大切な人を守る為に
サムネイルに映った白い肩の輪郭が、俺の脳裏に焼きついて離れなかった。
写真はただの画像だ。紙切れでも、数字でもない。なのに、人の生活を侵す力がある。視線を“形”にして、こちらの世界へ投げ込んでくる。昨日までの手紙やメッセージは、まだ言葉の暴力だった。読むか読まないかを選べた。けれど写真は違う。見ないと決めても、プレビューの一部だけで心臓を掴まれる。
俺は拳を握りしめたまま、呼吸が浅くなっているのを自覚した。怒りで動くのは危険だ。健一さんが「もう遠慮しない」と言ったのは、怒りに任せるという意味じゃない。手順を次に進める、という意味だ。そこを俺が間違えたら、アリスが一番傷つく。
母さんがアリスのスマホをテーブルに伏せ、冷静に言った。
「画像は保存済み。メッセージも保存。送信元の番号も控えた。今から、警察の相談窓口に行ける」
恵さんがすぐに頷く。
「行こう。今のうちに。朝日が落ち着いてるうちに」
アリスは落ち着いてはいない。けれど、取り乱してもいない。唇は震えているが、視線は逃げていない。俺はその強さが痛いほど分かった。強くいなきゃ、と自分を縛っている強さ。
健一さんが俺を見る。
「隆太郎くん。行くのは俺と恵と百合子さんでいい。お前はここで朝日と待て」
待て。守れ。役割分担。
俺は頷きかけて、でも言った。
「……俺も行きたいです」
自分の声が少し震えていた。怒りじゃない。置いていかれる不安だ。外側で何かが決まっていくのに、俺だけ内側に残るのが怖い。アリスを守るのは俺だと誓ったのに、重要な場から外される感覚が嫌だった。
健一さんは短く首を振った。
「気持ちは分かる。だが、今、朝日を一人にしないのが最優先だ」
恵さんも付け足す。
「隆太郎くんがそばにいると、朝日は落ち着ける。あなたはそれだけで役割を果たしてる」
母さんも静かに言った。
「隆太郎、あなたがいることが“安全”になる。今はそれが一番」
俺は唇を噛んだ。正しい。正しいから、悔しい。
アリスが俺の手を握って、小さく言った。
「隆太郎、行かなくていい。私、隆太郎がいない方が怖い」
その言葉で、俺の中の抵抗がほどけた。結局、俺のプライドよりも、アリスの安心が先だ。
「……分かった。ここにいる」
健一さんが頷いた。
「よし。百合子さん、行くぞ」
「ええ」
母さんが立ち上がる。恵さんもバッグを持つ。健一さんは一度だけアリスの頭に手を置いた。大きな手が、短く、でも確かに“守る”と触れてくる。
「朝日。すぐ戻る」
「うん……」
ドアが閉まり、家の中に残ったのは俺とアリスだけになった。
※ ※ ※
外の音が急に遠く感じた。
冷房の音と、時計の針の音だけが、リビングを埋める。テレビはつけていない。つける気分でもない。沈黙が重い。アリスはソファの端に座って膝を抱えたまま、視線を床に落としている。
俺は隣に座って、距離を保ちながら、でも離れない位置にいた。触れれば安心させられるかもしれない。けど、今のアリスは触れられることで“現実”を強く感じすぎるかもしれない。彼女の呼吸に合わせて、俺も呼吸を整える。
「……アリス」
俺が呼ぶと、アリスは小さく顔を上げた。目が赤い。泣いたのを堪えた跡がある。
「写真、見た?」
アリスは震える声で聞いた。見たくない。けれど、知りたい。知らない恐怖に耐えられない。相反する気持ちが混ざっている。
「……全部は見てない。サムネだけ。母さんが保存した」
アリスは少し息を吐いた。
「私、顔、写ってるのかな」
「分からない。でも、写ってても、こっちが悪いわけじゃない」
「……でも、嫌だ」
その「嫌だ」が、胸に刺さる。嫌だと言えることが大切だ。嫌だと言えないまま強がっていたら、折れる。
「嫌だよな。分かる」
俺はそれ以上、励ます言葉を探せなかった。励ましは軽くなる。今のアリスには、軽い言葉は届かない。
アリスは唇を噛み、しばらく黙ってから言った。
「隆太郎……私、また死ぬのかなって思っちゃった」
心臓が止まりそうになった。
「……何言って」
