002 運命の出会い・下
不思議なことに、彼女――薔薇が教室に入ってきてからというもの、誰も一言も声を発しないでいた。
藤ヶ丘ですら、彼女の名前を読み上げようとはしないのだ。
そのことを気に留めて声を上げる者も、誰一人としていなかった。
教壇の前で足を止めた薔薇が正面を向く。切れ長の目の中に浮かぶ、月を溶かしたような黄金の瞳が晴太を見つめた。
薔薇と目と目が合って、晴太は大いに驚いた。こんなにも真っすぐに自分の事を見つめてくる女性なんて、今まで一人もいなかったのだ。
晴太は喜びに胸を躍らせながら、渾身のアルカイックスマイルを浮かべて薔薇の顔を真っすぐに見つめ返す。
するとどういうことか、薔薇は急にその美しい顔つきをゆるゆるに緩めて微笑んだ。頬を朱に染めると、晴太に向かって一直線に駆け寄ってきたのだった。
「この時をっ! どれほど待ち侘びた事かっ! 会いたかったぞ、勇者よっ!!」
「へっ!? へへぇっ!?」
自己紹介もまだの間柄だというのに、薔薇の行動は実に大胆なものだった。
晴太に飛びつくように近寄った薔薇は、晴太の首に腕を絡め、ギュっと強く抱きしめ身を寄せた。
あまりにも突然の抱擁に流石の晴太も動揺する。が、それはほんの僅か一瞬のことで、晴太はすぐに鼻の下を伸ばし、満面の笑みを浮かべて高らかに笑った。
「いやーハハハッ!! 悪いな皆の衆! 俺の時代が来てしまったようだっ!」
自身の周囲、取り分け頻繁につるんでいる仲間内に自慢するように、晴太は止まらない笑い声を上げ続けた。
周囲が無反応であることなど、おかまいなしだ。
晴太の大笑いを耳にして、薔薇はとたんにその表情を凍り付かせた。
首に回していた腕を離してそうっと離れると、じろじろと晴太の顔を値踏みするように凝視する。
「ふふっ、そんなに見つめてどうしたんだい、バラちゃん」
「バラではない、ローズだ。……ン。この男、確かに勇者で間違いはないのだが……」
「ローズ! 情熱的な君にピッタリすぎるお名前! ところで俺達、どこかで会ってる?」
へらへらと笑う晴太から更に一歩離れ、薔薇は顔を引き攣らせた。
「馬鹿な……我を見れば、その瞬間に勇者として目覚めるのではなかったのか……!?」
「勇者? あっ、薔薇ちゃんゲーム好きなの? 俺もゲーム好き!」
「眠りが深いのか? なれば叩き起こすのみか。器が危機に瀕すれば黙ってはいられまい。貴重な勇者の器を傷付けたくはなかったが、止むを得ん……」
薔薇に晴太の声は一切届いていない様子だった。
歯噛みした悔しさを湛えた顔付きで、胸元に構えた右手に意識を集中させ始める。
薔薇の仕草に見惚れながら、晴太は目をしばたたかせる。
薔薇の白魚の様な美しい指が、じわりと赤い光を纏っているのが見えたのだ。
――美人って手も光るんだ!
晴太は初めて知る感動に打ち震えた。
紅い光はあっという間に薔薇の右手を覆い、指先へ向かい先端を尖らせていた。それはまるで刃物の様にも見えるのだが、晴太は動じる様子を一切見せず、ただニコニコと笑顔のまま薔薇を見つめていた。
「壊しはせぬ。痛めつけるだけだ」
感情のこもらない冷めた声が、薔薇の唇から零れ落ちる。
黒く淀んだ瞳で晴太を見下ろしながら、薔薇は手を振り上げた――。
「危ないッ!!」
「ッ!?」
突然、横から体をドンと押され、薔薇は思わず目を見開いた。
横に向けた視線、その視界の端に大きな三つ編みが映り込み、眉根を寄せる。
「委員長!?」
突然のことに晴太もまた驚き、腰を上げた。
薔薇を突き飛ばしたのは、いのりだった。
肩を使い、薔薇に体当たりを仕掛ける姿は普段の彼女からは想像もできず、晴太はただ動揺するばかりだ。
「貴様……ッ、何故、動ける!」
衝撃を受けたからなのか、薔薇の手を覆う赤い光が霧散して消える。
両足で踏ん張りよろめきを抑えた薔薇は、驚きと怒りを露わにした形相でいのりを睨みつけた。
「わ、私の中のっ、魔法使いが力を貸してくれたから!」
負けじと睨み返すレンズ越しの瞳に、薔薇は既視感を覚えた。
いのりの瞳の奥に、強い光が見える。
それが勇者の隣に立つ、取るに足らない小娘の瞳に似ているのだと思い出し、薔薇は思わず感嘆の声を漏らした。
「成程。貴様の魂はあの魔導士の小娘か。よもや次元を超える術を持ち合わせていたとはな。どのようにしてその器に入った? 興味深い。答えよ」
「聞かれても困るよ……。私だって、今、魔法使いのことを知ったばかりだし……私が聞きたいよ」
強気な様子から一転して、いのりはその表情に強い困惑の色を浮かべた。
薔薇といのり、二人の間に沈黙が流れる。
目の前で急に険悪なやり取りを始めた二人を前にして、晴太は握った拳を小刻みに震わせた。今にも泣きそうな苦しげな顔で、晴太は二人の女性を交互に見た。
「二人とも……止してくれ! 俺の為に争わないでくれ!」
「えっ、いや、確かに晴太くんが理由だけど……違うよ!?」
どこか芝居がかった様子で声を上げた晴太に、いのりは誤解するなと声を荒げる。
「だって二人とも、俺の為にケンカしてる……」
「晴太くんの為にというか、晴太くんの中身の為にというか」
「それって見た目じゃなくて、中身を見てくれてるってことだよね! 嬉しッ!」
「いや、そうじゃなくてね」
晴太のポジティブさに、いのりは呆れを混ぜながら必死に修正を試みる。
しかし晴太に聞く耳など備わってはいない。
自分を無視するかのようにわぁわぁと騒ぎ立てる晴太といのりに唖然として、薔薇は冷めた目付きで深いため息を吐き出した。
「……興が覚めたわ」
真顔になった薔薇の右手から赤い光が失われていく。
右手から完全に光が失われると同時に、親指と中指の腹を重ね合わせて勢いよく弾いた。パチンと小気味よい音が響き、周囲の空気が一変する。失われていた音が戻ったかのように、教室の中にざわめきが広がった。
晴太といのりは驚いて、きょろきょろと視線をさ迷わせる。
すると、つい先ほどまで間近にいた筈の薔薇が、窓際の一番後ろの席に座っているのを見つけた。
二人は目を丸くして言葉を失った。
晴太達以外の生徒は全員、薔薇は最初から窓際の席に座っていたのだと言わんばかりに自然な様子で薔薇に視線を向けている。
今、 晴太達が繰り広げたやり取りなど、誰一人気に掛ける様子もなく――。