誰の当たり前か、誰の普通か。
私は捻くれていて、異端でいたいと思う。このような自分だから、当たり前や普通という事柄をすんなりと受け入れる事が嫌で何故それが正しいのか、当たり前なのかとよく考える。
この短い文で「何を言っているんだこいつは。」と思う人は読まない方がいい。なんとなく気になった人は読んでほしい。
私は物事や規則というモノをリーダー達が作り上げるように、当たり前や普通もそうなのだと思う。例えば、何の変哲もない青年が「あそこの店の料理はおいしい」という。次にいかにもカリスマ性あふれる青年が「あそこの店の料理はおいしくない」という。この二つを比べた時、あなたはどちらを選択するだろうか、おそらく後者だろう。前者を選ぶという人もいるだろうが何の特徴もない青年とカリスマ性という長所を持ち合わせた青年というだけの比較対象ならば後者を選択する人がほとんどである。
つまり、大多数の人が好感を持てる魅力や地位を持つ人物の言葉が真実となり、本当の真実を言っていたとしても何も特徴を持たない人物の言葉は偽りとなるのだ。これは、あるお話のように「オオカミが来た。」と叫んでも聞く耳を持ってもらえない状況と少し似ている。彼の場合は人物像にマイナス要素があるため今回の例とは若干の差があるが魅力も持たずましてやマイナスの特徴をもった人の言葉の受け入れられないという結果であろう。
私はこのことに気づいてから尚更当たり前について嫌になる。本来はもっと効率も良く誰もがプラスの恩恵を受けれることも多くあるのだろう。それが、人に支持される者たちの言葉で捻じ曲げられる。ニンゲンは頭のいい生き物だ、想像もできる。この力が危機を回避したりすることへ大いに貢献しているのだが、一つ考えてほしい。簡単な物事であるならば想像で回避するに事足りる、例えばガラスのコップを落としたら割れるとか。しかし、だ、実はそのコップはかなり丈夫な硬質ガラスで出来ていて全く割れなかった、とする。そうすれば今後そのコップは同じ状況で落としても割れないと知り今までのように強い注意の必要はなくなる。
これらのことから私が言いたいことは「経験しないと分からない。」である。頭で考え絞り出したことが実際の場面では全く役に立たないことは良くある。どんなに良いことでも悪いことでも実際に経験しないと分からない。
こういってしまうと当たり前や普通が本来間違いであるとしても経験して新たな真実を知るという点では今ある当たり前や普通でもいいのではないか、と思う人もいるのだろう。しかし、それはあなたが選択したことなのか。選択していない普通ということへ嫌悪を抱いても怒りを感じないだろうか。その怒りは誰が受け止めるのか。
私は普通や当たり前をすべて否定する訳ではない。しかし、その安心感のある普通や当たり前に少しでも注意を向けてほしいと思う。違和感なく受け入れていいことなのか、それらを自分自身でもう一度考えてほしい。