024 魔女モルガナ
「――、消されたか」
不愉快そうに眉をしかめ、薔薇が呟いた。
人通りの多い商店街を一望できるビルの屋上に、薔薇と晴太の姿があった。二人の頬をまだ肌寒さを感じさせる夜風が撫でた。
「どったの、薔薇ちゃん?」
「ジェードの気配が消えた。光の剣士にやられたな」
愉快なことになったと笑う薔薇に便乗して、晴太も大きく声を上げて笑う。
「だぁーっはっはっはっ! 偉そうなこと言っておいて、大したことないでやんのーっ!」
「大方、不意でも突かれたのだろう。奴は多少、詰めが甘い。まぁ良い。それよりもだ」
薔薇は地上を行く人々の群れを見下ろし、盛大な溜息を吐き出した。
光の剣士が現れた跡を辿っていく中で、薔薇と晴太は剣士に斬られたと思わしき人々を目にしてきた。彼らは皆一様に、背筋を伸ばし、常に顔に柔らかな社交的な笑みを浮かべているのだ。
「見よ。あの同じ顔をした有象無象を。……何とも吐き気を催す光景だ」
吐き捨てるように喋る薔薇の瞳は、ひどく冷めていた。
「勇者は邪悪を滅ぼす者。勇者の肉体を取り込んだ奴はその使命に飲まれているとみえる。次元の怪物がかねてより持つ全てを滅ぼすという意志。そして、肉体のみになっても残る勇者の邪悪を滅ぼす意志。掛け合わさった結果、欲すら邪悪と見做し消し去る剣士の誕生よ。……ククッ、欲望こそが最も邪悪であるとは、分かっているではないか」
「あ~、だからあいつら改心してたのか」
直江達の変貌の理由に納得して、なるほどねと晴太は首を縦に振って頷いた。
「人間は欲深き生き物よ。故に嬲り甲斐がある。欲を失った人間など、ただの動く肉人形に過ぎぬ。我が手にかける価値も無い」
「安心してよ、薔薇ちゃん。俺、欲の塊!」
「貴様ほど強いと逆にうっとおしいだけだ。……ン、やはりな」
おもむろに薔薇が宙に手を伸ばし、何かを掴む仕草をする。
何を掴んだのかと晴太は目を凝らすと、薔薇の白魚の様な手に黒い一本の糸が握られているのが見えた。
「あれ? それ、見た覚えがあるよーな……」
「対象を傀儡の様に操ることの出来る魔力の糸……こんなものを扱えるのは、我が配下でもたった一人しかおらぬ。――顔を見せよ、モルガナ」
「えっ! モルガナさんっ!?」
薔薇の呼び掛けに、晴太が大きく反応を示す。
晴太の脳内に夢で出会った美しい女性の姿が鮮やかに蘇り、その目を期待に輝かせた。
「御無沙汰ね、魔王サマ」
湿度のある声色が天から響き、晴太は急いで頭上を見上げた。
頭上にはいつの間にか真っ黒な糸が張り巡らされ、巨大な蜘蛛の巣を形作っていた。
その蜘蛛の巣の中央に座る女性の姿に、晴太はたまらず声を荒げた。
「藤ヶ丘センセ!? なんで!? モルガナさんは!?」
蜘蛛の巣に鎮座する晴太のクラス担任、藤ヶ丘真矢がにやりと笑う。
まるで蜘蛛が糸を垂らして降りるように、藤ヶ丘も肩から糸を伸ばしてゆったりとした動作で地に舞い降りる。
目の前に立つのは見慣れた藤ヶ丘そのものであるのだが、纏う空気の妖艶さに晴太は戸惑いを隠すことが出来なかった。
そんな晴太を見て、藤ヶ丘は愉快そうにくすくすと笑う。
「驚かせてごめんなさいね。ハルカゼくん」
「その呼び方! やっぱりモルガナさん! てことは、藤ヶ丘センセはモルガナさんだった……?」
「体を借りてるだけよ。私はまだ、この次元に完全に入れてはいないの」
悪びれる様子もなく、藤ヶ丘の体でモルガナは肩を竦めて見せた。
