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妻の家出(現代ファンタジー・極薄ホラー?)

極薄ながらホラー要素注意

妻の家出



 

 妻が家出した。

 

 玄関の靴箱の上にメモが置いてあった。

「しばらく家を出ます。あなたと一緒にいる意義を考えてみます」

 そのうるわしい水茎の跡にはためらって手を止めた気配はない。日付もない。紙の裏まで見たが書いてあったのはそれだけだった。

 

 三日前に仕事のトラブルで急に出張になり、日帰りの筈がそのまま客先で捕まってしまった。事情を知らせたメールに妻からの返事はなかったが、特に返事のいる内容でもなかったから了解しているものと思っていた。ようやく原因が分かって帰ってきたのがもうそろそろ日付も四日目に変わろうかという今だ。妻がいつ出て行ったのかも分からないあたりが情けない。

 妻は俺と同じく正社員で働いている。会社はどうしてるんだろうか。妻の職場に電話して確かめてみたい。しかし出社しているにしても休んでいるにしても、夫から出社を確認する電話が入るというのは妙だろう。迷惑かもしれない。どちらにしてもこの時間に電話はかけられない。妻の交友関係にしても同じく。

 

「本当に出て行ったのか」

 

 手紙にそう話しかけてみた。もちろん返事はない。あったら困る。

 『咳をしても一人』と詠んだ尾崎放哉はこんな気持ちだったのだろうか、いやいや俺ごときがおこがましい、などと余計なことを考えつつ手紙を片手に持ったまま冷蔵庫を開けた。

 冷蔵庫の中はまるで電気屋の商品見本のように空っぽになっていた。いつ戻るかも分からない俺が消費期限の切れた食品を口にしてはいけないという思いやり……いや、まず間違いなく嫌味だろう。ビールくらいは残しておいても問題なかったと思うんだ。

 ふと思いついてキッチンのゴミ箱を開けてみたが、きちんとセットされた指定ゴミ袋の中は空っぽだった。これで妻がゴミの日以降に出て行ったことは分かったが、問題はゴミの日が何曜日なのかを俺がいつまで経っても覚えられないことだ。(ついでに言うと、ゴミの分別方法についても覚えられなくていつも怒られている。)

 

 一緒にいる意義。俺が妻と一緒にいる意義はただ冷蔵庫とゴミ箱の管理にあるのではないかと、これはそういうアピールだろうか。

 確かに俺にとっては妻と一緒にいることに意義がある。しかし妻には俺と一緒にいる意義が感じられないということか。

 

 それなりの歳になったら結婚するものだと思っていたし、相手として知人に紹介された女性に特に不満もなかった。おそらく妻も同じように思ったのだろう。俺の熱の入らない告白に頷いてくれたし、とんとん拍子に話が進んで結婚したのは5年前のことだ。

 休日のたびに買い物に行ったり長い休暇に旅行に行ったりというような普通の夫婦らしいことができなかったのは、俺が企業の基幹システムの開発部署に所属していて、カレンダー通りに休めないせいだ。世間の長期休暇時期は、得意先のシステムリプレース時期とちょうどかちあうことになっている。妻も仕事を持っているために、お互いにずれた休みには家でDVDを見たり、一人で買い物に出たりして過ごしていた。妻は学生時代の友達と旅行に出かけたりもしていたが、俺はただでさえ出張で乗りたくもない飛行機や新幹線に乗ることが多いので、休暇にまで乗り物に乗ろうとは思わなかった。

 確かに妻にとって俺といる意義はないかもしれない。妻は自分で運転もすれば釘も打つ。電気製品の接続もできる。俺が買い物に行くと言っても、自分が行きたくなければわざわざ一緒にでかけたりはしない。

 

 家事に手を出したのもまずかったかもしれない。

 平日に代休で(強制的に休まされて)家にいる時はせっかくなので普段できない場所の掃除などをするようにしていたが、帰ってきた妻はそれに気付くと微妙な顔をしていたような気がする。あれが良くなかったのだろうか。

 

 それとも、それとも、とあれこれ考えてみたが、これといって妻の家出のきっかけは思い当たらなかった。というよりも、結婚してから今までずっと同じような生活だったから、何故『今』なのかが分からない。妻の背中に載った最後の藁は俺の出張だろうかと想像するのがせいぜいだ。

