断罪の悪役令嬢は、剣を手にして微笑む
「公爵令嬢エリス・グランディール、君との婚約は今日限りで破棄する!」
王太子・レオニス・ヴェルダインの言葉が、社交会の会場に響き渡った。
その隣には、慈しむような笑みを浮かべた侯爵令嬢ミレイユが寄り添っている。
けれど、当のエリスは、瞬きひとつせず応えた。
「承知いたしました。殿下」
「っ……なんだと?」
驚いたのはレオニスの方だった。涙ながらに縋ってくるはずの“悪役令嬢”が、あまりにあっさりと婚約破棄を受け入れたのだから。
「あなたが誰を選ぼうと、私には関係のないことです。ただ、私を陥れたこと――その報いは、いずれ受けていただきます」
エリスはそれだけ言い残すと、くるりと踵を返して会場を後にした。
その背筋は、誰よりもまっすぐだった。
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エリス・グランディールは王太子の婚約者として、礼儀と品位を叩き込まれて育った。
結果、少しの隙も見せず、感情を抑え、常に“完璧”を求められた。
「近寄りがたい」「冷たい」「お高くとまっている」――
そう言われるのは日常茶飯事。だがエリスにとって、それは褒め言葉と同義だった。
だが、侯爵令嬢ミレイユが現れてから風向きは変わった。
「エリス様にいじめられました……」
「婚約者のレオニス様を奪おうとしたと責められて……」
甘くか弱い演技に貴族たちはころりと騙され、エリスは“悪役令嬢”に仕立て上げられた。
それでもエリスは否定しなかった。
――無駄だからだ。
婚約破棄の裏には、政治的思惑がある。
ミレイユの父は商業で巨万の富を築いた新興貴族。
財政難の王国にとって、彼女との縁組は都合がよかった。
レオニスの恋心など、ただの口実に過ぎない。
「では――こちらも、手を抜く必要はないわね」
エリスの瞳が、冷たく、鋭く光った。
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婚約破棄から三ヶ月。
エリスは領地に戻り、母方の伯父が指揮する近衛訓練場に通い始めていた。
「貴族の娘が剣の修練とは、物好きなことだな」
「伯父上、物好きでなければ私はここにいませんわ」
剣術も戦術も、貴族の娘には不要とされていた。
だが、エリスは“力”が欲しかった。魔法や異能力ではない、“現実に人を動かせる力”を。
やがて彼女は経済、法律、諜報など、貴族が持つべき本当の力を貪るように学び取っていった。
それから一年後――王都に、異変が起きた。
ヴェルダイン王家の収入が、急激に減ったのだ。
新興貴族との取引が突如として止まり、領地の商業も麻痺し始めた。
その裏に、グランディール家と伯父が築いた密やかな連合商会の影があった。
「正々堂々と刺す必要はないの。腐った木は、根から静かに刈り取ればいい」
復讐は、冷たく、そして静かに――。
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王都に舞い戻ったエリスは、かつての輝きを増していた。
彼女の凛とした立ち居振る舞いは、貴族の間でも密かに話題になっていた。
その中にいたのが、隣国の第一王子であるユリウス・オルレアンだった。
「きみが……エリス嬢か」
「あなたにお会いするのは初めてですわ、殿下」
ユリウスは穏やかな笑みの奥に、鋭さを秘めた青年だった。
彼はすぐに気づいた。エリスがただの“元婚約者”ではなく、この国の流れを裏から変えつつある存在であることに。
「強い女性は美しい」
「……お上手ですこと」
以来、ユリウスは頻繁にエリスのもとを訪れるようになった。
彼女がどんなに警戒しても、どれだけ皮肉を言っても――
「きみが剣を抜かぬ限り、私はきみの隣にいよう」
その言葉に、エリスの胸が微かに波打った。
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王城で開かれた夜会。
ミレイユは新王妃として、豪奢なドレスに身を包んでいた。
だが、そこに現れた一人の女性に、空気が凍る。
「エリス・グランディール……!」
「ごきげんよう。ミレイユ様。ずいぶんお痩せになったのでは?」
ミレイユの実家は今や破産寸前。
不正取引が暴かれ、支持を失い、王室の財政も限界だった。
エリスはゆっくりと前に進み出る。
「かつて私を貶めた罪、今こそ明るみに出しましょう」
証拠はすべて整えられていた。貴族会議の場で朗々と読み上げられるその内容に、レオニスの顔が蒼白になる。
「まさか、こんな……!」
「あなたが見下した“悪役令嬢”は、忘れませんでしたよ、殿下」
エリスは冷たい笑みを浮かべ、優雅に一礼した。
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「国を捨てるのか?」
レオニスの問いに、エリスは首を振った。
「私はもう、あなたの国の一部ではありません。私は――隣国の王子妃となるのです」
