表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
8/27

日常

 学校に着くと、少し浮き足立った気持ちで教室に足を踏み入れた。朝の冷たい空気を引きずったまま、机の上で教材を準備している結月と柊が、机に腰かけて笑い合っている姿が目に入る。

 結月がこちらに気づき、やわらかく手を振りながら手招きした。


「おはよー! 今日ちょっと寒いね」


 柊が白いシャツに赤と白のストライプのネクタイ、そしてベージュのニットを身にまとい、ニコッと笑う。その姿は、どんよりとした天気でも照明に照らされて、教室の中でもひときわ目立っている。

 結月はブレザーをしっかりと羽織っており、寒さをしのいでいる。

 教室の隅では、暖房をつけるかどうか迷う女子生徒たちが、エアコンの操作パネルを囲んで小さな議論を交わしていた。

 自分の机へそそくさと向かいながら、指先をこすり合わせて摩擦で温めようとする。教室の窓から差し込む朝のわずかな日差しはどこか寂しく、そして寒さを感じさせる冬と春の空気が漂っている。


「今日、雨降ってるから寒いね」


 私は、リュックを下ろしながら準備する。


「だよね。朝、ベッドから出られなかった」


 結月がふと振り返り、今朝の寒さを思い出して言った。

 視界には柊がいちごミルクの紙パックのストローを噛み、ぶらぶらとさせている姿が映った。それはまるで、雑誌に載っているアイドルの無邪気な表情を切り取ったかのようで、思わず微笑んでしまった。彼は自然と周囲の人を癒す存在なんだな、と改めて感じた。


「あ、ゆづ。現代文の宿題やった?」


 柊が思い出したように、机から降りて尋ねてきた。その仕草もどこか無邪気で、結月は肩をすくめる。


「え、そりゃやったけど。どうせまた忘れたんでしょ?」


 少し呆れた様子で、結月はノートを取り出した。彼女は、こんな風にいつも柊を甘やかしているのだろうか、と一瞬考えたが、柊の無邪気な笑顔を見ると、何も言えなくなる。

 彼の姿はまるで人懐っこい子犬のようで、誰もが放っておけない存在だ。


 結月は、ノートを渡しながら頭の中で様々なことを考えていた。彼には本当に敵わないなと思わず笑ってしまい、小さく微笑んだ。


「わーい、ありがと!」


 嬉しそうに言う柊。

 その無邪気な姿に、私はやっぱり可愛いなと思ってしまう。柊はノートを受け取ると、すぐに自分の机に戻り、急いで宿題を写し始めた。その一生懸命な姿をボーッと眺めていると、結月が呆れたようにため息をつく。


「いっつも忘れるの、柊は。呆れるわ」と、軽く呟いた。


「でも、結局見せちゃうんでしょ?」と私は少しからかい気味に言う。


「え? まあ・・・・・・そうだけど」


 結月は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに苦笑いを浮かべて肩をすくめる。図星を突かれたのか、照れ笑いを浮かべている姿がなんだか可愛らしい。

 その反応に私もつられて笑い、結月も声を出して笑い始める。ふと気がつくと、私たちは二人で声を揃えて笑い合っていた。何気ない会話の中にある、こうした瞬間が心地よくて、日常の高校生活がこんなにも楽しいものなのだと、あらためてて感じた。

 些細な日々の一コマに幸せを感じる瞬間が、そこには確かにあった。

 笑い合っていると、突然チャイムが鳴り響いた。授業の開始を告げる音。次は現代文の時間だ。私たちはそそくさと席に戻り、教科書を取り出す。

 一時間目は現代文で、担当はアラフォーの女性の先生。クールな印象のある方だ。この先生の授業では、まず短い小説から始まり、その後に評論文、長編小説、俳句、漢文と徐々に難易度が上がっていく流れだ。

 今日は最初の小説として、ジェームズ・ジョイスの《ユリシーズ》が教材に掲載されていた。短編のつもりで開いたが、これは立派な長編小説ではないか?

