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一角獣と乙女(中世西洋風ヒストリカル シリアス 男装 年下男子)

一角獣と乙女



【 1 】


 一角獣リコルヌに出会った。

 私の願いを叶えてくれるのはこの一角獣だと、一目で分かった。


 どうしてここにいるのか。

 一角獣が訊いた。私は答えた。

 願いをかなえて欲しい。お父様に心の平穏を、弟に健康を、領民に飢えずに済むだけの収穫を。

 お前の願いは。

 そう一角獣が訊いた。お前自身のための願いはないのかと。


 私の願いは――


 目を開けると、夢の中で見たのと同じ瞳が私を覗き込んでいた。

「ご気分はいかがですか、カトリーヌ姫」

 声変わり前の高い声だった。見知らぬ顔の後ろには青空と木々が見えた。

 こんな小姓はいなかった筈だ。慌てて身を起こそうとして、脇腹の痛みに息を呑んだ。

「まだお休みになっていた方が……」

「お前は何者だ」

「私はメイユール家のシャルルと申します」

 メイユールの名は知っていた。父の領地から少し離れた自治都市フォーレの商家だ。城下にも店を出している。

「姫様がお一人で倒れ、怪我をされているご様子でいらしたので、恐れ多くも介抱させて頂きました。いったいどうされたのですか」

 目覚めてすぐの記憶の混乱はもう収まっていた。

「遠乗りに来ていたが、急に馬が暴れて振り落とされた。私の馬は?」

「このあたりにはおりませんでした」

「そうか。かたじけないが、誰か人を呼んできてくれるか。礼はあとでさせてもらう」

「それが、その……私もそのつもりで色々試したのですが、ここからは縄がないと上がれないようです」

「なに?」

「姫様は崖の下に倒れておいででした。私は崖の上から姫様を見つけて、お助けしようとここまで降りたものの上がることができなくなりました」

 シャルルは恥じ入った様子で下を向いた。身なりもいいし弁も立つようだがしょせんは子ども、体格は一人前の男には及ばなかった。私が支えて手がかりのあるところまで押し上げられないかと考えたが、腕を上げようとしただけでまたひどい痛みに襲われた。

「……まあいい。じきに城から迎えが来るだろう」


 そう言ったところで、シャルルが顔を上げた。

「カトリーヌ姫」

「なんだ、褒美か」

「いえ……その。姫様に結婚の申し込みをさせて頂きたいと存じます」

 返事ができずにシャルルの顔をまじまじと見つめた。シャルルはひげもないつるんとした頬を真っ赤にしていたが、まっすぐにこちらを見返してきた。

 気を取り直した私は口を開いた。

「断る。私は誰とも結婚しない。私の名を知っているならそのことも知っているだろう」

「姫様の名誉をお守りするためです」

「……どういうことだ」

「その、姫様をお助けしてから既に一晩が過ぎました」

「馬鹿馬鹿しい。お前は子どもだ」

「年若くはありますが、もう結婚を許される歳にはなっております」

 はっきり言わないところをみると、十四歳を過ぎていくらも経ってはいないのだろう。十四としたら私より七つ下だ。

 だが幾つであろうとかまわない。歳が足りていようがいまいが、私がこの者と結婚することはない。

 と思ったその時、シャルルが声を低くして続けた。

「姫様は昨夜、熱に浮かされておいででした。ご結婚を望まれない事情も伺っております」


 血の気が引いた。あれは……夢だったはずだ。

「私は、」

 シャルルが急に姿勢を正した。さきほど崖を上れずに恥じ入っていた時とは別人のように大人びた顔つきに変わった。

「メイユール家の三男です。姫様が私を婿にと望んで下されば、父は持参金を持たせて寄越すでしょう。もしお許しが頂けるのなら、姫様のお力になり弟君が成人されるまで領地の管理をお手伝いさせて頂きます。読み書き計算に不自由はありませんし、いくつか案もございます。もちろん父は商人ですから商売の便宜を図っていただくようにお願いするとは思いますが、お互いの家にとって悪い話ではないはずです」

