015 何かいる!
ポケットから取り出した鍵をドアノブに刺し、屋上に続く扉をあけ放つ。轟ッと風が吹きこんで、二人の前髪をかき上げた。
恐る恐る外へ出て、二人は空を見上げた。暗さが増したのではないかと思われる曇天。ぽっかりと空いた真っ黒な穴は、今にも空から落ちてきそうな錯覚を二人に与えた。
「近くで見ると……穴、かなり大きいね……」
「すげぇー。……ん? なぁ、委員長……アレ、何だ?」
「え? なになに?」
ほらあそこ、と晴太が穴の中心を指差した。目を細めて指差された位置を凝視して、いのりは飛び出しそうになった悲鳴を咄嗟に飲み込んだ。
暗闇の中に浮かぶ、巨大な二つの紅玉。目を凝らして分かるのは、それが何かしらの意志を持つ目玉の様にぎょろりと動くという事だった。
低く、地を揺らすような唸り声が響く。門の奥に何かが居る。思いもよらない出来事に、いのりと晴太は言葉を失った。
呆然と立ち尽くしていると、深紅の瞳が二人を見据える。あまりの恐ろしさに、二人は弾けるように再び校舎へ飛び込んだ。
バンッと音を立てて屋上へ続くドアを閉め、晴太といのりは踊り場で顔を見合わせる。
「今っ、今のっ、今の! 何かいた!!」
「晴太くんっ、暁月さんから何か聞いてないの!?」
「ないないないない! 何も聞いてない!」
「あぁあ……私もアルルさんから聞いてない……とにかく、落ち着こう」
二人は深呼吸を数度繰り返し、最後に深く長く息を吐く。
未だ心臓は跳ねているが、何とか落ち着きを取り戻したいのりが口を開いた。
「びっくりしちゃったけど、やることは変わらないよね」
「だな。よしっ! 委員長が魔法使ってる間、俺が必ず守るから、委員長は大船に乗ったつもりでいてくれよな!」
両手で握り締めたフライパンを振る晴太に、いのりはよろしくねと頷く。
ジェードの一撃を無効化してみせた激しい光。
あれがあれば、例え穴の中から何かしら飛び出してきたとしても防げるのではないか。そんな考えがいのりに宿っていたのだった。
晴太が戸を開け、二人は再び恐る恐る屋上へ出る。
空を見上げ、どちらからともなくとうとう悲鳴を上げてしまった。
「出てる! さっきは出てなかったものが出てる!」
暗闇から巨大な何かが外へはみ出ていた。
それは鰐の顎を思わせて、薄く開いた口からは鋭い牙が大小様々な大きさで並んでいる。外へ出ようとしているのか、大人一人分はあるだろうという大きさの鋭い爪が穴の両端に掛っていた。その爪で、今にも穴は裂かれてしまいそうである。
その全景を見ることはまだ叶わないが、いずれにせよこの世の生き物ではない事だけは二人にも否応なく理解が出来た。
二人は身震いしながら、頭上の巨大生物を見上げていた。
「これっ、ド、ドラゴンってやつかぁ!?」
「……っ、封印の前に、みんなを避難させなくちゃっ! 晴太くん、直江くん達に避難するように連絡できる!?」
「りょっ!」
二人は制服のポケットにしまっていたスマートフォンを取り出すと、それぞれ直江と麻里亜に電話を掛ける。すぐにどちらも通話に出たが、電波の状況が悪いのか、音声はノイズの走る聞こえにくいものだった。
「屋上すっげぇやっべぇからみんな連れて逃げろ!」
「……分かってる! けど、外に……」
「おいっ、おーーい! ……切れたっ」
「もしもし、麻里亜!? お願い、すぐに学校の外に逃げて!」
「そうしたいのは山々なんだけどっ……外が……っ」
「外?」
通話の切れたスマートフォンをしまいながら、いのりは屋上のフェンス越しに下を見る。広いグラウンドを十体近い魔物が闊歩している様子が見えて、いのりはしまったと頭を抱えた。
「これじゃあ、外に出られない……っ」
「俺が行って、蹴散らしてこようか!?」