 生活費はお互いの給料から共通の口座へ振り込んで、それ以外は自分で貯蓄するなり使うなり自由だ。おそらく妻にはそれなりの資産があり、もし離婚したとしても生活に不自由はない程度に稼いでいる筈だ。お互いの給料明細を見せあったのは結婚してすぐの頃だけだから、今現在、妻がいくらくらいの年収を得ているのかははっきりと分からない。しかし主任の肩書きもあるし自分ひとりの食い扶持くらいは困らないはずだ。なにしろ残業代を抜いた基本給は、メーカー勤務の俺よりも商社勤務の妻の方が多いのだ。業種によって基本給に差があることを分かった上で俺は製造業に就職したのだし、妻もそのあたり承知の上で結婚したのだが……分かっていた事実を数字で確認した後は給与明細を見せあわなくなった。

 

 一向に眠気は訪れないが、体だけでも休めないと翌日の仕事に差し障るしと寝室へ向かった。こんなときでも仕事のことを第一に考える自分に気付いて苦笑したが、トラブルの原因は分かったものの対策はこれからだ。明日朝一番の対策会議に出なくてはいけない。

 普段は俺が帰るともう妻はベッドの反対側で寝ている。いつものようにベッドを弾ませないよう注意して布団に滑り込もうとして、今日は一人だからいいのだと苦笑した。

 

 もしかしたら職場で誰かに口説かれたりしてたのか。

 天井を眺めていたらそんな考えが頭に浮かんだ。夜の方も(とにかく俺が家にいないので)世間並みの頻度には及ばなかったし、休みはばらばらだし、飼い殺しみたいな生活にうんざりしたのか。

 まだ残りの人生長いし、やり直すなら『今』だと思ったのか。

 

 溜息をついて目を閉じたら、眠くはないのに体だけが動かせなくなった。霊感なんてデリケートなものは持ち合わせていないから、疲れすぎている時によくなるいつもの奴だ。

 

 ――そう思っていたら、布団の中で手を握られた。

 

 


 俺には霊感なんてものはない筈なんだ。出張先ならともかく、自分の家の自分のベッドで心霊体験なんて嫌すぎる。それにそこは妻の寝場所なんだ。

 

「はな……いやまてっ」

 

 手なんかろくに握ったことがないから確信はないが、離せと言いかけた次の瞬間、これは妻の手なんじゃないかと思いついて逆に強く握り返した。

 しかし声を出したとたんに体は動くようになり、その時握ってきた手の感触も消え、悪い夢から醒めた俺一人だけがベッドの上にいた。

 

 鳴り出した電話の呼び出し音に驚いて、大きく身じろぎをした。

 不吉な知らせを告げる電話ではないか、そう思うと反応が遅れた。


「はいっ、もしもし」

「あなた、帰ってたの。よかった」

 妻はいつもの調子で坦々(たんたん)と言った。あのメモを見ていなければ、あの冷蔵庫とゴミ箱の中を見ていなければ、とても家出中とは思えない。

「私いま中央病院にいるんだけど、どれでもいいから上着持ってきてくれない?」

 

 深夜の救急病院は、救急車も来るし時間外診療を待つ病人と付き添いもいるしで、思ったよりも賑わっていた。本当は賑わってない方がいいんだろうがと思いながら辺りを見回すと、廊下の向こうからキャメルのコートを腕にかけて歩いてくる妻の姿があった。

「弥生っ」

 よほどあわてた声だったのか、妻だけでなく辛そうな顔で座る病人や眠そうな付き添いまで顔を上げて俺を見つめた。俺は注目を浴びたまま靴音高く妻のもとに駆け寄った。

 

 自分でも思いがけない大声が出た。

「いつから家出してたんだ」

「やだ、こんなとこで言わないでよ。恥ずかしい」

 妻が慌てた顔をした。その時、間違い探しのような違和感に気付いた。

「コート持ってるんじゃないか」

「ちょっと汚れちゃったのよ」

 妻が内側にたたみ込んでいた赤黒い染みに気付いて、すうっと血が下がった。妻が早口で言った。

「鼻血だから大丈夫、私のじゃないし」

 何が大丈夫なのか分からないが、確かに妻のその言葉で俺の体には再び血が通いだした。

 

「何で来たの?」

「車」

 俺が持っていった上着に袖を通した妻と、連れ立って駐車場へ向かった。煌々とライトを光らせた愛車が出迎えてくれた。

「慌ててたんだ」

 指摘される前にいいわけをすると、妻が何故か少し嬉しそうな顔をした気がした。

 

