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 田村の件に終わりが近づいた、と聞いた日の夜。俺は久しぶりに、スマホを伏せたまま眠れた。


 通知が来るかもしれない、という前提で神経を尖らせていた日々が、ほんの少しだけ後ろへ引いた。完全に消えたわけじゃない。けれど「反射で怯える」状態から、「警戒しながら生活できる」状態へ戻った。それだけで、世界はずいぶん違って見える。


 翌日、俺は太刀川家へ行った。アリスに、ちゃんと“終わった形”を少しでも渡したかったからだ。安心は、ふわっとした言葉じゃなく、現実の手触りで渡したほうがいい。終わりは終わりとして、形にして残す必要がある。


 玄関のチャイムを押すと、恵さんがすぐに出てきた。


「隆太郎くん、いらっしゃい。朝日、今ね――」


 言い終える前に、廊下の奥から足音がして、アリスが現れた。髪はひとつに結んでいて、目は少し腫れている。でも、顔色は悪くない。泣いたあと特有の“疲れ”があるのに、崩れてはいなかった。


「隆太郎」


 声が、前よりちゃんと出ていた。


「来た。……落ち着いてる?」


「うん。……でも、まだちょっとだけ、怖いのが残ってる」


 それを言える時点で、もう少し戻っている。俺は頷いて、玄関を上がった。


 リビングには健一さんがいて、いつものように新聞を読んでいた。俺が入ると視線を上げ、短く頷く。


「来たか」


「はい」


 机の上には、封筒が一つ置かれていた。学校の書類で使うような白い封筒。角がきっちりしていて、余計な飾りがない。中身が“手続き”であることを主張しているみたいだった。


 アリスの視線が封筒に一度だけ落ちて、すぐに逸れた。恐怖というより、まだ触れるのがしんどい、という表情。


 健一さんが言った。


「これが、学校で交わした誓約の控えだ。こちらの分。学校保管分とは別に、相手の保護者も同じ内容を持っている」


 母さんも昨日言っていた。“涙じゃなく、記録で判断する”。まさにそれだ。終わらせるのは相手の気持ちじゃない。行動を止める枠を作り、その枠を破った瞬間に次へ進める状態にする。そこまで整えるのが決着だ。


「田村は、もう接触しないと署名した。学校も再発時の対応を明文化した」


 健一さんの声は淡々としていた。怒りの余韻はある。でも、怒りのまま動かない人の声だ。怒りを“手順”に落とし込んだ声。


 恵さんがキッチンから麦茶を持ってきて、アリスの前に置いた。


「朝日、飲んで。今日は、体を休める日にしよう」


「うん、ありがとう、お母さん」


 アリスは麦茶を一口飲んで、ようやく呼吸が深くなる。俺はその様子を見て、肩の奥の力が抜けるのを感じた。


 俺はアリスの隣に座って、低い声で言った。


「……朝日、昨日からちゃんと寝れてる?」


「少しだけ。途中で起きたけど、前みたいに心臓バクバクじゃなかった」


「それなら、いい」


 いい、と言いながら、俺の胸の奥はまだ完全に落ち着かない。恐怖の習慣はすぐには消えない。夜に物音がしたら反射で身構える。スマホが震えたら一瞬で最悪を想像する。そういう癖が残る。


 でも、癖は時間で薄れる。生活のリズムで上書きできる。だから――生活を戻す。


 そのための一歩が、今日のテーマだった。


 ※ ※ ※


 昼前、健一さんが「少し歩くか」と言った。


 意外な提案だった。守りを固める人ほど、まず“閉じる”方向に動くと思っていた。けれど、健一さんは最初から違った。守るために閉じるだけじゃなく、守るために日常へ戻す。そのバランスを知っている。


 恵さんが頷く。


「朝日、無理しない程度に。近所の公園だけね」


 アリスは一瞬迷って、俺を見た。俺が頷くと、彼女も小さく頷いた。


「……行く。隆太郎も一緒なら」


「一緒に行く」


 外は暑かったけど、風が少しだけ涼しかった。太刀川家の近所の道を歩くと、夏休みの子どもたちの声が遠くから聞こえる。アイスの袋を持って走る小学生。犬の散歩をする老人。自転車で通り過ぎる高校生。平凡な景色が、妙に眩しい。


