夜の砂浜
「これから海にドライブしようって言ってるんだけど、お前も行かないか?」
サークルの練習後、急に岩本さんに誘われた。
「海って……宇佐美の浜、ですか?」
うん、と彼は首を縦に振った。
「今んとこ、オレと、城山と、めぐみと、早紀。四人なんだけど」
「あそこ……夜、ヤバイでしょ?」
彼は再び頷く。
「ヤバイけど。めぐみも早紀も、見えないらしい。だったら、一回行ってみるかってなってさ。城山も見えないって言うし」
どう? と尋ねられ、うーん、と少し考える。
あの浜には行きたくない。帰宅も遅くなるだろう。
けれど。
「……行きます」
なぜだか、行かないよりは行った方が良いような気がした。
宇佐美の浜は、観光スポットとして有名だ。東側と西側、それぞれに岬があり、その間を弓形に湾曲した砂浜が広がっている。
昼間は打ち寄せる波が白い泡を立て、太陽の光が砂浜に燦燦と降り注ぎ、遠くに見える水平線と空の青は、時間と共にその濃淡を変える。観光客やカップルが多く訪れる賑やかな場所。
しかし、夜になると。
雰囲気が一変する。地元の人間は誰も近付かない。
岩本さんの車が駐車場に滑り込んだ。通常は観光バス用だけれど、夜の十時を過ぎ、他に停まっている車は一つもなかった。
ドアを開け、降りようと片足を外へ出した途端、じっとりと湿った空気が絡みつく。
これは潮風だ。わかってはいるけれど、重苦しい、嫌な感じがする。
街灯には明かりが灯っているのに、とても暗い。……いや、屋外だから、こんなものだろう。そう自分に言い聞かせる。
「すみません、おトイレ行ってきまーす」
めぐみはいつもと変わらず明るい声でそう言って、公衆トイレに向かってスタスタと歩き出した。早紀もその後に続く。
本当に、何も感じていないのだろうか。
……いや、今はそんなことよりも。一回生だけ別行動をさせるわけにはいかず、私は彼女達を追いかけた。
トイレを済ませ、男性陣と合流し、浜へと続く坂道を降る。坂は百メートルほど。両側は防潮林の松が鬱蒼と繁り、夜闇よりもさらに暗い影を落とす。
ここも、なんだか薄気味悪い。街灯の明かりは坂の頂上にあるだけ。坂の底は、黒く靄がかかったように朧げで。
木々の間から何かが覗いているんじゃないか。
いや、気のせいだ。何もいない。いたとしても、暗くて見えないはずだ。もし見えるとすれば、それは。
「……なんか、暗いな」
岩本さんがボソッと呟く。城山さんが尋ねる。
「懐中電灯は?」
「車の中。取りに行く?」
「うーん……めんどくさくね?」
「だなぁ……まあ、いいか」
二人は先へ進んで行く。続いてめぐみと早紀も歩き出した。
どうやら彼らはこの坂を、それほど心細くは思っていないようだった。他愛ないことを弾むような声で言い合っている。
ならば、皆の歩くスピードが少しずつ早くなっていくのは、坂道を降っているからだ。他に理由なんて、ない。
坂の底へとたどり着く。曲がり角から仄かに光がこぼれている。
そこには美しくカーブを描いた白い砂浜と、静かに打ち寄せる波、濃い紺色の沖合に、深い藍色の空、明るく輝く白い月。絵画のように美しい光景が視界いっぱいに広がっていた。
先ほどまでの重苦しかった感覚は、遠くに薄れてしまった。
「うわあ……。すごくきれい!」
早紀が感嘆の息を漏らし、砂を蹴って波打ち際へと走り出す。
引いていく波を追いかけ、迫ってくる波から逃げて。
「海、入りたーい!」
めぐみがカバンを砂の上に下ろし、スニーカーを脱ぎ始めた。
「よっしゃ、行くか!」
城山さんもジーンズの裾を巻き上げ、素足になって浜を駆ける。早紀がめぐみのところまで戻り、同じようにサンダルを脱いだ。
「オレもー! お前はどうする?」
岩本さんに聞かれ、私はやめときます、と首を横に振った。私達以外に人が来ないとは限らない。皆のノリになんだかついていけなかったこともあり、私は四人から離れて浜で一人、荷物番をすることにした。
置かれた荷物の隣に腰を下ろし、両腕で膝を抱え込む。
