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一線を超える瞬間

 母さんがスクリーンショットを保存して、健一さんに送ったのを見届けたあとも、俺の胸の奥の熱はなかなか引かなかった。


 怒りは、冷めると怖さに変わる。


 田村の言葉は、いつも同じ構造をしている。「助けたい」「君は本当は困っている」「周りが歪めている」。拒絶されても、線を引かれても、その構造が崩れない。崩れないどころか、“証明しよう”とする方向に力が増していく。


 そして、証明のために人は手段を変える。


 俺はそれが怖かった。


 ※ ※ ※


 翌日から数日は、表面上は落ち着いた。


 知らない番号からの着信は一度も来ない。郵便受けに封筒も入っていない。図書館に行くのは控えて、俺とアリスは家で勉強する時間を増やした。母さんはいつもより家にいる時間を長くして、買い物もまとめて済ませるようにしてくれた。


 太刀川家へ行く日も、健一さんが送り迎えをしてくれた。車の中で恵さんが「大丈夫?」と何度も聞いてくれて、そのたびアリスが「うん」と頷く。頷き方はまだ少し硬いけれど、あの夜の震えは少しずつ薄くなっているようにも見えた。


 そういう“落ち着き”が続くと、人は油断する。


 俺は油断したくなかった。けれど、油断したくない気持ちが強すぎると、生活そのものが窮屈になる。アリスの「普通にしたい」という願いを、俺が先に折ってしまう。


 だから、俺たちは小さな“外出”を再開することにした。


 母さんの提案で、昼間の人が多い時間帯に、近所のスーパーへ一緒に行く。買うのは日用品と食材。たったそれだけ。でも、外に出るという行為が、俺たちにとっては「奪われない」という宣言にもなる。


 その日、空は雲が少なくて、日差しがまっすぐ降りていた。風も弱い。蝉の声が一段大きい。アリスは白いワンピースに薄いカーディガンを羽織って、髪をひとつに結んでいた。歩くたび、結んだ髪が背中で揺れる。


「緊張する?」


 俺が聞くと、アリスは一瞬だけ迷って、正直に頷いた。


「うん。でも、隆太郎と一緒だから……行く」


「母さんも一緒だしな」


 母さんは少し前を歩きながら、「二人とも、なるべく店内では離れないで」とだけ言った。必要最低限の指示。過剰な警戒を見せない。けれど、目は周囲を静かに拾っている。


 スーパーに入ると、冷たい空気が頬に当たった。青果コーナーの瑞々しい匂い。惣菜コーナーの揚げ物の匂い。生活の匂いが濃い。俺はカートを押しながら、アリスの位置を確認した。


 隣。


 それだけで、少し安心する。


 母さんが卵と牛乳を取っている間、アリスが野菜コーナーを覗き込んだ。


「ねえ隆太郎。トマト、どれがいいと思う?」


「……赤いの」


「雑」


「硬すぎないやつ」


「それそれ」


 アリスが笑って、トマトを選ぶ。その笑顔が、久しぶりに“心から”に見えた。俺の肩の力が少し抜ける。


 ――このまま、何も起きないなら。


 そう思った瞬間だった。


 背中に、妙な感覚が走った。


 視線、というより、空気が擦れる感じ。誰かがこちらを“見ている”だけじゃなく、“切り取っている”ような感覚。上手く言えないけど、目線より鋭い。


 俺は反射で振り返りそうになって、踏みとどまった。振り返ったら、相手の行為を確認することになる。確認してしまったら、今度はこっちが“反応”しなくちゃいけない。母さんがいる。アリスがいる。ここは店内。騒がしくはないけど、注目を集めたくない。


 だから、俺は視線を落として、さりげなくスマホを取り出した。買い物メモを見るふりをして、画面の黒に映る背後を確認する。


 ――通路の向こう。


 食品棚の影。カートを押している男。帽子を深く被っている。顔は半分見えない。けれど、その立ち方が、見覚えのある“ためらいのなさ”を持っていた。


 そして、男の手元にスマホ。


 こちらに向けられている角度。


 俺の背中が冷えた。


 ……撮ってる?