「領地も城も私ではなく弟が成人した時に受け継ぐものだ。自分のものでもない領地のためにそこまでして、お前は何を得る?」

「知識を。――領地の管理が行き届くようになりましたら、教授を招いて勉強を続けさせて頂きたいと存じます」

「それだけか?」

「それ以外の野心はありませんが、父の下ではそれもままなりません。実益のない学問は父にとって許しがたい贅沢なのです」

 シャルルが一瞬目を伏せた。しかし再び上げた目に浮かぶ強い光に、視線を外すことができなくなった。

「必ず姫様のお力になると神かけて誓います。カトリーヌ姫。どうか、私に御手みてを与え、姫様をお守りする栄誉をお授け下さい」

「私が剣を使えることは知っているな。その私をお前が守るというのか?」

「未婚のままでは、いつか遠い土地へ嫁ぐよう命じられることがないとも限りません。そうなったら、弟君とも離れておしまいになります」


 シャルルが口にしたのは、私が密かに恐れていることだった。もしかしたら、熱にうかされて自分から話してしまったのかもしれない。他に何を知られているかと考え気がふさいだが、最初に断わった時とは事情が違ってきた。

 私は城を出るわけにはいかなかった。父と弟の世話を続け、今までどおりに城を切り盛りしながら持参金つきの婿を迎えるというのは、なんとも都合の良い話だった。なにより、主君の命よりもやむを得ない事情で嫁ぐ方が、いざという時に婚姻無効の訴えがしやすい。

 何も悩むことはない。メイユール家の商いは大きい。事情が事情だけに持参金は充分に見込める。今年の夏は雨が多く、畑の麦は刈入前に芽が出たものもある。持参金があれば、次の春まで領民が飢える心配はなくなる。

 一角獣の夢は、このことを告げていたのかもしれない。

 

 シャルルを見つめたまま、痛みが少ない方の手を差し出した。

「――メイユール家のシャルル。神ではなく私に、正直な取引をすると誓え。お前と契約しよう」

 シャルルは私から視線を外さないまま、与えた手を両手で受けた。

 お互いに目の奥を覗き、相手の思いを少しでも多く読み取ろうとしていた。

「確かに、承りました」

 シャルルは頭を垂れ、私の手に口づけを落とした。私はシャルルの視線から逃れたことで安堵し、さらに自分が安堵したことに腹を立てた。しかしこれで全ては決まった。


 シャルルに手伝わせ身なりを整えるか整えないかのうちに、崖の上から私を呼ぶ声が響いてきた。

「カトリーヌ姫はこちらにいらっしゃいます」

 シャルルが澄んだ高い声で答えた。


【 2 】


 翌日メイユール家当主であるシャルルの父がシャルルを連れ、結婚契約のためにやってきた。当主同士の契約に女は同席できなかったので、私はその間に乳兄弟のリュクを探しにいった。

 剣では私の兄弟子にあたるリュクは、この時間はいつも城の中庭で剣の訓練をしている筈だった。


「カトリーヌ姫、怪我が治るまでおとなしくしているように言われていた筈です」

 声をかけるより前に私に気付いたリュクが、不機嫌な声を出した。

「だからローブを着ている」

 リュクの説教の機先を制した。いつものチュニックを着ていないので、剣を振り回しにきたのではないとリュクも納得したのだろう。まだ言いたいことは残っているようだったが、リュクはしぶしぶ続きを飲み込み、再び片手剣と楯を構えてからこちらを見ずに言った。