ユリウスがそっと手を差し伸べる。
「共に、新しい道を歩もう。きみが“悪役”だったとしても、私はきみを選ぶ」
「私は……“悪役”であることを誇りに思いますわ」
それは、誰にも媚びず、誰にも頼らず、ただ自らの意思で生き抜いた証。
――そして、ようやく手にした、穏やかな未来。
エリスは、彼の手を取り、静かに微笑んだ。
ーーー
かつて“悪役令嬢”と呼ばれ、憎まれ、婚約を破棄された私が。
剣を手に取り、静かに復讐を果たした私が。
ようやく手に入れた平穏な時間のなかで――
彼に、どうしようもなく心を揺らされている。
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「エリス、こっちに来て」
ユリウスがそう言って、私の腕を引いたのは、隣国・オルレアン王国の離宮だった。
夜風が涼しく、月がやさしく照らすバルコニー。
庭には花が咲き、夜の静けさの中で虫の声が小さく響いている。
「……急に、どうなさったのです?」
「きみがそわそわしてるのが、気になって」
「そ、そんなこと……」
言いかけて、思わず言葉に詰まる。
――バレていたのか。
公の場では、平静を保てる。どれほど緊張していても、笑ってみせられる。
けれど彼の前では、どうしても“完璧な私”でいられない。
ユリウスは、ただ微笑んでいた。
その笑顔はまるで、私がどれだけ警戒しても無意味だと知っているようで――
「エリス。きみは、もう戦わなくていいんだよ」
「……戦ってなど、いませんわ」
「いや、戦ってる。ずっとひとりで背負ってた。わかるよ。きみは、誰にも甘えなかった」
私は言葉を失った。
たしかに私は、誰にも弱音を吐いたことがない。
両親にも、家臣にも、侍女にさえも。
なのにどうして、この人には――
「……泣いても、よろしいですか?」
ぽつりと漏れた私の声に、ユリウスはほんの少し目を見開き、すぐに腕を広げてくれた。
「好きなだけ。誰にも見せたくないなら、俺の胸の中でどうぞ」
私はその胸に顔を埋める。
ふわりとした香りと、あたたかい体温。
ゆっくりと指が私の背を撫でた。
その優しさに、私は耐えきれず、ぽろぽろと涙をこぼした。
「エリス、俺はね……きみの全部が、愛おしい」
「わたくしは……欠点だらけです。強がって、意地を張って……」
「だからいい。そういうきみが好きだよ」
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その夜から、私は少しずつ変わり始めた。
彼の前では、強がらなくてもよかった。
意地も張らなくていい。
泣きたければ泣いて、笑いたければ笑っていい。
そんな当たり前のことを、私は知らずにいたのだ。
たとえば――
ある日の昼下がり、二人で書庫にいたときのこと。
私は政治文書を読み込んでいた。オルレアン王国の慣習と法律の違いを理解するのに必死で、気づけばため息を吐いていた。
「肩、凝ってない?」
「は、はい? まぁ、少々……」
次の瞬間、背後からそっと肩を揉まれた。
「……っ、ちょ、ちょっとユリウス様!?」
「“様”じゃなくて、ユリウスでいいよ。きみはもう俺の婚約者なんだから」
その手は、本当に優しくて。
思わず全身の力が抜けて、私は机に顔を伏せてしまった。
「こういうこと、慣れてないのはわかってる。でも、たまには甘えて?」
「……努力は、いたします」
「うん。それで十分」
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夜。
眠れぬ私を見かけて、彼はわざわざ書斎から連れ出してくれた。
「庭で夜風に当たろう。月が綺麗だよ」
「……お優しいのですね、ユリウス」
「エリスにだけ、ね。他の人にはこんなに優しくしないよ」
「まぁ……」
私が思わず照れ笑いを漏らすと、ユリウスがそっと私の頬に触れた。
「そういう顔をもっと見せてくれたら、俺は簡単に骨抜きになるんだけどな」
「それは……困りますわ」
「困っていい。きみが困るくらい俺を頼ってくれるなら、それが一番嬉しい」
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時折、私は思い出す。
あの婚約破棄の夜。
すべてを失ったと思った瞬間。
どれだけ強くあろうとしても、心が凍えた夜を。
けれど今は――
彼の手が、私をあたためてくれる。
言葉でなく、行動で、寄り添いで、私を包んでくれる。
「エリス、これからも俺の隣にいてくれる?」
「もちろんです。わたくしが“悪役令嬢”だったとしても?」
「だったからこそ、きみに惹かれたんだよ。誰よりも気高くて、強くて、そして――誰よりも優しい人だから」
私はそっと彼の胸に寄り添う。
もう、戦う必要なんてない。
私は、ただ“好きな人”の隣で、生きていくだけ。
それだけで、こんなにも心があたたかいなんて――
私は今、ようやく知ることができた。
ーーー
結婚式の朝、私は夢を見ていた。
かつて婚約破棄された、あの社交会の夜の夢。
