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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
9/27

不安定

 五時間目の英語の授業が始まるころ、教室には微かな緊張感が漂っていた。

 重要な科目の英語は、厳しそうな先生が来るだろうと、みんな心の中で身構えていたのだ。

 しかし、教室に現れたのは予想外の人物。ドアを静かに開け、入ってきたのは、髪の毛がまばらで、いかにも年老いたおじいさん先生。歩みはゆっくりで、まもなく髪の毛が全滅しそうな頭頂部が、時の流れをそのまま映し出しているかのようだった。彼が黒板の前に立ったとき、教室内に小さなざわめきが広がった。


「こんな人が英語を教えるの?」と、少し驚きながらも、私は初回の授業ということもあり、真剣に話を聞こうと意気込んだ。

 しかし、その意気込みはすぐに打ち消されてしまった。教室の空気がやけに生ぬるくなり、誰かが暖房をつけたのかと思うほどだった。

 ぼんやりとした空気が教室全体を覆い、眠気が私の全身を徐々に包み込んでくる。先ほど昼休みに少し眠ってしまったせいで、体内に眠りの残りがまだ漂っていたのかもしれない。

 そのうえ、最大の敵はおじいさん先生の声だ。先生が読み上げる英語は、まるで念仏のように単調で、淡々と進んでいく。一定のリズムで低く響くその声は、睡魔をさらに強力に呼び寄せる。黒板に書かれた内容を追おうとしても、頭は徐々に重くなり、意識が遠のき始める。

 気がつくと、机に突っ伏す生徒が次々と増えていった。

 目の前で、クラスメイトたちが一人、また一人と沈んでいく光景が、なぜか面白く感じてしまい、思わず口元が緩んだ。眠気と戦いながらも、私は周りを見回した。

 学級代表や副代表はさすがに起きている。きちんと背筋を伸ばし、真剣な顔つきでノートを取っている姿が少しだけ眩しく映った。

 しかし、私の視線はその隣に座る結月に止まった。彼女は真面目にノートを開き、先生の言葉に耳を傾けているようだった。相変わらず、整った横顔に優しさが滲んでいて、ふとした瞬間に笑みが浮かぶ様子が心地よく感じられる。

 一方で、柊はすでに撃沈していた。ベージュのニットが少し大きめで、その余った袖が手を半分隠している。いわゆる萌え袖だ。柊がそんな姿で机に伏せているのを見ると、何とも言えない可愛らしさが漂ってきて、ついそのまま見つめてしまう。

 彼の肩が小さく上下し、穏やかに呼吸を繰り返している姿は、まるで子供のようだ。

 クラスの大半が眠りに落ち、残された数名がぼんやりと黒板を見つめている。先生はそんな様子に全く気付かないかのように、授業を続けていた。

 板書する手は止まらず、流れるように英語のフレーズを読み上げていく。その声は相変わらず単調で、周囲の風景と一体化したかのように、教室内に静かに響いていた。


 気がつけば、五十分間が過ぎていた。まるで永遠のように感じられた授業も、チャイムが鳴ると同時に終わりを告げた。先生は何事もなかったかのように、ゆっくりと教室を後にしていく。その背中を見送ると、私は深くため息をついた。これから一年間、この先生の授業を毎週受けるのかと思うと、すでに心が折れそうだった。

 周りの生徒たちも同じ気持ちなのか、どことなく憂鬱な顔つきをしている。机に突っ伏していた生徒たちが一斉に顔を上げ、重たい身体を引きずるようにして次の授業の準備を始めた。

 私はその光景をぼんやりと眺めながら、心の中でこの授業を一年どう乗り切るか、早くも策略を巡らせていた。


「ねー。起きてた?」


 結月が振り返って訊いてきた。


「え? 一応起きてたよ。死にかけてたけど」


「すごいね。私、座ったまま目瞑ってた」


 そう言って微笑みながら、彼は冷えた指先を軽く擦り合わせて、少しでも温めようとしていた。


「あ、そうだったんだ。てっきり起きてるのかと思ってた」


「途中までは起きてたけど、気がついたら授業が終わってた」


 二人で笑っていると、柊がやってきた。

 三人でしばらく雑談をしていると、柊が今日の部活体験に行くかどうかを尋ねてきた。私と結月が行くと答えると、柊は嬉しそうに微笑んだ。昨日の体験がよほど楽しかったのだろう。

 すべての授業が終わり、私たちは荷物をまとめて新校舎に向かう。雨は少し前に止んでいたが、空気は冷たく澄んでいる。


「早く暖かくなってほしいな」と心の中で呟きながら、足早に歩いた。


 音楽室に到着すると、相変わらず女子たちが集まっていた。入るタイミングを探していると、瑠夏先輩がこちらに向かって手招きしているのが見えた。その瞬間、女子たちが一斉に中に入っていき、通路ができた。