「フォーレのメイユールが、エチエンヌ卿を訪ねてきたようですが」

「ああ。メイユールの三男と結婚することになった」

 リュクは左足を踏み出したところでぴたりと止まり、流れるような動作で最初の姿勢に戻って剣を鞘に収めた。それから私を振り返った。

「詳しく伺いましょう」


 武器庫に練習用の剣と楯を戻すリュクについていって、昨日の話をした。剣を長持に納めたリュクは丁寧に蓋を閉め、楯を壁に戻した。それから深い深い溜息をついた。

「まさかそのようなことになるとは」

「やむを得ない事情だが、これでこの冬は薪と食料の心配がなくなった」

 不意にリュクが、武器庫の壁に私を押し付けた。武人として鍛えているリュクに隙はないが、逃れるつもりもない。リュクが私を傷つけることはない。

 リュクは私を正面から見据えた。

「あなたは、本当にそれで宜しいのですか? ご自分の身に何が起こるのか、本当にお分かりになっているのですか? そのような理由で商人の息子などと……」

 私の返事を待たずにリュクは続けた。

「もっと前に、あなたを城から連れ出して差し上げるべきでした」

「騎士の誓約を破り、主君を裏切ってか?」

 私の言葉に打たれたように、リュクが顔を歪めた。

「わが剣はエチエンヌ卿に捧げております。しかし」

 リュクは続きを言わなかった。

 ――瞳が何を告げようと、言葉にされなければ無かったことにできる。

 やがて目をそらしたリュクに、私は感情を込めずに告げた。

「シャルル殿は騎士ではないので、狼狩りなど城の外向きの仕事では引き続きリュクの力を貸りたい」

「仰せのままに。……姫は、一生結婚なさらないと思っていました」

「私もそのつもりだった。だがどこかに嫁がされることになって持参金をつくるため父上に負担をかけるくらいなら、この方がよかったのだ。女の身では、戦で手柄を立てて家を盛り立てることもできないからな」


 不意にリュクが片膝をついた。

「カトリーヌ姫、遅ればせながら、ご婚約のお祝いを申し上げます」

「ありがとう、リュク。これからもよろしく頼む」

 差し出した手に、リュクが口づけを落とした。そして立ち上がり、こちらを見ずに武器庫を出て行った。


 それからしばらくして武器庫を出ると、目の前にシャルルが立っていた。何故、と問いかける前にシャルルが自分から説明した。

「先程リュク殿が祝いの言葉をかけて下さり、カトリーヌ姫がこちらにいらっしゃると教えてくださいました」

 そこで言葉を切り、少しためらってから小さな声で付け足した。

「私はリュク殿とカトリーヌ姫の間に割り込んでしまったのでしょうか」

 シャルルは沈んだ表情で、でもしっかりと顔を上げて私を見つめて答えを待っていた。

「違う。――リュクは私の従兄にあたる」

 従兄との結婚は教会で禁じられている。王族や高位の貴族の間では教会から特赦をうけ、いとこ同士で婚姻を結ぶこともままあるが、ふつう結婚相手としては考えられない相手だ。

「貞淑は、この契約で私から差し出せる唯一のものだ。あなたを裏切るようなことはしない」

 シャルルはこくりとひとつ頷いて、かすかに微笑んだ。


 シャルルとの結婚は、おおむね歓迎された。城の者は薪と食料を、領民は宴と式の後で撒かれる菓子を期待して祝いの言葉を口にした。

 まだひげも生えない歳の、しかも商人の息子との結婚を揶揄する者も中にはいたが、腹を立てる気にはならなかった。私自身もおかしな取り合わせだと思う。しかし持参金もない貧しい領主の娘、女のくせに剣を佩き供も連れずに馬を駆る変わり者に、他にどんな縁を望めというのか。

 フォーレの商人達は高価な布や銀器、珍しい異国の香など、次々と結婚の贈り物を届けてきた。城の建つ丘など普段は見上げることもなかっただろうに、今になってメイユール家だけが利を得るのではないかとあわてている様には乾いた笑いがもれたが、贈り物の中に何年も前に手放し二度と見ることはないと思っていた、モントヴェイユの紋章がついた金の指輪を見つけた時は胸を()かれた。