反射で否定しかけて、止めた。否定すると、アリスは自分の感覚を責める。怖い時に怖いと感じるのは当然だ。死の記憶があるならなおさら。
「……そう思うくらい、怖かったんだな」
俺は言った。
アリスの目から、ぽろっと涙が落ちた。
「うん……私、弱い」
「弱くない」
俺は強く言ってしまった。アリスが驚いた顔で俺を見る。俺は言葉を選び直した。
「弱いって思うのは、普通だ。怖いのに、逃げないでいる時点で、十分強い」
アリスは少しだけ笑った。笑ったけど、涙は止まらない。俺はティッシュを渡して、アリスが受け取って目を押さえる。
「隆太郎、怒ってる?」
「怒ってる」
俺は正直に言った。
「でも、怒りで動かない。動いたら、田村の思う通りになる」
「田村の思う通り……」
「田村は、自分が正義だと思ってる。俺が怒鳴ったり手を出したら、『ほら、彼氏は危険だ』って考えを強くする。だから、俺は正しいやり方で切る」
アリスは小さく頷いた。理解してる。でも、感情は追いつかない。そんな顔だ。
俺は続けた。
「だから今日、健一さんたちが警察に相談する。仕組みで止める」
「……警察」
アリスがその単語を口にして、少し震えた。怖い。事が大きくなる。でも、必要。彼女の中でその葛藤が揺れている。
「怖いよな。でも、守るためだ」
アリスは頷いた。
「うん……」
※ ※ ※
夜の九時前、玄関の鍵が回る音がした。
俺は反射で立ち上がり、アリスもびくっとした。けれど次の瞬間、母さんの声がした。
「ただいま」
家の空気が少しだけ緩む。
健一さん、恵さん、母さんが戻ってきた。三人とも疲れた顔をしている。でも、目の奥に“決めた”光があった。何かが進んだ顔だ。
恵さんが真っ先にアリスのところへ行き、両手で頬を包むみたいに触れて言った。
「朝日、大丈夫。ちゃんと相談できたよ」
アリスが涙ぐむ。
「……どうだったの?」
健一さんがリビングの椅子に座り、短く言った。
「警察に相談した。生活安全課。記録も渡した」
母さんが補足する。
「相談番号をもらった。今後また投函や接触があったら、すぐ連絡するようにって。あと、“撮影”は状況次第では明確に違法性が絡む可能性もあるから、証拠を残すのが大事だって」
相談番号。警察が“話を聞いた”という事実。これは大きい。相手に対しても、こちらが次に進めるカードを持ったということだ。
健一さんが続けた。
「学校にも共有した。田村の保護者にも、警察相談まで行ったと伝える。これで、普通の親なら止める」
普通の親なら。
その言葉が、妙に引っかかった。田村本人が止まらない可能性を、健一さんも理解している。だからこそ、釘を刺す。
恵さんがアリスの手を握った。
「朝日、しばらくは一人で外に出ないでね。絶対に」
「うん……」
母さんも言う。
「玄関の郵便受けは、しばらく夜には中身を確認しない。入ってたら、朝に。窓もカーテン閉める。出入りの時間帯も固定しない」
防犯の基本。ルーティンが読まれると危ない。相手が“見てる”ならなおさら。
俺は健一さんに聞いた。
「……写真、どうでした?」
健一さんが一瞬だけ目を細めた。怒りが掠める。
「顔ははっきり写っていない。だが、衣服と場所で特定できる。つまり“狙ってる”」
アリスが息を飲む。顔が写っていないのは救い。でも、狙われている事実は変わらない。
母さんが続ける。
「警察の人も言ってた。“被害が大きくなる前に、相談しておいて正解”って」
俺は頷いた。ここまで来てようやく、胸の奥の棘が少しだけ丸くなるのを感じた。何かが進んだ。守る側が動いた。俺がただ怒っているだけの状態から、手順に乗った。
けれど、同時に思う。
相手が“正義”を証明したがるなら、手順に乗ったこと自体が、相手の逆恨みを刺激するかもしれない。そこが怖い。
健一さんが俺を見た。
「隆太郎くん。明日から、朝日は当面、太刀川家に泊める」
その言葉に、俺の胸がきゅっと縮んだ。安全のためなのは分かる。でも、離れる。離れると、また不安が増える。アリスも同じだろう。
アリスが小さく首を振った。
「……いや。ここがいい」
恵さんが優しく言う。
「朝日、ここが嫌って言ってるんじゃない。でも、今は安全のため」
