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終わらせる時

 翌朝、空はやけに澄んでいた。


 夏の光は残酷なくらい明るい。昨日の夜、知らない番号から届いたメッセージの文字が、まだ網膜に残っているのに、窓の外は何事もなかったように青い。蝉が鳴いて、洗濯物が揺れて、世界は予定通りに回っていく。


 ――だからこそ、異物が目立つ。


 俺は朝食の席でほとんど味を感じていなかった。トーストを齧っても、口の中でただ砕けるだけ。胃が重いというより、神経が張りつめてる。身体が「戦う準備」をしているみたいだ。


 向かいの席で、母さんがいつも通り味噌汁をよそいながら言った。


「健一さん、今日学校で田村くんと話すって」


「うん」


 俺は短く答える。


 アリスはその会話を聞きながら、指先でカップの縁をなぞっていた。震えを隠すための癖みたいな動き。目は伏せていて、金髪の影が頬に落ちている。


「アリス、今日は……太刀川家、行くか?」


 俺が聞くと、アリスは小さく首を振った。


「……行かない。行きたいけど、今は……家にいたい」


 それは逃げじゃない。安全確保だ。守るための選択。俺は頷いた。


「分かった。今日は家で過ごそう」


 母さんがそれを聞いて、軽く微笑んだ。


「うん。外に出る用事は、今日は作らない。必要な連絡は、全部こっちで受ける」


 “連絡は全部こっちで受ける”。母さんの言葉が、俺の胸を少しだけ軽くした。今の状況は、情報の流入もストレスになる。アリスに直接届く刺激を減らすのは、合理的だ。


 食事を終えて、俺は自室に戻った。机の上に置いてあるスマホが、妙に嫌な存在感を放っている。通知が鳴るたびに、心臓が跳ねる。田村からの連絡じゃないと分かっても、身体が反射で警戒するようになってしまった。


 俺は思い切って、スマホの通知設定を見直した。重要な相手――母さん、健一さん、恵さん、学校関係の連絡だけ鳴るようにする。田村らしき番号はブロック。昨夜の番号も履歴からブロックした。ブロックは万能じゃない。でも、こちらの心理的負荷を下げる効果はある。


 画面上に表示された「ブロックしました」の文字が、妙に頼りなく見えた。


 ――ブロックで止まるなら、ここまで来ない。


 だから、これはあくまで補助輪だ。主戦略は“仕組み”で止める。学校と保護者。必要なら警察。記録の積み上げ。


 俺は自分の頭の中で、勝手に危機対応のフローを組み立ててしまう。こんなの、本来高校生が考えることじゃない。でも、考えないと不安が爆発する。考えている間だけ、俺は「何かしている」感覚を持てる。


 リビングに降りると、アリスがソファに座っていた。膝を抱えて、テレビをつけているけど、画面を見ていない。母さんは台所で片付けをしながら、時々こちらを確認している。家の空気が、静かに張っている。


「隆太郎」


 アリスが俺を呼んだ。


「ん?」


「……学校で、話すって。お父さん、大丈夫かな」


 その問いは、健一さんへの心配でもあるし、田村が何をしでかすか分からない不安でもある。


「大丈夫だろ。健一さん、強い」


「うん……強い。でも、優しいから」


 アリスはそう言った。健一さんの強さは、暴力じゃない。家族を守るための静かな強さだ。その強さが、田村みたいなタイプに通じるかどうか。俺も不安がある。


 そのとき、母さんのスマホが鳴った。


 ピリッとした電子音。室内の空気が一瞬で固まる。母さんは落ち着いて電話を取り、「はい、宮本です」と出た。少しだけ聞いてから、眉をひそめる。けれど声は平静だった。


「……はい。分かりました。ありがとうございます。……はい、はい」


 通話が終わる。母さんはスマホを置いて、俺とアリスを見た。


「健一さんから。学校で田村くんと話した。……結果だけ言うね」


 アリスが息を止めたのが分かった。俺も背筋が伸びる。


「田村くんは『自分は悪くない』『彼女が困っていると思った』『彼氏が怖がらせている』って主張した。先生が止めても、話が噛み合わない部分があったって」


 俺の胸の棘が、また尖る。やっぱりだ。彼の中では“救う物語”が完成している。拒絶は拒絶じゃなく、周囲に歪められたサイン。


 母さんは続けた。


「でも、学校としては指導を入れて、保護者にも正式に連絡した。田村くんの親御さんは謝って、今後は監督するって」


「……それで、止まる?」


 アリスが震える声で聞く。


 母さんははっきり答えなかった。代わりに、現実の表現を使う。


「止まるように“枠”は作れた。でも、本人の納得はまだ。だから、今が一番危ない時期かもしれない」


 俺は息を吸った。納得してない人間は、“自分の正義”を証明するために動く。今まで以上に執着する可能性がある。逆恨みもあり得る。


「……健一さんは?」


「健一さんは冷静。『次があったら、次の段階に進む』って」


 次の段階。つまり警察や、より強い介入。俺はその言葉に少し救われた。決断が遅れないのは大事だ。


 アリスが小さく呟いた。


「……私、悪者にされた」


 その声があまりに小さくて、でも刺さった。田村の物語の中で、アリスは“救われる側”として消費されている。本人の意思は無視されている。それは、存在を奪われるのと同じだ。