 帰り道で妻は電話での簡単な説明を補足してくれた。職場の飲み会の帰りに駅で、同僚がケンカに巻き込まれて怪我をし行きがかり上病院まで付いてきた。帰ろうと思ったらコートが血だらけなのに気付いたので家に電話をしてみたということらしい。

 車中では二人とも家出の話題に触れなかった。このままなかったことにして終わるのではと思ったが、それではいけないと思い直した。

 

「すまない」

 狭い玄関に先に入って靴を脱いだ妻の背中に向かって、最敬礼で直角に頭を下げた。

「どうしてお前が家を出たのか考えてみたんだが、よく考えたらどうして今まで一緒にいてくれたのか分からなくなった。悪いところは直すよう努力する。戻ってきてくれ」

 顔を床に向けたまま、腹に力を込めてそう言ってゆっくりと背中と同じ角度で顔を上げた。ここで顔を上げて相手がどんな様子か観察したくなるのが人情だがそれをやると非常にみっともない姿になる。クレーム対応研修で教わったことだ。俺はこういう、妻への謝罪に会社で学んだスキルを使うようなつまらない男だ。妻に愛想をつかされて当然なんだろう。

「ああ、あれ。もういいの」

 妻がこちらを見ずに答えた。

「もういいって……」

 言葉が続かなかった。あの空っぽの冷蔵庫とゴミ箱が答えなのか。

「もう分かったから」

 俺の焦りに気付いているのかいないのか、妻がやっと俺の顔を見た。

「いてもいなくてもいいような人だけど、それがあなたのいいところだって分かったの」

 家出をした妻にこんなことを言われ俺は――途方もなく安心していた。

 

 三日、いや四日前に俺が帰ってこないことに腹を立てた妻は、冷蔵庫の中身を全てゴミ袋にまとめて収集に出し、着替えを詰めてホテルに移ったらしい。しかし俺からの連絡がない間に怒りが収まり頭も冷え、ちょうどよく(ケンカに巻き込まれた同僚は気の毒だが)きっかけができたので連絡してみたそうだ。

「家を出てホテルに移ったらすごく開放感があるんじゃないかって思ってたんだけど、通勤が楽になっただけで気分は大して変わらなかったのよねえ。別居した友達の話とはずいぶん違うな、なら戻っても一緒かなって」

 晴れ晴れとした顔でそう言った妻の手を黙って握った。

「なによっ」

 慌てた妻が引こうとした手を強く握って止めた。

 

 これがあの手と同じかどうかはやっぱりよく分からない。俺はそういうデリケートな男じゃない。

 

 でももしあの手が、俺に愛想をつかすのをやめた妻が差し伸べてくれた手だったとしたら、握り返したのは正解だったんじゃないかと思う。

 

「ずっと連絡できなくて悪かった」

 握った手を見つめたままそう言うと、妻の抵抗がゆるんだ。

「弥生は一緒にいる意義を感じられないかもしれないが、俺はそんなしっかり者の奥さんが自慢だ」

「……あのね」

 妻が一拍置いて、続けた。

「ちょっと寂しいなと思うときもあるけど、私もあなたと一緒にいるの、すごく楽なの。大恋愛で結ばれたわけじゃないけど、五年間一緒にいてあなたと同じ家にいたくないって思うこと、一度もなかったの」

「俺もだ」

「だけどね……もしかしたらお互いに惰性で一緒にいるだけなのかなって思って。普段と違うことしたらあなたがどうするか知りたかったの」

 本当にそれだけなのか、何か行き詰まっていることがあったんじゃないのか、そう訊きたい気持ちはあるが、疑い始めたらきりがない。

 一緒にいる時間が少ない、お互いに違う場所で仕事をし、違う人間関係で揉まれている俺達二人が一緒にいる意義は、ただお互いがそうしたいからという以外にない。


「だからあなたがライト消し忘れてて、ちょっと嬉しくなっちゃった」

 そう言って笑った妻を俺は怒れなかった。俺も妻が家出をしたことで、妻が惰性で俺と一緒にいるだけじゃないと知って嬉しくなったから。


 こうして妻の家出は終わった。


 俺達はあいかわらずすれ違いの多い生活を送っている。

 時々、夜遅くにベッドを弾ませないよう注意して布団に滑り込んで、寝ている妻の手を握ってみることがある。俺にはやっぱりその感触があの夜と同じかどうかは分からないが、もしまた同じことがあっても握った手は離さないつもりでいる。

 そしてできれば、妻もそうしてくれていたらいいなと思っている。

 

end.(2010/12/23サイト初出)

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