 アリスは最初、歩く速度が遅かった。肩が少し上がって、視線が周囲を無意識に確認している。俺も同じだった。警戒が染みついている。


 でも、公園の木陰に入った瞬間、アリスの呼吸が少しだけ柔らかくなった。葉の匂いと土の匂い。風が枝を揺らす音。こういう自然の音は、スマホの振動みたいに刺さらない。


 ベンチに座ると、恵さんが言った。


「朝日、今はここにいる。安全だから、大丈夫」


 アリスは小さく笑った。


「お母さん、それ、百合子さんも言ってた」


「似てきたのかしらね」


 恵さんが笑って、健一さんは小さく鼻を鳴らした。それが笑いなのかは分からないけど、空気が少しだけほぐれる。


 俺はアリスの横顔を見て、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


 この子は、ここにいる。

 俺たちは、ここにいる。


 それだけでいい日が、ようやく戻ってきた。


 アリスがぽつりと言った。


「隆太郎、私ね……許すとか、許さないとか、まだ分からない」


「分からなくていい」


「でも……終わったっていう形が近づくと、息できる」


 息できる。あの言葉が、俺の中で何度も反芻される。生きることの一番基本のところが、ようやく戻ってきた。


「じゃあ、次は――」


 俺は言いかけて、言葉を飲み込んだ。“次は宮本家に戻る”と言うのは簡単だ。けれどそれは、アリスにとっては挑戦だ。恐怖に勝つ挑戦でもある。勝たせたい気持ちが強すぎると、押し付けになる。


 アリスが先に言った。


「……あの家に、帰りたい。今日じゃなくてもいい。だけど、帰りたい」


 胸がきゅっとなった。嬉しさと、責任と、怖さが同時に来る。


「帰ろう。段階踏んで」


 俺は現実的に答えた。


「まず、週末に一泊だけ。母さんもいる。健一さんも迎えに来れる距離で。無理ならすぐ戻る。それでいい」


 アリスは、少しだけ目を見開いて、それから、静かに頷いた。


「うん。……それなら、できる」


 その“できる”が、何より強い。


 ※ ※ ※


 夕方、俺は自宅に戻った。母さんに、今日のアリスの様子を伝えるためだ。


 家に入ると、母さんは台所で夕飯の準備をしていた。包丁の音が、いつも通り規則正しい。生活が続いている音だ。


「ただいま」


「おかえり。どうだった?」


「……少し、戻ってきてる。歩けたし、笑ったよ」


 母さんが小さく笑う。


「よかった」


「週末、一泊だけこの家に戻す案、出したよ。アリスも“できる”って言ってた」


 母さんは包丁を置いて、ゆっくり頷いた。


「いい判断ね。段階を作るのは大事。恐怖は“成功体験”で薄まるからね」


 母さんの言い方が妙に的確で、俺は苦笑いした。


「成功体験、って言い方がビジネスだな」


「必要な時は必要な言葉でいいの」


 母さんはそう言って、鍋の火を弱めた。


「隆太郎。あなたも少し休みなさい。ずっと張りつめてたでしょ」


「……うん」


 休む、という言葉が、今までの俺には贅沢に感じた。守るって決めた瞬間から、休むことに罪悪感が混ざっていた。けど、守りは体力がいる。疲れたら判断が鈍る。鈍れば取り返しがつかない。


 俺はソファに座って、ようやく深い息を吐いた。


 田村の件は、枠で終わった。

 再発したら次へ進める状態で終わった。

 だから、俺たちは前を向ける。


 そう整理した瞬間、胸の奥に小さな空白ができた。空白ができると、人は別のことを考えてしまう。


 ――朝日を突き落とした犯人は、まだ分からない。


 その思考が、静かに顔を出した。


 田村は“目に見える脅威”だった。家族で動けた。枠を作れた。けれど、あの事件の犯人は違う。理由も分からない。顔も分からない。動機も分からない。


 不気味なのは、そっちだ。


 俺はその思考を一旦押し戻した。今夜は、田村の件を終える夜だ。これ以上、別の恐怖を増やさない。


 ※ ※ ※


 ――同じ夜。


 駅近くの街中、人気のないアパートの裏手。蛍光灯が一つ、虫を集めながら白く灯っていた。


 男は、そこにいた。


 背が高く、整った顔立ち。どこにでもいそうな若さと清潔感。けれど、目の奥だけが妙に冷たい。冷たいというより、温度がない。


 足元には、女が倒れている。声はもう出ない。傷口も深く、息も浅い。男はしゃがみ込んで、濡れた髪を指で軽く払った。まるで汚れを取るみたいな仕草だった。


「……ああ」


 男は小さく息を吐いた。満足の吐息でも、興奮でもない。確認の吐息。


 そして、ゆっくりと立ち上がる。手のひらに赤い色が滲んでいた。男はそれを見つめ、微かに口角を上げた。


「楽しいな」


 誰にも聞かせる必要のない声。独り言。けれど、その響きだけが異様に明るい。


 男は指先を舐めるように拭い、ポケットからハンカチを取り出して丁寧に手とナイフを拭いた。終わった行為の片付けをするみたいに、無駄がない。


 その場を去る直前、男は振り返って、倒れた女を一度だけ見た。


 同情も、躊躇もない。


 ただ、“次”を考える目。


 そして男は、夜の闇の中へ溶けた。


 終わりゆく夏休みの夜は、静かに過ぎていく。


 その静けさの下で、別のドス黒い影が歩き始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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