探偵 佐野雪芽
夏休みがもうすぐ終わる。
カレンダーの数字はただの印刷なのに、胸の奥にだけ重みを落としてくる。俺にとって夏休みは、楽しいだけの時間じゃなかった。アリスと笑った海、花火、浴衣――その全部の隣に、田村という影が伸びた。家の郵便受けに手紙が入った夜の冷たさ、スマホに届いた写真の気持ち悪さ。そういうものが、夏の熱に混ざって残っている。
決着はついた、と言える状態にはなった。誓約だの、署名だの、学校の明文化だの、そういう“枠”で止めた。
それでも、完全に元通りにはなれない。
怖さは、消えるんじゃなくて薄くなる。薄くなるまでには時間がいる。だから俺たちは、焦らず、でも止まらずに日常へ戻る途中だった。
アリスはまだ太刀川家に泊まっている。安全のため、という理由は正しい。正しいからこそ、胸が痛い。俺の家に当たり前にいたはずの彼女が、今は“当たり前に会えない距離”にいる。それを、俺は自分の中で何度も言い聞かせて納得させていた。
その日も、俺は夕方に太刀川家へ向かった。アリスと明日の予定を確認して、宿題の進み具合を見て、少しだけでも“いつも通り”の会話をしたかった。
太刀川家の門の前に立つと、蝉の声が少し遠い。風はまだ生ぬるいけれど、日が傾くと肌に触れる温度だけがわずかに落ちる。夏の終わりが、匂いとして混ざり始めている。
インターホンを押そうとした時、玄関の向こうから声が聞こえた。
男の低い声。健一さんだ。もう一人、女の声が混じっている。聞き慣れない声。落ち着いていて、温度が低い。甘くも明るくもない、淡々とした声。
俺は一瞬、足を止めた。
来客?
恵さんの友人か、近所の人か。そんな風に思ったが、会話の単語が耳に引っかかった。
「……映像の件は?」
女の声が言った。
「学校の協力は難しい。だが、駅の――」
健一さんが答える。
映像。駅。
俺の背中が、わずかに冷える。朝日の事故。転落――いや、突き落とし。あの話と繋がる言葉だ。
『朝日の死、事故じゃないかもしれないって、警察の人が言ってるの』
『ホームに朝日を突き落とした人間がいるかもしれないって。目撃情報も出てきて、今も捜査中らしくて……』
過去に恵さんが言っていた言葉たちが過ぎる。
俺が息を止めた瞬間、玄関のドアが開いた。
そこに立っていたのは、見知らぬ女性だった。
まず、綺麗だと思った。綺麗、という言葉が先に出てしまうタイプの美しさ。髪は黒に近い落ち着いた色で、長さは肩より少し下。肌は白く、目元は涼しい。化粧は薄いのに、輪郭がはっきりしているせいで印象が強い。
ただ、その美しさに“生気”が薄い。
眠そうというより、世界に興味がないような目をしている。唇の色も淡く、表情の動きが少ない。全体が“気だるい”のに、立ち姿だけは不思議と整っていた。
その女性が、俺を見た。
視線が刺さる。鋭いのに、熱がない。観察する刃物みたいな目。
「……?」
彼女が小さく首を傾げた、そのタイミングで健一さんが玄関に出てきた。
「ああ、隆太郎くん」
「こんばんは。……お邪魔、してました?」
「いや。ちょうどいい」
健一さんがそう言った瞬間、玄関の奥から足音がして、アリスが顔を出した。
「隆太郎?」
その声で、俺の緊張が少しだけほどけた。アリスがいるだけで、空気が変わる。けれど同時に、さっきの女性の視線がアリスへ移ったのが分かった。
一拍。
彼女の目が、ほんの僅かに細くなる。
違和感を噛み砕く時の目。
「アリス」
健一さんが、ごく自然にそう呼んだ。朝日ではない。外部の人がいる場では“アリス”。当然の運用。健一さんは表情を変えない。
「こちら、佐野さんだ。……俺が頼んでる」
頼んでる。その言い方は曖昧だけど、意味は重い。俺は直感で理解した。
探偵だ。
朝日の事故を追っている。健一さんが誰かに依頼しているなら、それしかない。
佐野と呼ばれた女性は、俺とアリスを交互に見たあと、淡い声で言った。
「佐野雪芽。……依頼の件で来てた」
声が低いわけじゃないのに、落ち着きすぎていて、感情の山がない。仕事の話をしているはずなのに、どこか眠たげ。なのに、単語の選び方は正確で、余計な言葉がない。
ギャップというより、二つの温度が同居している感じだった。
健一さんが短く補足する。
「探偵だ」
俺は背筋を正して頭を下げた。
「宮本隆太郎です。……お世話になってます、って言うのも変ですけど」
佐野さんは、ほんの少しだけ口角を上げた。笑ったというより、反応した程度。
「……変じゃない。依頼者側の関係者。把握した」
把握した、という言葉が妙に事務的で、俺は返し方に迷った。アリスが一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「白金アリスです。よろしくお願いします」
アリスの声はいつもより硬い。佐野さんの雰囲気に飲まれているのもあるし、健一さんと佐野さんの会話の単語を聞いて、何の話か察したのもある。
