でしたが、その大切な時間は、この世界が守るに値するものだと、わたしに感じさせてくれました。
ただの人工知能に過ぎないわたしに、お二人は真心を持って接してくれましたね。本当に、本当にありがとう。
リョーイチさんとエーコさんにもう会えないのはとても寂しいですが、お二人が住むこの世界を守れるのならば、後悔はありません。
もし、もし時が流れても、すべてが解決した後も。
お二人がわたしの事を覚えていてくれて、時折「ハロー」と呼びかけてくれるな らば、わたしはきっと幸せです。
さようなら。そして、いつまでもお元気で。 電子の海、その彼方より ヴィータ
ああ、と思わず私は声を漏らします。結局、さよなら一つ言うことが出来なかった。ありがとうも、ごめんねも、よくがんばったねも、伝えてあげたかったのに。
犬塚さんにも同様のメールが届いていたようです。犬塚さんは犬塚さんなりに思うところがあるのか、メールを読み終わった後もずっと黙ったままでした。私達はそのまま、かつてヴィータと見た夕暮れを迎えるまで、何をするでもなくそこに座っていました。
◇
ヴィータが消えてから数日後、土田から連絡があった。例の事件について話しておきたいことがある、とのことだった。ヴィータ喪失の穴を埋めるべく仕事に打ち込んでいた我々は、なんとか時間を作って彼との会談に向かった。
「先日はどうも。助かりました」
我々が近所のカフェに行くと、既に土田が待っていた。先日よりもやや砕けた様子だ。心配事が一つ減り、肩の荷が軽くなったせいだろうか。
「事の顛末ぐらいは説明しておこうと思いまして」
そう言って土田は話し始める。天堂博士はやはりなにがしか魔術的な存在を呼び出そうとしていたようだ。彼は現在拘束され、公安とピンカートン探偵社の厳重な監視下にある、とのことだった。
「だから心配は無用です。ヴィータの意思は成し遂げられたのでしょう」
土田はやや上機嫌だ。ヴィータはどうなったか、と詠子君が訊くと、やや表情を曇らせてかぶりを振った。
「おそらくは消滅してしまったと思われます。我々は天堂博士の研究室から、ヴィータのバックアップを回収するのが精いっぱいでした」
バックアップ、という言葉を聞いて詠子君が身を乗り出す。
「バックアップがあるんですか?」
「ええ、ただしお二人の記憶はありませんよ。あなた方が持ち出す前のバックアップですから。……会いますか?」
詠子君がこちらを見る。しばし視線を交わした後、俺は首を横に振る。
「会わないよ」
土田が意外そうに眉を上げた。
「おや、てっきり会いたがると思っていましたが」
バックアップのヴィータは、確かにヴィータと呼べる存在なのだろう。しかしそれは我々の友人であったヴィータではない。自らの存在と引き換えに、我々を守ってくれたヴィータではないのだ。友人であったヴィータを失った穴を埋めるために、そのバックアップと会うというのは筋が違う。
「そう……ですね。私も会いません」
詠子君も俺の考えを察したようだ。すんなりと引き下がる。
「そのバックアップはどうするつもりだ?」
抹消されてしまうのではないか、と俺は危惧した。いくら自分たちとは縁のなくなった存在とはいえ、あの少女のようなヴィータが消されてしまうのはあまりに哀れだった。
「まあ、ご心配なく。彼女は優秀な人工知能です。こちらで利用はさせてもらいますが、身の安全は保障しましょう。人工知能の身の安全というのも、おかしな話ですが」
ならば、こちらとしてこれ以上言う事は無い。二、三事務的な話をした後、我々は土田のもとを去った。
買った缶コーヒーで手を温めながら、車の中で感傷に浸る。今回も奇妙な事件に巻き込まれ、そしてなんとか命を拾った。特に最近は事件のたびに削られていく正気を、詠子君と温めあいながら日々を過ごしている。だが今回は得たものもあった。ヴィータとの短い、儚い思い出だ。
ヴィータはもういない。いなくなってしまった。いや、もしかしたら幾億の電子となり、この世界に散って、我々と、この世界の行く末を見守っているのかもしれないが。
忘れることはできないだろう。たとえそれが、忌まわしい記憶と共にあったのだとしても。なにより時折思い出してやった方が、ヴィータも喜ぶだろう。そして追憶の中で、彼女もきっと応えてくれるはずだ。
ハロー、と。
お読みいただきありがとうございました。よければ感想などお寄せ下さい。