 結婚式の朝、五年ぶりに袖を通した新しいローブは体にも心にも重たかった。このローブも薪や馳走と同じくシャルルの持参金で整えられたものだ。一緒に身につけているのは、婚約のしるしに贈られた指輪だけだった。装飾品は薪や食料、壊れた城壁の修理のために手放してほとんど残っていない。


 一角獣は乙女の膝でまどろみ捕えられるという。私も言い伝えのとおり、純潔を餌にしてシャルルを捕えた。言い伝えはその後の乙女について語らない。

 ――乙女は、自分のために捕えられた一角獣にどんな思いを抱いただろう。そして捕えられた一角獣は、乙女を恨んだりはしなかったのだろうか。


 父が私の部屋へやってきたのは何年ぶりのことだろう。髪を梳いていた侍女の手をとめさせて、入口まで父を迎えにいった。

「カトリーヌ」

「お父様」

「いつの間にこんなに大きくなったのだろう。そうしていると、亡きカトリーヌにそっくりではないか」

 父がつらそうに私から目をそらした。この晴れの姿が父の悲しみとなることが苦しかった。

 五年前、弟を産むときに亡くなった母は、父の心を悲しみで埋めた。それから父は自分の心を、悲しみだけを見つめて生きていた。


「これを」

 気を取り直した父が私に差し出したのは、女性の横顔が彫られた水晶のブロシェブローチだった。初めて見るものだ。

「カトリーヌのものだった。お前が使いなさい」

「……お父様、ありがとうございます」

 震える手でブロシェを受け取り、両手で強く握り締めた。


 針に刺された手よりも心が、ひどく痛んだ。


 結婚式もその後の宴も、夢の中の出来事のようだった。遠くから自分を見つめるような時間が過ぎていった。

 燭台しょくだいを手にした侍女の先導で、これから夫婦で使う寝室へ向かった。獣脂ろうそくの匂いに、今日くらいは蜜ろうで作った香りの良いろうそくを用意しておけばよかったかとぼんやりと考えた時には、もう部屋に着いていた。

 

 侍女が暖炉の火をかきたて、酒と杯を置いて出て行った。

 崖の下で過ごした一夜で婚姻は既に成立していると見做みなされ、床入りの立会人はいなかった。

 シャルルが静かに訊いた。

「ご気分はいかがですか? カトリーヌ姫」

「よく分からない」

 正直な気持ちだった。シャルルは何も言わなかった。

 沈黙に促されて、私は再び口を開いた。

「父が……母のブロシェをくれた」

 ローブの襟に留めた水晶の横顔を見つめ、顔を伏せたまま言った。

「そのとき『去年これがあったら、麦か豆が買えたのに』と思った。私は母の形見をそんな風にしか思えない娘だ。……たぶん、人として何か欠けているんだろう」

 シャルルが前に立ち私の顔を見上げた。私は思わず失笑した。

「あなたは私より背が低いから、顔を隠すにはうつむいては駄目なのだな」

「背が低かったおかげで、姫様を娶ることができました。崖を上り助けを呼んだくらいでは、姫様は御手を預けては下さらなかったでしょう?」

 シャルルは胸を張ってそう答え、真剣な顔で続けた。

「人は生きなくちゃいけません。生きるために食べなくちゃいけません。姫様は今まで人を生かすのに忙しくて、ご自分のことをお考えになることができなかっただけで、どこも欠けてなどいらっしゃいません」

「口がうまいな。次から次へとよく思いつくものだ。さすが商人の息子だ」

 嫌味のつもりで言ったのに、シャルルはにこりと笑った。

「学校を辞めさせられた時は商人の家に生まれたことを悔やみましたが、今は父に感謝しています。見聞を広めさせてくれましたし、婿入りのための持参金も用意してくれました。実利がなければ指一本動かしませんが、父は決して悪い人間ではありません」

