036 バッドエンド? ハッピーエンド?
夜の町を一人、当てもなく彷徨う。
薔薇には目的も何もない。人に紛れ、ただ歩いている。それだけだった。
白馬野書店に足を踏み入れたのも気紛れだった。元より静けさを好む薔薇にしてみれば、書店の空気は好ましいものだった。
背の高い本棚の間に立つ。ふと目についた本の表紙に、薔薇は自虐的な笑みを浮かべた。
鎧を着込んだ青年と、恐ろしい形相をした漆黒の魔術師然とした存在。
一般的に想像される勇者と魔王を描いたイラストから目を逸らす。今の薔薇には勇者と称される存在を目にすることは苦痛でしかならなかった。
ハッ、と詰めていた息を吐き出して踵を返す。
その場を去ろうとした薔薇だが、踏み出そうとした足を止めた。
「我に用か」
それは背後に立つ見知らぬ長身の女に向けての言葉だった。
女は体をびくつかせ、短く切り揃えられたオレンジ掛かった茶髪を揺らす。四方を見渡し自分以外に人がいない事を確認すると、照れたように笑って薔薇に近寄った。
「へへっ。ごめんなさい。驚かせるもりはなかったんだよ~」
「……それで。我の後を着けていた理由は」
「いやいや! 着けていたなんてとんでもない! ただ、凄くアタシの漫画の主人公に似た子がいるなぁ~って、気になって後を追いかけていただけなんだよね~」
気の抜けたように笑い、女は薔薇にもう一度ごめんと告げた。
女が自身の背後を付けていた理由がただの興味本位の行動であったと知り、薔薇はくだらないと肩を竦めてみせる。しかし女の口にした『アタシの漫画』という言葉が気に掛り、薔薇は初めて女のほうへ振り向いた。
声の雰囲気から想像した通りの害のなさそうな顔つきに、薔薇は何故か晴太を連想した。
「貴様、画家か」
「画家? そんな大層なものじゃないよ、アタシは漫画家。単行本も何冊か出てるんだよ~。冬木ナナコって名前、知らない?」
「知らぬ」
「知らないか~。まぁ、ちょっとニッチな題材だからなぁ~」
少しだけ悔しそうな顔をして、冬木ナナコと名乗る女は腕の中に抱えた資料集の本をギュッと抱きしめた。
ナナコが抱える資料はどれも分厚い。その表紙に掛かれたイラストに薔薇は眉根を寄せた。先ほど目にした書籍と同一のものだったのだ。
薔薇の視線が自身の抱える書籍に向いている事に気が付き、ナナコはあぁと小さく溢す。
「これね、今書いてる漫画の追加資料。ちょっと結末に悩んでるんだよね~」
「結末に悩む創作者とは、三流だな」
「うわ~、痛いところを突かれてしまった!」
そう言いながらもどこか嬉しそうな様子のナナコを、薔薇は鼻先で笑う。
「たまにはバッドエンドものでも描こうかな~って連載始めたんだけど、描いてるうちに愛着が湧いちゃってね。バッドで終わらせるのも勿体な~いって思い始めてるんだ。もうすぐ最終回なのにね~」
「現実であれ作り話であれ、所詮全ては予定調和に帰すものだ。悩むだけ無駄であろう」
「そうかなぁ。急にハンドル切ってハッピーエンド! ってのも良くない?」
ハンドルを握り、思いっきり回す仕草をナナコが行う。勢いあまって資料集を落としかけ、慌てて姿勢を正した。
ハッピーエンド。薔薇の胸中にその言葉が突き刺さる。
苦虫を嚙み潰したような顔つきで、薔薇はナナコに背を向けた。
「……都合の良い話など存在せぬ。都合の良い現実が存在せぬようにな」
低い声で呟かれた言葉に、ナナコは返す言葉を失った。
遠ざかる薔薇の背中を見つめながら息を吐く。それから胸元に抱いた資料の本の表紙に視線を落とした。
表紙に描かれた鎧を着込んだ青年と、恐ろしい形相をした漆黒の魔術師然とした存在を見つめてナナコは一人頷いた。
それからすぐに本を購入して書店を出る。
既に見えなくなった薔薇の姿を思い返しながら、ナナコは急ぎ足でもう一つの目的地へ向かった。