「ううん、いくら晴太くんに力があっても数が多すぎるよ。それに……晴太くんにはここに居てもらわないと、私が困るから……」
「オッケー! 委員長の側にいる!」
晴太はフライパンを構え、いのりの前に立つ。
「オラァッ! 俺が居る限り、委員長には指一本触れさせねぇぜ!」
晴太の威勢の良さに少しだけ安堵して、いのりはその背中に隠れるように立った。両手を胸の前で組み、祈る様に目を閉じる。
いのりの足元から淡い黄金の光が溢れ、一気に屋上全体に広がる。それは古代文字の描かれた黄金の魔方陣だった。いのりは自然と胸の内に浮かぶ言葉を口にする。それこそが封印魔法発動の鍵となる呪文であった。
「……遥か遠くを繋ぐもの。交わらぬ一筋の道を繋ぐもの。断ち切るべく私は祈る。――大封印ッ!」
額に汗をにじませたいのりが大きく叫ぶ。途端、魔方陣から目が眩むほどの黄金の光が発せられた。
晴太は目が潰れるのではないかという光に驚きながらも、決していのりの前から動こうとはしなかった。いのりもまた光に飲み込まれながらも、祈りを捧げ続けている。
黄金の魔方陣は天に伸び、天を貫く。暗雲も飲み込んで、裂け目をも焼き尽くす。
「ガ、アァ……」
獣の声が天から響く。光に飲み込まれていく巨大な生物の声も、光の中に搔き消えた。
一際強く光が弾け、閃光を巻き散らす。二人とも思わず身を竦めるが、その輝きは一瞬にして消え去った。後に残るのは、しんとした静寂のみ。
晴太といのりは恐る恐る目を開ける。
光の消えた後には青空が広がっており、二人は手を取り合うと、喜びの声を上げた。
「やった! やったーッ! できたじゃん、委員長!」
「良かったぁ~! もう本当に怖かったよっ」
良かった良かったと二人揃って喜んでいると、不意に、何かが割れる音が二人の耳に届いた。
絶えず響くパキパキという音は、徐々にボリュームを増していく。
二人は動きを止めて、その音の出先を探った。
大きくなっていく音。それが頭上からだと気が付き見上げると、空には大きな罅が入っているのが見えた。
空が、まるで卵の殻に罅が入るかのように割れていく。
現実感の伴わない不自然な光景に二人は唖然としていると、罅の入った空が一際甲高い音を立てて砕け散った。
「ゴァァァアッ!!」
獣の咆哮が響き渡る。
割れた空から、漆黒に染まった巨大な生物が飛び出した。
全長十五メートル以上はあるのではないかという巨体が空を飛んでいる。まるで蝙蝠の羽を連想させる背中に生やした二対の翼が、その巨体を空中に留めているのだ。
全身に硬質な鱗を纏い、身の丈と同じほどの長さの極太の尻尾が揺れている。丸太の様な手足には長く鋭く伸びた爪が備わっており、触れれば切り裂かれることは容易に想像がついた。
「ガァアァア……」
低く唸りを上げる怪物は、頭を振るい、額から生やした一本角を軽く振り抜いた。
角の先から光が迸り、雷鳴が鳴り響く。角の先端から発せられた雷はグラウンドへ落ちて広がり、地面にいた魔物達を跡形もなく焼き尽くしてしまった。
晴太といのりは声も出せなかった。
目の前にいるのは、間違いなくドラゴンと呼ばれる存在であり、あまりにも非現実的過ぎたのだ。
取り戻したはずの晴天は、再び暗雲に染まる。
ドラゴンを見上げるいのりの顔には恐怖の二文字がありありと浮かんでいて、それを目にした晴太はたまらずに身を乗り出していた。
「委員長は俺が守ーるッ!」
自身の背にいのりを庇う様に、晴太が立つ。フライパンを構える両手は、僅かに震えているのがいのりの目についた。
「晴太くんっ! 逃げよう!」
「いンや……逃げらんないと思うぜ、これは……」
晴太の言葉を聞いていたのか、ドラゴンの顔が晴太達へ向く。
暗闇の奥に見えていた深紅の光はドラゴンの瞳だったのだと知るが、今更それを知れたところで意味はなかった。