アリスは俺を見る。俺は迷った。俺が「行け」と言うのは違う。けれど、安全を優先しなきゃいけない。
俺は息を吸って言った。
「……アリス。今は安全が先だ。太刀川家なら、恵さんと健一さんがいる。俺も毎日行く」
アリスの目が潤む。
「……隆太郎、来る?」
「行く。絶対行く」
アリスは唇を噛んで、それから小さく頷いた。
「……うん。分かった」
決めた瞬間、胸が痛かった。けれど、痛い決断が正しい時もある。これは逃げじゃない。守るための移動だ。
恵さんが柔らかく笑った。
「じゃあ、明日、朝日の荷物をまとめよう。最低限でいい。向こうにあるものも使えるし」
母さんも頷く。
「必要なものはこっちで用意する。隆太郎、あなたも手伝って」
「うん」
アリスは泣き笑いみたいな顔で言った。
「なんか……引っ越しみたい」
「一時避難」
健一さんが短く言った。言葉が強い。でも現実的だ。軽く言っていい状況じゃない。
その夜、アリスは自室に戻る前に、俺の袖を引いた。
「隆太郎……」
「ん?」
「……離れるの、怖い。でも、守るためって、分かった」
「うん。守るためだ」
「だから……約束。明日、来て」
「行く。約束」
俺ははっきり言った。言い切らないと、アリスが不安に飲まれる。
アリスは小さく頷いて、部屋へ戻った。
玄関の鍵を確認し、窓のカーテンを全部閉め、母さんが最後に言った。
「今日から、対応フェーズが変わった。怖いのは当然。でも、私たちは一人じゃない」
その言葉を聞きながら、俺は自分の中で認識を更新した。
田村はもう“勘違い”の域を超えた。
写真を送り、家の郵便受けに投函し、見張るように追う。
これは明確に、ストーカー化だ。
そして次は、さらに外側へ踏み出してくる可能性がある。
だからこそ、こちらも次の段階へ進む。
※ ※ ※
翌朝、空気が少しだけ軽く感じたのは、状況が好転したからじゃない。
覚悟が一つ決まったからだ。
“太刀川家に泊まる”。それはアリスを宮本家から追い出す決定じゃない。避難だ。安全確保のためのポジション変更。戦術だ。そう頭では分かっているのに、胸の奥はじくじく痛んだ。俺の隣が、今すぐ当たり前じゃなくなる。その事実が、思った以上に重かった。
朝食の席で、母さんがいつも通り味噌汁をよそいながら言った。
「今日、朝日ちゃんの荷物まとめるわよ。隆太郎、リスト作って」
「うん」
アリスはトーストを齧りながら、小さく頷く。表情は落ち着いているように見えるけれど、視線が時々泳ぐ。噛みしめてるのが分かった。怖さと、悔しさと、寂しさ。いろんな感情を一つにまとめて“平気”の顔を作っている。
「百合子さん、荷物、少なくていい?」
「うん。必要最低限で。向こうにもあるものは使えるから」
「……うん」
俺はその会話を聞きながら、心の中で繰り返した。これは敗北じゃない。奪われたわけじゃない。守るための動きだ。田村に生活の主導権を渡さないための、こちらの主導権の使い方だ。
けれど、現実として「持ち物をまとめる」という行為は、心に“別れ”の匂いを残す。避難は避難でも、気持ちの上では小さな引っ越しだ。
※ ※ ※
アリスの部屋は、きちんとしていた。
ベッドの上にぬいぐるみが一つ。机の上には英語の参考書とノート。壁に貼った小さなメモには「図書館」「宿題」「プール」なんて夏休みの予定が書いてある。計画ノートから抜き出した言葉たち。
――ここで夏を過ごすつもりだったんだ。
俺は胸がきゅっとなった。
母さんが淡々と仕切る。
「下着とパジャマ。普段着は三日分くらい。勉強道具は必須。薬とかは?」
「持ってる」
アリスが小さく答えて、引き出しを開ける。丁寧な手つき。でも、指先が少し震えている。俺は見ていられなくて、バッグを開いて荷物を入れる係に回った。
「隆太郎、これも」
アリスが小さなヘアゴムを差し出す。俺は受け取って袋に入れた。たったそれだけの物なのに、手にした瞬間にアリスの匂いが残っている気がして、胸が痛くなる。
母さんが一度だけ、アリスに優しい声で言った。
「朝日ちゃん、持っていきたいものある? 安心できるもの」