何時もの藤ヶ丘にはない色気に、晴太の鼻の下が伸びる。
「何のつもりだ、モルガナ」
一方、薔薇からは不機嫌極まりない声が上がった。鋭く吊り上がった眼で藤ヶ丘を通してモルガナを睨みつけ、言外に責める。
当のモルガナは薔薇の威圧的な態度を気にも掛けず、口元に微笑みを浮かべていた。
「私が好奇心旺盛な魔女であることは、魔王サマだって良くご存知でしょう? 観測することしか出来なかった別次元に直接接触が可能となったのだから、色々と知りたくなるのは必然だと思わなくて?」
「貴様の好奇心は碌なものではない。……現にこの騒ぎ、貴様のせいであろう」
どこか苛立った様子で薔薇は手にしていた糸を投げ捨てた。
地に落ちた糸は、煙を上げて消えていく。
「こちらの次元にどうにか接触したくて、人間に糸を付けただけよ」
「お前が余計なことをするから、次元の怪物の欠片が暴走してしまっているのだろうが」
「そうそう。参るのよね。私が糸を付けた人間を片っ端から斬っていくんですもの。あぁ、恐ろしい」
白々しさの溢れる態度でモルガナが嘆く。
薔薇は、自身の部下であったこの魔女がひどく苦手だった。魔族の中でも右に出る者はいない、最強の魔法使い。次元転移の術を薔薇に伝えたのもモルガナだった。
その実力の高さは認めるところだが、飄々として掴みどころのない性格は薔薇にとっては厄介でしかならない。次元を超えての再会であっても変わらぬ様子に、薔薇は思わずため息を吐き出していた。
「ねぇ、ハルカゼくん」
「はいはいッ!」
「私ね、あの光に困っているの。アレがなくなれば、私本来の姿で君に会えるのだけど」
「任せてください! あんなの俺が、ちょちょいのちょいでやっつけてみせますよ!!」
「まぁ! 頼もしい!」
根拠のない自信をみなぎらせて、晴太は胸を張った。
微笑みを浮かべるモルガナの目が全く笑っていないことに、晴太は微塵も気が付かない。呆れながらも薔薇は無言を貫いた。薔薇の目的もまた光の剣士を倒す事にあるからだ。
「それじゃあ、早速よろしくね。ハルカゼくん」
藤ヶ丘の体を使い、モルガナは両腕を頭上に掲げた。両手を内向きにして、大きな円を作る様に肘が軽く曲げられる。しなやかに伸ばされた指先からは、無数の黒い糸が飛び出していた。肘を支点にしてゆっくりと開く腕の動きに合わせ、ふわりと糸が舞う。
魔力で作られた糸には、距離も壁も関係がない。幾重にも放たれた糸は自動的に生き物へ向かい飛んでいく。
一人、二人と地上の人々の頭上に糸が刺さる。
「ぐ……っ!? グオォォオ……ンッ……!」
それまで平然としていた人々が、次々と低い唸り声を発して身を屈めた。暫く震え、幽鬼の様に立ち上がる。
その姿はまさしく晴太が目にした異変を起こした友人達と同一のものだった。
「この糸を通して私の魔力を注いでいるの。その関係でちょっと精神が汚染されちゃうみたいだけど、仕方がないわよね。人間が脆弱なんですもの」
物騒なことを言いながら微笑むモルガナに、晴太はそれなら仕方がないと納得する。
友人すらも巻き込まれたモルガナの仕業をあっさりと受け止める晴太に、薔薇は器の大きさを感じ取る。しかし口にすればまたうるさいことも分かっていたので、黙っている事にした。
「さぁ、釣られて来るわよ。ハルカゼくん、魔王サマ、後はよろしくね?」
クンッ、と指先に力を入れて糸を引っ張る動作をする。
途端、千切れた糸からモルガナの魔力が溢れだし、周囲に充満した。