 決定的な瞬間は見えない。見えないが、角度と距離が“偶然の持ち方”じゃない。


 俺はゆっくり歩き出し、アリスの腕に軽く触れた。


「アリス、母さんのところ戻る」


「え? まだ……」


「いいから」


 言い方が強くなってしまい、アリスが驚いた顔をする。俺はすぐに声を落とした。


「……変なのがいる。たぶん、田村」


 アリスの顔が一気に硬くなった。唇が震える。だけど彼女は頷いた。


「……うん」


 俺たちは母さんのところへ戻った。母さんは俺たちの表情を見ただけで、状況を察した。


「……来てる?」


 母さんが小声で聞く。俺は頷いた。


「帽子。通路の向こう。スマホ持ってる。撮ってるかもしれない」


 母さんの目が鋭くなる。だが、すぐに落ち着いた声に戻った。


「いい。レジに向かう。店の人にも伝える。二人とも離れない」


 母さんの指示は明確だった。俺たちはカートを押してレジへ向かった。途中、俺はわざと棚の端を曲がる角度を変え、後方を確認する。男はついてきている……気がする。距離を一定に保つように、影みたいに。


 レジを済ませ、袋詰めをしている間も、俺は視界の端で男を探した。いた。少し離れた場所で、商品を見ているふりをしながら、こちらをちらりと見る。スマホをいじっている。指の動きが、文字を打っているのか、撮った写真を確認しているのか分からない。


 母さんは袋を持ち、サービスカウンターへ向かった。俺とアリスもついていく。母さんがカウンターの店員に何かを説明する。店員の表情が少し変わり、奥へ連絡を入れる仕草をした。


「……これでいい。外へ出ないで、店の中で待つ」


 母さんが俺たちに言った。


 アリスが小さく震えながら呟く。


「……撮られた、のかな」


 俺は即答できなかった。確信がない。でも、確信がないからこそ、被害の可能性は残る。


「……たぶん。可能性が高い」


 アリスの目が潤み、呼吸が浅くなる。俺は反射で、彼女の肩を抱き寄せそうになって、踏みとどまった。ここは人の目がある。抱き寄せたら、逆に“見せ場”になる。相手の写真の価値が上がる。


 俺は、アリスの手を強く握った。握ることで、存在を支える。


「大丈夫。今、母さんが店と動いてる」


 母さんが戻ってきた。


「店の警備員さんが見回りに行った。もし怪しい人がいたら声をかけてくれる」


「……田村が逃げたら」


 俺が言うと、母さんは淡々と答えた。


「逃げてもいい。大事なのは“店で目撃があった”という事実が残ること。こちらが相談した記録も残る」


 記録。証拠。仕組み。母さんの思考はぶれない。俺はその合理性に救われた。


 しばらくして、警備員らしき男性が母さんに近づき、何かを小声で伝えた。母さんが頷く。戻ってきた母さんの顔は、やや硬かった。


「……帽子の男性、店を出たって。走ってはいない。普通に出た。特徴は控えた」


 つまり、確保はできていない。でも、目撃と相談の事実は残った。俺は奥歯を噛んだ。悔しい。ここまでやっても、逃げ切る。捕まえられない。


 アリスが小声で言った。


「……私、もう外、怖い」


 その言葉が、胸に刺さる。外が怖い。夏休みの外が怖い。彼女の世界が狭くなる。それが相手の勝利だ。


「怖くてもいい。でも、全部奪わせない」


 俺は言った。強い言葉なのに、自分の声が少し震えていた。


 母さんが続ける。


「今日はすぐ帰る。帰ったら、健一さんに共有。学校にも連絡。あと、もし写真を送られたり、投稿された形跡があれば、それも証拠になる」


 “投稿”という単語で、俺の背中がさらに冷えた。SNS。拡散。学校。悪意がなくても、情報は一瞬で広がる。田村が「証明」のために写真を使うなら、手段はどこまででも広がる。


 ※ ※ ※


 家に帰る道は、いつもより遠く感じた。


 母さんが前を歩き、俺が真ん中、アリスが隣。歩幅を合わせる。周囲を確認する。後ろを必要以上に振り返らない。それでも、背中がむずむずする感覚は消えない。


 帰宅して鍵を閉めると、アリスが玄関で座り込んだ。


「……疲れた」


 掠れた声。怖さと緊張で、身体のエネルギーが削られたんだと思う。俺はしゃがんで、アリスの目線の高さに合わせた。


「大丈夫。入って。水飲もう」


 アリスは小さく頷いて、立ち上がった。母さんはすぐに麦茶を用意し、アリスの前に置いた。


「アリスちゃん。今、ここにいる。ここは安全。深呼吸」


 母さんの声に合わせて、アリスがゆっくり呼吸する。俺も一緒に呼吸した。自分の息が少し落ち着く。


 俺はスマホを取り出し、健一さんへ連絡した。


『スーパーで田村らしき男がスマホをこちらに向けていた。撮影の可能性あり。店に相談し、警備員が対応。男は店を出た。特徴は店側が控えた。』


 既読はすぐについた。


『分かった。これは一線越えた。今夜、動く。』


 健一さんの返信は短く、重かった。


 母さんも学校へ連絡を入れた。生活指導の担当に、状況を伝える。相手が“学校外”で接触していること。撮影の可能性。家に投函したこと。複合的なエスカレーション。母さんは淡々と話しているようで、言葉の端々に怒りが滲んでいた。