アリスは少し考えて、棚の上の写真立てを取った。
海の写真。太刀川夫妻と母さんと俺、そしてアリス。五人で笑っている。あの日の奇跡が、紙の中に固まっている。
「これ、持っていく」
「うん。いいね」
母さんが頷く。
俺は写真を見て、心の奥が温かくなるのと同時に、また怒りが湧いた。こんなものを準備する必要がある状況が、許せない。
荷物は思ったより少なかった。バッグ二つ。けれど、その二つがやけに重く見えた。
※ ※ ※
昼前に健一さんの車が来た。
玄関のチャイムが鳴ると、アリスの肩がびくりと跳ねた。反射だ。俺も同じ。母さんがすぐに「大丈夫、健一さんよ」と言って、インターホンを確認してから開けた。
「お邪魔します」
健一さんが短く頭を下げる。恵さんも一緒で、アリスを見るなり手を広げた。
「朝日、来たよ」
アリスは一瞬迷って、それから恵さんの胸に飛び込んだ。抱きしめられた瞬間、肩の力が少し抜けるのが分かった。親の抱擁は、やっぱり強い。
「……ありがとう、お母さん」
「当たり前よ」
恵さんがアリスの髪を撫でた。
健一さんはバッグの量を確認して、「これで十分だな」と短く言う。余計な言葉がないのが、今はありがたい。
出発する前、母さんが健一さんに封筒やメッセージの記録について整理したメモを渡した。日時、場所、内容、対応。ビジネスのインシデントログみたいに整然としている。母さんは本気だ。
「学校への連絡履歴も書いてあります」
「助かる」
健一さんが短く答える。
そして恵さんが、少しだけ声を落として言った。
「今日、田村くんの親御さんと話すの。電話で。百合子さんにも同席してほしいって」
母さんが頷いた。
「もちろん」
俺の胸がざわついた。親同士の話し合い。つまり、田村の家庭に直接“現実”を突きつける段階だ。ここで止まればいい。止まってほしい。
アリスは車に乗る前、玄関で立ち止まった。家の中を一度だけ見回す。リビングのソファ。キッチン。階段。自分の部屋へ続く廊下。
帰りたい、じゃない。帰る場所だと確認している顔。
「……行ってくる」
小さく呟く。
「行ってこい」
俺が言うと、アリスは俺を見て、少し笑った。
「隆太郎、今日、来る?」
「行く。夕方、絶対」
アリスは頷いた。
「約束」
「約束」
健一さんの車が走り出し、アリスの金髪が後部座席の窓越しに小さく揺れて、遠ざかった。
家の前に残った静けさが、逆に胸に刺さる。母さんが隣で言った。
「隆太郎、大丈夫?」
「……大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」
母さんは小さく笑った。
「そうね。大丈夫にするのが、私たちの役割」
※ ※ ※
午後。
俺は勉強机に向かったが、問題集の数字が目に入ってこない。集中しようとすると、アリスのいない部屋の気配が頭に入り込む。今、太刀川家にいるアリスは落ち着けているだろうか。田村が何か動いていないだろうか。
スマホが鳴るたびに心臓が跳ねる。通知が来るたび、最悪の想像が先に走る。
そんな中、母さんが「電話するよ」と言った。
田村の親との電話。恵さんも健一さんも、太刀川家側で準備している。母さんはリビングのテーブルに資料を並べ、スピーカー通話に設定した。俺は同席するか迷ったが、母さんが言った。
「隆太郎、あなたも聞いて。今後のために」
「……うん」
電話が繋がる。相手は田村の母親だった。最初の声は、緊張と恐縮が混じっている。
『……このたびは、本当に申し訳ありません』
謝罪から始まった。少なくとも親は状況を重く見ている。
健一さんの声が電話越しに低く響く。
『こちらは謝罪だけで済ませたいとは思っていません。行動を止めていただきたい』
『はい……もちろんです。学校からも話を聞きまして……息子には厳しく――』
そこまで聞いて、俺は少しだけ息を吐いた。話が通じる。大人の会話が成立している。それだけで希望がある。
母さんが落ち着いた声で、時系列を整理して伝える。封筒、投函、着信、撮影と画像送付。警察相談。どれも事実で、感情を挟まない。だからこそ重い。