月は冴え冴えと世界を照らし、柔らかな光を降り注いでいる。遮るものは何もない。
けれど、その光は波間にいる四人の表情を判別できるほど強くはなく。
波を掛け合うパシャパシャという音や、楽しそうな笑い声が、波の音に混ざって耳に届く。
私は四人をぼうっと眺める。
寄せては返す波の音が、とても穏やかで。
はしゃいでいる彼らとは対象的に、私の気持ちは静かに落ち着いていく。
ふと、視界の左端に何か白っぽいものが映っていることに気付いた。
私から少し離れたところで、私と同じように、膝を両腕で抱え込んで座っている。
……ああ、めぐみか、早紀か、どちらかがいつの間にか浜に上がったんだろう。
そう思い、再び前方に焦点を合わせる。そこには、四人の黒い影。
ぎくり、と体が固まった。心臓が早鐘を打つ。
じゃあ、私が見たのは。
ゴクリと生唾を飲む。ゆっくり、ゆっくりと、顔を左の方に向ける。
見たくない、と脳は訴えているが、心が知りたい、と主張して。
最後まで拒否していた視線を力づくでそちらへ動かした。
そこには。
何もなかった。
白い砂浜が広がっているだけ。
ほう、と安堵の息をついた。急いで岩本さん達に視線を遣る。
彼らは変わらず楽しそうにはしゃぎまわっていて。
何も気付いてはいないらしい。
……ならば、これは黙っていよう。一人で騒いでも滑稽なだけ。
それからどれくらい時間が経ったのか。
四人は砂浜に上がり、それぞれカバンからハンカチやタオルを取り出した。
「……なあ、悦子」
城山さんが私の顔を見下ろしている。なんだか顔が強張っているように見えた。
「あのさ……さっき、お前の右側……お前からしたら、左側か。……誰か、座ってなかったか?」
「……もしかして、体育座りしてました?」
私の問いに、そうそう、と城山さんは首肯する。
「……白っぽい、女の人ですか?」
「そうそう。女の人だった!」
城山さんの声はだんだん大きくなる。
「あー、悦子が座ってるのか、って思ったんだけど。いや、でも、こっちに悦子いるぞ。え、じゃあ今のは誰よ? って、もっかい見てみたら、いなかった」
「それなら……私も見ました。左側に、誰か座ってるな、って。めぐみか早紀だろうなと思ったんですけど、目の前にいるから違うって思って……」
めぐみと早紀の顔がさあっと青褪めた。
「……ウソ」
「本当ですか? 見間違いじゃ……」
「岩本、お前は? 見た?」
「……いや、見なかった」
不安は波のように押し寄せる。二人の人間が、離れた場所で、同じような見間違いをするだろうか。
誰からともなく、帰ろう、と声が上がった。急いで荷物を拾い、履物を引っ掛けるようにして早足で砂浜を後にする。
曲がり角を曲がり、坂を見上げると、さっきより闇が濃く大きくなっているような気がした。
「……ここ、ヤバくね?」
岩本さんの掠れ声。息も荒くなっている。
「走って、一気に駆け上がろう」
城山さんはそう言って、我先にと走り出す。
「ちょっ……! 置いていかないでくださいよ!」
慌てて皆も走り出す。私も必死で追いかけた。誰かの喚き声が聞こえる。
坂の頂上が、とてつもなく遠い。
早く。もっと早く。
さもないと、追いつかれてしまう。
足がもつれ、転びそうになるのをなんとか堪えて。
坂を上がりきり、駐車場へ。その勢いのまま車まで走り、モタモタと鍵を取り出している岩本さんを、ジリジリしながら待って。
鍵が開いた瞬間、全員が大急ぎで乗り込み、バタン、と大きな音を立ててドアを閉めた。
エンジンがかかると同時に、急発進で車が走り出す。
車内は沈黙に包まれる。岩本さんの運転は荒々しいけれど、不満を言う人間は誰もいない。
少しでも早く。
少しでも遠くへ。
全員がそう思っているに違いない。
私を除いて。
漬物石でも乗せられたように、右肩がずっしりと重かった。
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