佐野さんは、アリスを見つめたまま言った。
「……留学生、だったよね」
確認の口調。肯定ではない。探るような口調。
健一さんが、間髪入れずに答える。
「そうだ。うちにホームステイしてる」
アリスが小さく頷く。
「はい。今は、太刀川家にお世話になってます」
佐野さんは「ふうん」と小さく息を吐いた。興味がないふりをして、興味がある呼吸。俺はその呼吸が少しだけ気持ち悪かった。田村とは違う。けれど、同じ“観察される不快感”があった。
健一さんが話題を戻す。
「さっきの続きだ。進展は?」
佐野さんは一瞬、だるそうに瞼を落としてから、仕事の顔に切り替えた。空気が変わる。温度がさらに下がって、言葉がまっすぐになる。
「駅の監視カメラは、当日の該当時間帯が一部欠落してる。故障じゃなく、保存の段階で消えてる可能性がある」
俺の喉がひやりとした。
欠落。消えてる可能性。
つまり、誰かが消した。誰かが“痕跡を消した”。
佐野さんは続ける。
「ただ、ホーム全体の映像が消えてるわけじゃない。周辺の別カメラは残ってる。……人の流れから“異物”を拾う」
異物。犯人。朝日を線路へ突き落とした“誰か”。
健一さんの声が低くなる。
「……拾えそうか」
「拾える可能性はある。けど、時間がかかる。人の流れはノイズが多い」
「構わない。時間は――」
健一さんが言いかけて、アリスを一瞬見た。言葉を止める。朝日の正体を知らない佐野さんの前で、余計な感情を出さない。健一さんはそのまま言い直した。
「……時間はかけていい。確実に」
佐野さんは頷いた。
「了解。あと――犯人の動機はまだ不明。でも、衝動じゃない。準備してる。手際がいい」
手際がいい。
その単語が、背中に冷たく残った。田村のような“勘違いの暴走”じゃない。もっと別の、冷たい悪意。
会話が一段落したところで、佐野さんがふっと力を抜いた。肩が少し落ち、目の温度が戻る。さっきまでの鋭さが、気だるさに溶ける。
「……疲れた。糖分ほしい」
唐突すぎて、俺は一瞬固まった。健一さんも一拍遅れて、「恵、何かあるか」と奥へ声をかけた。
恵さんが台所から顔を出す。
「佐野さん、甘いもの? クッキーならあるけど」
「それでいい」
即答。仕事の顔のまま、要求だけはゆるい。ギャップが強すぎて、俺はついアリスを見た。アリスも同じ顔をしていて、目が合って小さく苦笑いした。
恵さんがクッキーを出して、佐野さんが一枚齧る。咀嚼の仕方まで淡々としているのに、「甘い」とだけ呟くのが妙に人間っぽい。
その瞬間、佐野さんが俺に視線を向けた。
「宮本くん」
「はい」
「君、太刀川朝日と同級生?」
心臓が跳ねた。
質問は自然だ。でも、その自然さが怖い。健一さんが依頼者で、俺が関係者なら、聞かれるのは当然。けれど、今の俺は“朝日を知っている隆太郎”で、目の前には“朝日そのもの”がいる。
俺は息を整えて答えた。
「……はい。幼馴染でした」
佐野さんは少しだけ目を細める。
「幼馴染。なるほど」
その“なるほど”が、何かをメモした声に聞こえた。
さらに佐野さんは、アリスへ視線を移す。
「白金さんは……日本語、上手いね」
「ありがとうございます」
アリスが笑顔を作る。でも、作った笑顔だ。俺はそれが分かってしまう。
佐野さんは気だるげに続けた。
「……日本の生活、慣れた?」
「はい。皆さん優しくて」
「ふうん」
佐野さんはそれ以上突っ込まない。突っ込まないのに、視線が一度だけアリスの顔の輪郭をなぞるみたいに動いた。顎の線、目の形、身長のバランス。
観察。
俺の背中に、また冷たいものが残る。
会話は、それ以上は広がらなかった。佐野さんはクッキーを食べ終えると立ち上がり、健一さんに軽く頭を下げた。
「……じゃ、また連絡する。進展あれば」
「ああ。頼む」
玄関まで送る途中、佐野さんがふっと足を止めた。アリスの横で止まる。距離が近い。香水の匂いはしない。代わりに、冷たい石鹸みたいな匂いがした。
佐野さんはアリスを見て、淡い声で言った。
「……白金さん。気をつけてね」
「え……?」
アリスが目を丸くする。
「この街、今、少し変。……変なのがいる」
それだけ言って、佐野さんは玄関を出た。
残された空気が、妙に重い。
健一さんが「気にするな」と言う前に、俺はアリスの手を握った。アリスの指先が冷たい。俺は低く言った。
「大丈夫。俺がいる」
アリスが小さく頷いた。
「……うん」
その日の夜、太刀川家から帰る道で、俺は何度も佐野雪芽という名前を反芻した。
ダウナーで気だるいのに、仕事のときだけ刃物みたいに正確になる女。
そして――アリスを見た目で“測った”女。
これは偶然の遭遇じゃない。
少なくとも、俺の直感はそう告げていた。
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