「今のうちだ」と思い、私たちもすぐに部屋に入る。荷物を端に置き、三年生が楽器の準備をしている方へと向かって歩き出した。


「あ、昨日も来てくれたよね。今日もありがとう」


 背の高いメガネをかけた男子生徒に声をかけられた。彼も驚くほど顔が整っている。


「この学校には、イケメンしかいないの?」


 なんて、内心で少しだけ笑ってしまう。彼と話すのはこれが初めてだったけれど、昨日、彼が他の一年生にチェロの弾き方を教えているのを偶然見かけたことを思い出した。その時の彼は、優しい表情で丁寧に教えていて、なんだか温かい人だなって感じたんだよね。


「いえいえ! 楽しかったから!」


 柊がニコッと笑って答えると、その先輩も笑って返した。


「俺、立花ね。よろしく」


 先輩が少し照れくさそうに自己紹介した。三年生だが、やはり初対面の私たちを前にして緊張しているのが伝わってくる。私たちもそれに続いて順番に自己紹介をした。結月がオーボエを、柊がホルンを受け取るのを横目で見ながら、私は部屋の端にある棚からヴァイオリンを取り出した。

 座席に戻り、結月の隣に腰掛けると、まずチューナーの電源を入れる。ヴァイオリンの弦は、左からG線、D線、A線、E線の順に張られていて、それに従って順番にチューニングを進めていく。長いことヴァイオリンを習ってきたので、実際のところチューナーなんて使わなくても音程は感覚でわかるけれど、ここは少し控えめに振る舞うことにした。

 まだ正式に入部したわけじゃないのに、変に期待されると後が大変だから。

 弓の持ち方を、立花先輩が丁寧に教えてくれる。実は私は、自分なりに楽な持ち方を編み出して、実践しているけれど、ここではそのことを隠しておくことにした。

 再び基本に立ち返って弓を持つやり方を教わるのは、どこか懐かしい感じがする。初心に戻るというのは、こういう瞬間のことを言うのかもしれない。

 思い返せば、初めてヴァイオリンを見たのは都内のコンサートホールだった。ウィーンからはるばる来日した交響楽団の演奏会だ。演目はスメタナの我が祖国の一部、《ヴルタヴァ》。そしてドヴォルザークの交響曲第九番《新世界より》が続いた。

 演奏していたのはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。

世界最高峰のオーケストラだ。当時はウィーンの楽団がチェコの作曲家の曲だけを演奏していたのは、なんとなく不思議な気もしたが、ただその美しい音色に圧倒されていた。

 子どもの私は、楽団の人たちを「すごい音を出せる特別な人たち」くらいにしか思っていなかった。そして、そんなことを自分ができるはずがないとも思っていた。

 でも、演奏が終わってもホールから動こうとしなかった私を見て、父が「ヴァイオリンやってみる?」と言ってくれた。

 あの時のことは今でも鮮明に覚えている。

 最初に簡単な曲を弾けるようになった時の嬉しさは、今でも忘れられない。音が出る喜び、それが一つの曲として完成する喜び。そんな些細な達成感があったからこそ、私はヴァイオリンを続けてこられたのだと思う。

 気がつけば、もう十年以上が経っていた。

 そんなことを考えながら、指先で弦を押さえ、弓を軽く引いて音を確かめていると、ふと横から視線を感じた。顔を上げると、柊がこちらを見て笑っている。


「なに?」と目で問いかけると、彼は何でもないというように首を振って、軽く肩をすくめた。その無邪気な笑顔に、私もつられて微笑んでしまう。

 周りを見渡すと、先輩たちはそれぞれ楽器の準備を進めていて、音楽室には静かに楽器の調律音が響いている。少し緊張しながらも、私は新しい環境に溶け込めるよう、今できることを一つ一つ丁寧にこなしていくことにした。


「じゃあ、そろそろ始めるか」と、瑠夏先輩が声をかけて練習がスタートした。


「どうしたの? さっきなんか魂抜けてたみたいだけど」


「え? あー、ちょっと考え事してた」

 

 自分でも驚くほど、生気が抜けたような気分だった。目の前の楽譜には四分音符が四つ並び、全てドの音。まずは弓の持ち方を習得しなければならない。基礎から練習を重ね、上達した順に楽譜が渡される仕組みだ。

 まだ入部を決めかねていたが、結月と柊は入る気満々のようだった。昨日、一緒に帰る途中で「どうする?」と訊かれ、考え中と答えると、二人は「一緒にやろうよ」と誘ってくれた。その言葉に心が揺れ、入部への意欲が高まったが、まだ迷っている。まだ早いかもしれないが、大学受験が控えており、部活との両立に不安があったからだ。


「七月に定期演奏会があるんだけど、もし入部すれば参加できると思うよ」


 立花先輩は次回の定期演奏会で演奏する曲の楽譜を、ペラペラとめくりながら丁寧に整理している。


「どんな曲やるんですか?」


 柊が身を乗り出して、ホルンを膝の上に置いた。


「ディズニーとかやろうって意見も出たんだけど、部長が『それは、面白くない』って一蹴してね。スメタナの《ヴルタヴァ》とシベリウスの《フィンランディア》と、チャイコフスキーの交響曲第五番をやることになった』