 俺の中で、怒りが静かに燃え上がった。


「……悪者じゃない。お前は被害者だ」


 言い方が強くなってしまった。アリスが目を丸くする。母さんがそっと言葉を添える。


「うん。アリスちゃんは悪くない。田村くんが勝手に変な好意を抱いているだけ」


 アリスは唇を噛んで、涙を堪えた。俺は手を伸ばして、肩に触れるか迷って、結局そっと手を重ねた。アリスはその手を握り返した。


 ※ ※ ※


 昼過ぎ。


 玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


 俺の心臓が跳ねた。アリスがびくりと震える。母さんが立ち上がり、インターホンのモニターを見る。


「……宅配」


 その一言で少しだけ空気が戻る。母さんが対応し、荷物を受け取って戻ってきた。通販の箱。俺が注文した問題集だった。


 たったそれだけなのに、俺たちの身体は“危険”に反応してしまう。こうして日常が侵食されていくのが、いちばん腹立たしい。


 母さんが箱をテーブルに置きながら言った。


「こういう反応が続くと、疲れるよね。だから、今日は“普通のこと”を一つしよう。おやつを作ろうか」


「おやつ?」


 アリスが少し驚いた顔をする。母さんは微笑んだ。


「クッキーでも、ホットケーキでも。甘いもの作って食べよう。安心の感覚を身体に戻すのも、大事」


 母さんの言い方が、やけに的確だった。安心の感覚を身体に戻す。確かに、今の俺たちは不安で身体が固まっている。甘い匂い、混ぜる音、焼ける音。そういうものが、硬くなった神経を少しほぐすかもしれない。


「……ホットケーキ」


 アリスが小さく言った。


「いいわね。アリスちゃん、手伝ってくれる?」


「うん。やる」


 アリスが立ち上がる。少しだけ、目に光が戻った。台所に立つと、彼女は本来のテンポを取り戻しやすい。料理はアリスの「自分」を保つ方法だ。


 俺も混ぜる係をやった。ボウルに粉と卵と牛乳。泡立て器で混ぜる。母さんがフライパンを温め、アリスが生地を流し込む。じゅわっと小さな音がして、甘い匂いが立ち上る。その匂いだけで、少しだけ肩が落ちた。


「……いい匂い」


 アリスが呟く。


「うん」


 ホットケーキが焼けて、皿に乗る。バターが溶けて、シロップが垂れる。俺たちはリビングでそれを食べた。甘さが口に広がって、目の奥が少しだけ温かくなる。


「おいしい」


 アリスが言って、少し笑った。


 その笑顔を見た瞬間、俺は心の中で誓い直した。


 この笑顔を奪わせない。


 でも、誓い直した直後だった。


 俺のスマホが震えた。ブロックしたはずの番号とは違う。知らない番号。別の回線。別の手口。


 画面には、非通知ではない、見知らぬ数字の列。


 俺は呼吸を止めた。母さんも気づいて、表情が引き締まる。アリスの視線が俺のスマホに吸い寄せられた。


 着信は一度で切れた。すぐに、メッセージが届く。


『話さないなら、分かってもらえるまで見てる。君は本当は助けてって言ってる。』


 言葉の形が、あまりに田村だった。


 俺は拳を握りしめた。指先が白くなる。怒りで視界が狭くなるのを感じた。ここまできても、まだ“助ける”と言う。拒絶を拒絶として受け取らない。こちらの生活を脅かしているのに、自分を正義に置き続ける。


 俺は立ち上がってしまった。椅子が少し音を立てる。


「隆太郎?」


 アリスが怯えたように呼ぶ。母さんも俺を見る。


 俺は頭の中で分かっていた。怒鳴っても意味がない。殴ることもできない。直接対決は、相手の物語を強めるだけだ。


 ――でも。


 俺の中の何かが限界を迎えていた。


「……くそ」


 声が漏れた。自分でも驚くほど低い声。母さんがすぐに言う。


「隆太郎、落ち着いて。保存して、記録。返信はしない」


 正しい。母さんの判断が正しい。俺はそれを理解しながらも、胸の奥の怒りが消えない。


 アリスが小さく言った。


「……私、怖い。隆太郎、怒ってる?」


 その問いが、俺の怒りを少しだけ冷やした。怒りの矛先を間違えたらダメだ。アリスを怖がらせたら、本末転倒だ。


「……怒ってる。田村に」


 俺は正直に言った。


「でも、お前には怒ってない。絶対に」


 アリスは少しだけ安心したように頷いた。俺はスマホを母さんに渡した。母さんがメッセージをスクショし、日時が分かるように保存する。


「健一さんに送る。学校にも共有する」


 母さんは淡々と言う。その落ち着きが、俺の怒りを少しずつ“行動”に変えていく。


 怒りは、動くための燃料にしないといけない。


 俺は深く息を吸って、アリスの隣に座り直した。


「……アリス」


「うん」


「怖かったら、怖いって言え。俺が聞く」


 アリスは小さく笑って、それでも目は少し潤んでいた。


「うん。……でも、隆太郎、私、負けたくない」


 またその言葉。負けたくない。夏休みを奪われたくない。自分の意思を奪われたくない。


「何度でも言う、俺達は負けない」


 俺は言い切った。今度は、根拠が少しだけ増えている。家族が動いている。証拠が積み上がっている。学校と保護者に枠ができている。次の段階にも進める。


 だから、俺はもう一度、心の中で決めた。


 次があったら、俺は“怒る”だけじゃなく、確実に“切る”。


 相手の物語を、ここで終わらせる。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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