田村の母親の声が震える。
『……そんなことまで……息子が……』
恵さんが優しいけれど強い声で言った。
『アリスちゃんは怖がっています。家の外に出ることも怖いって言っている。息子さんの行動で、生活が壊れてるんです』
沈黙。電話越しに、相手が言葉を探しているのが分かる。
『……本当に申し訳ありません。すぐに、息子のスマホも預かります。外出も……』
健一さんが言った。
『お願いします。次があれば、こちらは警察へ正式に動きます』
“正式に”。その単語が、会話の温度を一段下げた。脅しではなく、手順の宣言。母さんがすかさず補足する。
「すでに相談番号は取得しています。記録も残しています。こちらも安全確保のために動きます」
相手の母親は何度も謝罪し、約束を重ねた。
俺はそれを聞きながら、少しだけ安堵した。家庭が動くなら、止まる可能性は上がる。田村がいくら正義を語っても、スマホが取り上げられたら動けない。外出が制限されたら追えない。
――止まれ。
心の中でそう念じた。
電話が終わったあと、母さんが机に肘をついて息を吐いた。
「……ここまで話して、止まらないなら、相当よ」
「止まるかな」
俺が問うと、母さんは少しだけ言葉を選んで答えた。
「止まる可能性は高い。けど、油断しない。『止まったように見える期間』が一番危ないこともある」
その言葉が、胸に冷たく残った。止まったように見える期間。相手が水面下で考える期間。逆恨みを熟成させる期間。
俺は歯を食いしばった。
※ ※ ※
夕方、俺は太刀川家へ向かった。
約束したからだ。約束を守ることが、アリスの安心になる。俺が動ける最大の価値は、今そこにある。
太刀川家のインターホンを押すと、恵さんがすぐに出てきた。
「隆太郎くん、来てくれたのね」
「はい。アリスは……?」
「今、リビング。ちょっと落ち着いてきたよ」
玄関を上がると、アリスが走ってきた。
「隆太郎!」
その声が、昨日より少し明るい。俺は胸が緩む。
「来た」
俺が言うと、アリスは俺の袖を掴んで、ほっと息を吐いた。
「……約束、守った」
「当たり前だ」
アリスが少し笑う。その笑いが、俺にとっては救いだった。
リビングでは健一さんが新聞を読んでいたが、俺が入ると視線を上げ、短く頷いた。
「来たか」
「はい」
恵さんがアリスの髪を整えながら言った。
「田村くんのお母さん、スマホ預かるって。外出も控えさせるって言ってた」
アリスが少しだけ目を見開く。
「……ほんとに?」
「うん。だから、少しずつ安心していい」
恵さんの言葉は優しい。でも“少しずつ”という留保がある。油断しないためだ。
アリスはソファに座り、俺の隣にちょこんと座った。距離が近い。肩が触れそうで触れないくらい。その距離が、俺に現実を戻してくる。
「隆太郎……私、ここにいてもいい?」
「いいに決まってる」
「……また宮本家にも帰れる?」
「帰れる。落ち着いたら」
俺が言うと、アリスは小さく頷いた。目に少しだけ光が戻る。
そのとき、健一さんが低い声で言った。
「だが、しばらくは油断しない。田村の親が動いても、本人がどう受け取るかは別だ。……特に“拒絶された”と感じた男は、厄介だ」
言葉が現実的すぎて、空気が少し張る。アリスの肩が小さく震える。俺は机の下で、アリスの手をそっと握った。アリスは握り返してくる。温かい。
恵さんが場を和らげるように言った。
「今日はね、朝日が好きなカレー。食べて元気出そう」
「……カレー」
アリスが少し笑った。
食卓を囲みながら、俺は思った。
家族が動いた。警察にも相談した。田村の親にも話した。ここまでやって、ようやく“止まる可能性”が現実になり始めている。
でも、ここからが勝負だ。
相手が“正義の物語”を手放すか。
それとも、別の形で固執するか。
俺はアリスの横顔を見て、改めて心に刻んだ。
守るのは、今の安心だけじゃない。
明日も、来週も、夏休みの終わりまで。
――アリスが「普通」を取り戻すまで。
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