「婿入りにそれだけの実利があるとは思えないが。あれだけの持参金の代わりに得たのは、男のように剣を佩いても、父に代わり領地を管理する才覚もない年増の――」

 不意に首に腕を回され、言葉が途切れた。

「あの金は私に店を持たせるため、父が用意していたものです。私の大切な奥方には、値などつけられませんよ」

 シャルルがそう後を続け、私の口を接吻で封じた。


【 3 】


 五年が経った。

 シャルルはメイユール家から借りた金で、壊れていた古い石橋を修理し番人を置いて通行料を取った。通行料だけで修理にかかった費用を回収するには何年もかかるが、橋のおかげで大雨で川が増水しても物流が途絶えなくなり、城下の物価が安定した。道が整ったことで行商人が来る機会も増え、欲しいものがあまり待たずに手に入るようになったと城の者達は喜んでいる。

 シャルルはまた、貢納された羊毛を実家に託して聞いたこともない土地へ商い、見慣れない金貨や銀貨、銅貨に換えた。そしてその金で不作に備え穀物を購った。不作の年に近隣から少ない収穫を買い集めるのではなく、豊作の年に余った収穫を買って取り置いた方がかかる費用が少なくて済むという理屈は分かったが、それができるのも羊毛の交易あってこそだ。

 シャルルのおかげで、領地は少しずつ豊かになっていった。


 弟のジャンは健康を取り戻しつつある。シャルルが招いた医者が瀉血しゃけつを意味のないこととして止めさせてから、頬に生き生きとした血色が戻ってきた。歳に比べて体は小さいが、もう少し丈夫になれば騎士の修行も始められるだろう。

 領主である父はシャルルに領地管理を任せたきり相変わらずの日々を送っていたが、一年前に主君から軍役を命じられて出かけていき、マリーという寡婦を連れて戻ってきた。マリーは自分も伴侶を失った経験から、父の亡妻への思慕を理解し受け止めてくれたようだ。身分が低いため正式な結婚をすることはできないが、過去の結婚で子どもを持てなかったマリーはジャンを実の息子のように可愛がってくれ、ジャンもまたひたむきにマリーを慕っている。二人がお互いを思いあう姿に、父が「カトリーヌが生きていればこうであったか」とつぶやいた時には嗚咽をおさえることができなかった。

 父の心から悲しみが消えることはないだろう。しかしそこにあるのはもう悲しみだけではなかった。私を見て目をうるませることは今もときおりあるが、以前とは違い過去を懐かしむ表情にかわっていた。


 ある気持ちのいい夏の午後、一人で塔の上に来て、窓から領地を見下ろした。

 そこには期待したとおり豊かな実りのしるしがあった。いくら眺めても見飽きることのない景色だ。豊作の年があれば必ず不作の年もあることはよく分かっているが、だからこそ、この景色はいっそう美しかった。

 あの黄金が波打つ場所は去年の休耕地だった。畑を春蒔き作物と秋蒔きの作物、それに休耕地の三つに分けて毎年入れ替えるという新しいやり方は、シャルルが聞き及んでまず直営地で始めた。直営地の収穫が増えたのを見て、領民達は自分の保有する土地でも同じ事を始めている。

 

「またここですか、カトリーヌ」

 頭の上からシャルルの声がした。この五年でシャルルの背丈は私を追い越していた。

「シャルル」

 振り返ろうとしたところに後ろから腕を回され、二人で窓辺に並んだ。しばらく黙ったまま同じ景色を眺め、それから気になっていたことを訊いた。

「この秋あたりに、教授を城にお招きしてみては?」

「最近頂いた手紙のご様子では、しばらくこの辺りには来られないようです。それに領地の管理もまだ行き届いているとは言いがたい。ジャン殿が騎士となって城へ戻られ奥方をお迎えになるまでに、しておくべきことは数多くあります」