 立花先輩は、少し残念そうに肩をすくめた。彼の期待に反し、ディズニーの楽曲をやることが叶わなかったからだ。

 しかし、蒼太は違った。彼は、本気でクラシック音楽に情熱を注いでいるようだ。

 人気があり、誰もが知っている曲を演奏する方が集客数が見込めると考えるのは、確かに合理的だが、蒼太はそのような安易な選択をすることはなさそうだった。

 彼が音楽に向き合う姿勢には、音楽を愛する深い情熱が感じられる。私も同じ考えだった。彼が部長を務めるオーケストラであれば、参加してみたいという気持ちが膨らむ。

 このまま彼と一緒に音楽を奏でることができるなら、どれほど素晴らしいだろうかと、心の中で想像を巡らせる。音楽の力を信じ、私も彼のように真摯に向き合ってみたいと強く思った。


「でも、その曲全部私は好きです」


 無意識のうちに言葉が口をついて出ていた。発した瞬間、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。しかし、結月と柊は私の言葉に同調し、同じ意見だと言ってくれた。その温かい反応に心が少し軽くなり、少し照れながらも嬉しさが溢れた。

 音楽に対する情熱が、仲間との共感を生んでいるのだと感じ、自然と笑顔が浮かぶ。彼らと一緒にこの瞬間を共有できることが、私の心をさらに満たしていく。


「君たち、珍しいね。いつも他の子達は、ディズニーって言うと喜んでるんだけど」


 立花先輩は、物珍しそうに私たちを眺め、笑った。その様子を見て、私も何故か笑った。

 体験の休憩中、私たちは食堂でジュースを買って飲んでいた。


「香恋が音楽にあんな風に思ってたなんて知らなかったよ」


 結月の声色は少し驚きが混じっていたが、全く嫌な感じ、むしろどこか嬉しく感じた。


「あ、そう?」


 私は笑っていた。


「そうそう、僕たち昔から楽器やってるからさ。ディズニーはお子ちゃまって感じがするんだよね」


 柊と結月は、笑いながら互いに顔を見合わせている。二人も楽器をやっていたなんて初めて聞いた。


「二人もやってたんだ」


「え? 香恋も?」


 私は「うん」と頷き、ヴァイオリンを小学生からやっていたことを明かすと、二人も顔を明らめた。


「おー! すごい! 僕は小学三年くらいの時からホルンやってるー」


 ホルンを小学生からやってる方がすごいと思って、また笑ってしまう。


「結月は?」


「私も柊と同じくらいの時に、クラリネットやってたの。でも、今回はオーボエやってみたくて」


 「そうなんだぁ」とだけ反応しながら、思考が巡る。

 確かに、この二人初心者とは思えないほどの上達ぶりだった。先輩たちを驚かせているのは、何か特別な才能があるのかもしれない。

 彼らが黙っていた理由も、なんとなく予想がつく。周囲にアピールせず、練習を重ねていたのだろう。彼らの努力と情熱に触れ、私はますますこのオーケストラに引き寄せられていく。


「やってたの黙ってた?」


 私が少しからかうような含みを持たせて二人を交互に見る。


「なんか、黙ってみようって思った」


 柊がいたずら好きの小学生のようにケラケラと声を立てて笑う。


「私、二人と部活やりたいって思った」


 そう言うと、二人は大袈裟に手を叩いて喜んでくれた。そこまで喜ばしいことではないと思うが。


「え、ラッキーじゃん。プロのヴァイオリニストとできるなんて」


 結月がふざけた調子で言うと、柊も首を何回も縦に振る。


「そんな、私そんなに上手くないよ!」


 必死で謙遜している自分にもまたおかしくなってきた。三人で談笑していると、さっきの立花先輩が向こうからやってくるのが見えた。


「今日もありがとうね。これ良かった食べな」


 惣菜パンを三つ机の上に置いてき、自販機に硬貨を入れて、何を買うか迷っている。三人でお礼を言い、ありがたく頂いた。


「君たち、音楽好きなの?」


 ペットボトルの蓋を開けるため、力を込めている。


「僕たち、小学生の頃からやってるんです」と、柊が誇らしげに答える。


「えーそうなんだ! すげえ!」


 先輩の驚いた表情を背に、私たちはそれぞれの楽器の話題で盛り上がり、和やかな雰囲気が音楽室に満ちていた。

 しばらくして、休憩を終え、再び音楽室に戻ると、時刻は十九時を過ぎ、外はすでに真っ暗になっていた。窓の外では、星々が瞬き始めてから数十分が経過し、静けさが夜の帳を下ろしていた。

 片付けが始まると、私はヴァイオリンの弓の松脂を優しくタオルで拭き取り、丁寧に弓の弦を緩めてケースにしまった。そんな時、背後からかけられた声に驚き、振り返ると蒼太が立っている。


(なんで?)


 ここはヴァイオリンが並ぶ棚。入り口から最も奥にあり、そこは手前にある二台のグランドピアノの陰に隠れて、周囲の目が届きにくい場所だった。彼の存在感に心臓が少し高鳴る。

 どんな言葉をかけられるのか、期待と緊張が入り混じった。


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