 通話が終わると、母さんは俺たちに言った。


「二人とも、写真について怖いと思う。でも、ここで一番大切なのは“こちらが悪いことをしてない”って事実。堂々としていい」


 堂々と。簡単そうで難しい。写真を撮られたら、心は勝手に小さくなる。恥ずかしさや不快感が、身体を縮める。それが相手の目的だとしたら、なおさら腹立たしい。


 アリスが小さく呟いた。


「……私、撮られたの、嫌。顔とか、知らない人に見られるの、嫌」


「うん。嫌だよな」


 俺は頷くことしかできなかった。嫌だ、という感情は正しい。否定しない。抑え込まない。抑え込むと、また自分を責め始める。


 母さんが提案した。


「今日は、太刀川さんたちに来てもらう? アリスちゃん、顔を見たら落ち着くかもしれない」


 アリスは一瞬迷って、それから頷いた。


「……会いたい」


 母さんが恵さんに連絡し、夕方に来ることになった。


 ※ ※ ※


 夕方、恵さんと健一さんが来た。


 健一さんの表情は、昨日よりさらに硬い。怒りが“行動”の形になっている顔だ。恵さんはアリスを抱きしめながら、静かに震える声で言った。


「朝日、怖かったね……」


「うん……」


 アリスが小さく返す。恵さんの腕の中で、アリスの肩が少しだけ落ちる。親に抱きしめられる安心。俺はその光景を見て、胸の奥が痛いのと同時に、少し救われた。


 健一さんが母さんと俺に向き直り、短く言った。


「撮影は、完全にアウトだ。学校にもう一度、強く言う。保護者にも、再度。必要なら警察相談も視野に入れる」


 母さんが頷く。


「証拠が積み上がってきています。手紙、着信、目撃、投函、そして撮影の可能性。段階としては次ね」


 健一さんはアリスを見る。


「朝日。お前は何も悪くない。怖かったら、怖いと言え。俺が止める」


 アリスの目が潤み、頷いた。


「……うん」


 そして、健一さんは俺を見た。


「隆太郎くん。怒りが出るのは当然だ。だが、動くのは大人がやる。お前は朝日を守れ」


 俺は強く頷いた。


「はい」


 そのとき、アリスのスマホが小さく震えた。


 アリスの表情が固まる。俺も母さんも、瞬時にそれを察した。アリスはスマホを見ない。見ないと決めた。でも、震えは彼女の身体に直接刺さる。


 恵さんが優しく言う。


「朝日、見なくていい。こっちで対応する」


 アリスが震える声で言った。


「……また、来たの?」


 俺はアリスの手を握って、頷いた。母さんがアリスのスマホをそっと受け取り、通知だけを確認する。画面の一行が見えた瞬間、母さんの表情が明確に変わった。


 怒り、というより、危機対応の顔。


「……写真」


 母さんが低く言った。


 健一さんが一歩前に出る。


「何だ」


 母さんが画面を見せる。メッセージのプレビューには、短い文と、添付ファイルの表示。


『君のこと、ちゃんと見てる。嘘じゃない。』


 添付された画像が、サムネイルで一部だけ見える。スーパーの蛍光灯の白い光。野菜コーナーの緑。――そして、白いワンピースの肩。


 アリスが息を詰めた。顔色がさらに白くなる。


 俺の中で、何かが切れた。


 拳が震える。視界が狭くなる。耳の奥が熱くなる。今すぐにでも外へ飛び出して、田村を引きずり出してやりたい。そう思ってしまう。思ってしまう自分が怖い。


 健一さんが低く言った。


「……十分だ。もう遠慮しない」


 母さんも頷いた。


「保存して、警察相談に行きましょう。今夜、また投函や接触がある可能性もある」


 恵さんがアリスを抱きしめながら、きっぱり言った。


「朝日、今日はうちに泊まりに来る? ここにいると落ち着かないなら」


 アリスは一瞬迷った。けれど、俺の手を握ったまま、小さく首を振った。


「……隆太郎と、百合子さんと、ここにいたい。逃げたくない」


 逃げたくない。その言葉が強い。だけど同時に、彼女が追い詰められている証拠でもある。俺は胸が苦しくなった。


「逃げじゃない。安全のためなら、移動していい」


 俺が言うと、アリスは小さく笑った。


「うん……でも、今はここがいい」


 健一さんが短く頷く。


「分かった。なら、守る」


 その「守る」が、今までで一番重かった。家族全員が、“次の段階”に入る覚悟を固めた。


 そして俺は、心の中で確認した。


 田村はもう、言葉だけじゃない。


 写真という形で、アリスの生活に入り込んだ。


 それは、線を越えた証拠だ。


 ここから先は、引き返せない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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