 五年経ってもシャルルの丁寧さは変わらなかったが、その声は耳に快よい深みのあるものに変わっていた。

「私との契約をお忘れになりませんよう」

 念押しをした私に、シャルルが笑いを含んだ声で言った。

「あのような大言壮語であなたを口説こうとするなど、我ながら怖いもの知らずでした。よくも切り捨てられなかったものだと思います」

「……あなたは、私が背負いきれなくなっていた全てを共に背負ってくれた」

 腰に回された腕に力が入った。頬を寄せた亜麻のコットシャツ越しに、シャルルの温かみが伝わってきた。

 あの時、私はわめき散らしたいような焦燥を噛んで馬を駆っていた。何もかもうまくいかない苛立ちを持て余していた乗り手を、馬が嫌がったのも当然だ。


 しかしそのおかげで私は一角獣シャルルに出会えたのだ。

 一角獣は私に「お前自身のための願いはないのか」と訊いてくれた。

 幸せになりたい――そう願いながら、それが何なのかも分からなかった私に幸せをくれた。


 今はもう分かる。幸せは、自分の周囲をとりまく出来事のことではない。それを感じる心のことだ。

 妻を亡くした父にはまだ、領地も跡継ぎの息子も、妻に代わり城を切り盛りする娘もいた。父が不幸だったのは、ただ父の弱った心が幸せを感じられなくなったせいだった。

 私も同じだ。父と母、それに跡継ぎの息子の代わりまで務めようと、父の代わりに心を強く持とうとしすぎて、領主の娘として皆に守られ愛され、飢えもせず屋根のある場所で暮らせる幸せまでも感じられなくなっていた。

 確かにシャルルが城に来てから領地や家族の様子は大きく変わった。しかしもし何も変わらなかったとしても、私は元から幸せだったのだ。ただそれを感じられずにいた。

 かたくなだった私の心に柔らかさをくれたのは、シャルルだった。


「あなたのおかげで多くを得た。あなたには申し訳ないほどに」

「何故ですか? 私は何ものにも代えがたい奥方を得ました」

 婚礼の晩にシャルルから同じように言われた時は信じなかった。本当のことを言えば、五年経った今でもまだ信じがたいことだと思っている。しかしシャルルは結婚して一年ほど経ってから、あの出会いが偶然でなかったことを告白した。最初から結婚の申込をしようと思って、私を追いかけていたのだと。

 ――本当に捕えられたのは一角獣ではなく乙女の方だった。


 城のどこかから、かんしゃくを起こした子どもの泣き声が聞こえてきた。

「そして何ものにも代えがたい子ども達を」

 二人で目を合わせて笑いあった。小さなシャルルがまた乳兄弟のリュクと喧嘩しているらしい。

 リュクの妻は私と同じ時期に小さなリュクを産んだ。二人が子犬のように転げて遊ぶ姿はどこか懐かしく、ほんの少しだけ切ない。

 私の頬に、シャルルの暖かい手が添えられた。

「領地の測量で幾何を実践するのも楽しいですよ。――これでもまだ足りないとお思いですか?」

 シャルルはそう言ってにこりと微笑んだ。


 私の口づけはシャルルの頬に届く前に、唇で受け止められた。

「シャルル。いつか必ず、あなたの願いも叶えて」

「急いではいません。子ども達の誰かが私に似ないとも限りません。教授に師事できたら喜ぶでしょう」

「もしあの子達があなたに似るようなら、ろうそくを今の倍は作らなくてはね」

 笑いながら言うと、シャルルが急にあわてた声を出した。

「ああ、実は兄が旅先で『算盤の書(Liber Abaci)』の写本を手にいれてくれました。この冬は少し……」

「ええ、沢山のろうそくが入用なのですね。確かに承りました」

 もう一度口づけを交わした後、私達はお互いの手をしっかりと握り、塔の階段を下りていった。


end.(2011/12/09サイト初出)


中世西欧を舞台に設定していますが、風俗・習慣の一部は創作です。一角獣が願いを叶えるという伝承はありません。自治都市の商人と貴族の結婚は実際にあったようです。

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