020 薔薇の憂鬱
晴太が夢にモルガナを見てから一週間が過ぎ去った。
一週間もあれば人の興味は移ろうもので、次元間を繋ぐ門に関わる一連の出来事は、今ではすっかり過去の話題として扱われていた。
町に魔物の姿もなければ、空に亀裂の類もない。至って平穏な日常に誰もが戻っていく。
晴太もまたすっかり普段の生活を取り戻していた。
あの日から勇者としての力が出ることは一度もない。全てが夢だったのではないかと思う瞬間もあるが、この一週間毎日、薔薇の顔を見ていたのでやはり現実なのだと晴太は安堵する。
薔薇との出会いが夢だったなどと、晴太にとってはあってはならない事態だからだ。
「おっはよーっ!」
今日も晴太は勢いよく教室の扉を開け放った。
一通り女子の名前を呼んでから席に荷物を置き、晴太は教室の一番後ろまで足取り軽く歩いていく。つまらなさそうに窓の外に視線を向けた薔薇に、晴太は今日一番の笑顔を向けた。
「おっはよ! 薔薇ちゃんっ!」
へらへらと笑う晴太に対し、薔薇は盛大な溜息で応える。
返事をする気も沸かない薔薇は、虫を払う様に手を振って晴太を追い払った。
薔薇の素っ気ない態度にもめげることなく、晴太はまた後でねと笑顔で席に戻っていく。その背をジットリとした目付きで見つめながら、薔薇は再び溜息を吐き出した。
この一週間、薔薇は晴太の自我、精神性をどうすれば崩せるかを考え、実行し続けていた。
脅迫、泣き落とし、色仕掛け。押しても引いても晴太は喜ぶばかりで、その精神性が揺らぐことは一切ない。それどころかこの一週間、晴太は薔薇に構われていると大喜びをするばかり。
思い切って晴太から勇者の魂を抜き出して別の器に埋めるべきかとも考えるが、先日の戦いで魔力を大幅に消耗してしまった今の薔薇にはそれも難しい。そもそも器の当てがない。
悶々としたまま一週間を過ごした薔薇は、不本意ながら晴太のことを知る機会に恵まれてしまった。
春風晴太は勇者の魂さえなければただの人間である。……無類の女好きの。
女性に対する執着は、もはや妄執染みているともいえるだろう。
薔薇はこの一週間で、晴太が心から自身を好いていることを理解した。同時に、他の女性達のことも同様に好いている事も理解した。
歩く煩悩の塊。それが薔薇の晴太に対する評価だった。
(器に興味はないが、奴が器である理由は気になる。新たな器を探すにせよ、器の資格が分からねば動けぬ)
勇者と晴太の共通点に関しては、その精神性にあるのではないかと一時、薔薇は考えた。しかしそれだけでは説得力が弱いこともまた事実であり、薔薇を余計に悩ませる。
段々と苛立ちが募ってきた薔薇は、ホームルームの最中にも関わらず席を立った。椅子が床を引きずる音が教室にこだまする。しかし、振り返る者は一人もいない。
力が落ちているとはいえ、認識を阻害する術程度なら問題がないことを確認して、薔薇は一人屋上へと足を運んだ。
先日の一件以来、屋上は完全な立ち入り禁止扱いとなっていた。しかし薔薇にはそんなことは関係ない。扉の前に置かれた立ち入り禁止の立札を退け、ドアノブに手を掛ける。音もたてずにドアは開き、薔薇は屋上へ踏み出した。
長く伸びた髪をかき上げ、頬を撫でる風に目を細める。スッと細められた目で快晴の空を見上げ、薔薇は薄く口を開いた。
「ジェード、応えよ」
「はっ、此処に」
まるで初めから傍らに控えていたかのように、ひと際強く吹いた風と共にジェードが姿を現した。薔薇の真正面で跪き、うやうやしく頭を下げる。
薔薇はジェードのこの生真面目なまでの忠誠心が嫌いではなかった。
自身の統べる魔族。その頂点に立つとも言える四天王はどれも癖が強く、薔薇ですら手を焼くことが多かった。その中で素直に従うジェードと言う存在はある意味、有難いものだと言えた。
「一つ聞く。我と勇者が次元を超えた後、勇者の肉体はどうなった?」
「勇者の肉体、ですか?」
意外な事でも聞かれたのか。ジェードは驚いた顔を一瞬浮かべて、それから真顔にすぐに戻る。
「勇者の肉体は、我が王と共に消失しました」
今度は薔薇が驚いた顔をした。
「なに? 肉体が残らなかっただと?」
「はい。あの場のすべての者がそれを確認しております」
「……そうか。成程、な。どうやら術は思った以上の成果を発していたか」
唇を吊り上げて、薔薇はあの日、次元転移術を発動させた瞬間を思い起こす。
扱いの難しい古代魔法であり、自身と勇者の魂を送り込むことだけで精一杯であった筈なのだが――。
「やはり我と勇者は結ばれる運命にある! ククッ! ハーッハハハハッ!」
上機嫌に発せられる薔薇の高笑いが間近で聞けることを、ジェードは幸福に感じていた。