王太子に糾弾され、貴族たちに侮辱され、居場所を失った――そんな日の記憶。
夢の中でも私は、ただ静かに微笑んでいた。
けれど、目を覚ますと、そばに彼がいた。
「おはよう、エリス。今日が、君と一緒に迎える最初の朝だね」
ユリウス・オルレアン。
私を“悪役令嬢”などと呼ばず、ありのままの私を見つめ、愛してくれた人。
彼がこの手を取ってくれたから、私はいま、幸せの頂に立っている。
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結婚式はオルレアン王国の王都・セレフィーナにある大聖堂で執り行われた。
式は朝から始まり、国中の貴族や外交関係者が参列した。
私は白百合を模したドレスに身を包み、重くも清らかなベールを纏っていた。
鏡に映る私の姿は、かつての“悪役令嬢”ではなかった。
復讐を終え、誇りを守り、愛を手にした一人の女性。
侍女がそっと背中のリボンを締めながら言う。
「エリス様……お美しいですわ。殿下が見たら、気を失ってしまうのでは?」
「まさか。彼はそういう顔をして、案外冷静に見つめてくるのです」
「でも、瞳はきっと溺れそうなほど愛で満ちていますよ」
思わず、頬がゆるんだ。
彼がどれほど愛を注いでくれるか、私はもう知っている。
だからこそ、この日を迎えるのが、少しだけ怖くもあった。
――この幸せに、私は本当に値するのだろうか?
けれど、バージンロードの先に彼が立っていた。
礼服を身にまとい、凛とした顔で、まっすぐに私を見つめるユリウス。
その眼差しに、私の迷いはすっと溶けていった。
私は彼のために、ここまで来た。
いや、彼と共に、これからを生きていくのだ。
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「エリス・グランディール。君は私の妻となることを誓いますか?」
祭司の声が静かに響く。
「はい。喜んで」
声は震えていなかった。
心から、そう思えたからだ。
「ユリウス・オルレアン。あなたは私の夫となることを誓いますか?」
「生涯をかけて、愛します」
ユリウスの声は低く、しかし熱を帯びていた。
堂内にいる誰よりも、私だけを見ていた。
指輪の交換が終わると、彼はそっと私の手を握り、ベールを上げた。
「誓いの口づけを」
柔らかい唇が触れた瞬間、聖堂の鐘が鳴り響いた。
拍手が巻き起こるなかで、私はただ彼の目を見つめていた。
――この瞳を、一生忘れたくない。
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披露宴の席。
招待客たちが祝福の言葉を述べる中で、ユリウスは私の手を決して離さなかった。
「エリス。緊張してる?」
「少しだけ。でも、貴方がそばにいるから……平気」
「本当に強くなったね、君は」
「貴方のおかげです」
「違う。君は、もともと強かった。俺はただ、それに気づいた男にすぎない」
私は少しだけ、俯いた。
嬉しさと、照れと、何とも言えないくすぐったさが、胸を満たしていた。
「それでも――」
「うん?」
「今の私は、貴方と出会ったからこそ、ここにいるのです」
ユリウスは優しく私の髪を撫でた。
「出会えてよかった。心から、そう思ってる」
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夜。
宴も終わり、二人きりになった寝室。
ドレスもティアラも外し、私は長い髪を解いた。
鏡に映るのは、豪奢な装いを纏わぬ、ただの“女”としての私。
ユリウスが背後からそっと抱きしめてきた。
「美しい。飾らなくても、君は誰よりも綺麗だ」
「……恥ずかしいですわ」
「じゃあ、もっと言うよ。君の声、肌、香り……全部が、俺のものになったと思うと、胸が熱くて仕方がない」
「貴方という人は……いつも言葉が甘すぎるのです」
「だって、今日は君を妻にした日だ。人生で一番甘くて当然じゃない?」
私はくすくすと笑い、そっと彼の手に指を重ねた。
「今日という日を、何度でも思い出せるように」
「記憶だけじゃ足りないよ。これから毎日、君を好きになっていくから」
その言葉を聞いた瞬間、私は彼の胸に顔を埋めていた。
どれほど強くあろうと、彼の前では甘えてしまう。
そのたびに彼は、必ず私を受け止めてくれる。
――私はもう、孤独じゃない。
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月明かりの中で、私は一冊のノートを開いた。
かつて、自分に誓った言葉が書かれている。
「誰にも負けない。私は私の手で、人生を選ぶ」
その下に、私は新しい言葉を書き加えた。
「この手を、もう二度と離さない。彼と共に歩む未来を、私は選ぶ」
涙が、ぽろりとノートに落ちた。
けれど、それは悲しみの涙ではない。
ようやく、私は心の底から“幸せ”と呼べる人生を手に入れたのだ。
そしてそれは、今日という結婚式の日から、ようやく始まるのだった――。