 中学生の頃に一度読んだことがあるけれど、進学校に入った途端、これが短い小説扱いされるのだ。さすが進学校、と少し気後れしつつも、なんとかついていけると自分に言い聞かせた。

 授業が始まると、先生は一人一人に段落ごとに読んでもらうと告げた。クラスのあちこちからため息や、わずかな不満の声が漏れ出す。

 先生はそれを受け流しながら微笑む。


「はい、ではこちらから始めましょうか」


 教室の左端の生徒から順に当て始めた。みんな自分の順番が来るまでに、短い段落かどうかを確認し、心の準備をしているのがわかる。私もその一人だ。正直、人前で何かを読んだりするのは得意じゃないので、なるべく短い文に当たってほしいと心の中で祈っていた。

 段々と自分の番が近づいてくる。視線を教科書に落とし、やっと自分の段落を見つけた。それは、たったの二行の文章で、難しい漢字も特にない。ホッと胸を撫で下ろした。

 結月が当てられ、彼女が読み終えると、いよいよ私の番だ。ゆっくり深呼吸をして、声を出す。なんとか最後まで詰まることなく読み終え、無事に自分の番を乗り越えた。

 クラス全員が順番に読み終えると、先生が黒板に向かって板書を始めた。みんな一斉にノートを開き、先生の書く内容を書き写す。先生の書くスピードはとても速い。

 だが、速いだけでなく字も綺麗で、黒板に書かれる文字を見ているだけでなんだか目を奪われてしまう。

 その美しい文字に見とれていると、あっという間に他の生徒に遅れを取ってしまったことに気づき、急いでノートに書き写し始める。

 昨日の授業は、日本史や政治、経済といった科目が中心で、その担当の先生方は大抵おじいちゃん先生だった。授業中の進行はゆっくりで、書く速度も遅かったため、正直眠くなることが多かった。

 でも今日は、現代文に加えて、数学や英語といった重要科目が軒並み組み込まれている。授業のリズムも早いし、気を抜いてはいられない。高校生になった実感がじわじわと湧いてきて、あらためて自分のペースを保とうと意識した。

 なんとか四時間の授業を乗り切り、待ちに待った昼休みがやってきた。授業と授業の間のわずか十分間の休み時間は、中学校の頃に比べて驚くほど短く感じる。

 そのたびに、少しでも息抜きをしようと友達と話をしたり、スマホを触ったりしているけれど、あっという間に次の授業が始まってしまう。昼休みは、その点では少しだけ心の余裕が持てる時間だった。

 結月と柊と喋りながら、いつものように昼食を取ろうと準備を始める。

 お弁当をリュックから取り出すと、結月が振り返り、柊が子犬のように結月の隣に座った。


「本当に仲良いんだね」


 何度もそう言ったことがあるが、何回言っても足りないような気がして、また口に出してしまった。結月と柊の関係は、それほど自然で親しげだった。


「仲はいいんだよ。でも、その関係」


 柊がウインナーを口に運びながら、軽くつぶやいた。


「そうそう。仲がいいだけ」


 結月はちらりと柊を見て、微笑む。その笑顔が、また二人の絆を感じさせて微笑ましい。彼らのやり取りを見ていると、まるで長年連れ添った親友のように見える。


「香恋のお弁当、美味しそうだね。昨日はオムライスだったよね?」


 結月が、私のお弁当箱をのぞき込んでくる。彼女の記憶力に驚く。正直、私はもう昨日の昼食のことなんて忘れていた。


「え、よく覚えてるね。お母さんが料理好きだから、いつも作ってくれるの」


「えー! 羨ましいなぁ。僕なんて、ウインナーと卵焼きとミートボールに梅干しときんぴらごぼうとブロッコリー」


 柊が自分のお弁当箱を開けて見せてきた。十分バランスの取れたお弁当だと思うけど、彼には物足りないらしく、いつも学校でパンも買っている。食べ盛りの男子だな、と感心する。


「柊くんのも美味しそうだよ。ミートボールなんて、いいなぁ」


 何気なくミートボールを褒めると、柊が私の弁当箱にぽんとミートボールを一つ入れてくれた。


「え?」


「あげるよ」


 少し驚いたが、せっかくの好意なのでありがたくいただくことにした。


「柊は、そうやってすぐ何かあげちゃうから、いつも足りなくなるんだよ」


 結月が軽く柊を睨みながら言うが、その表情には優しさがあふれている。柊は気にせずに、いつもの無邪気な笑顔で応じる。


「だって僕、長男だから面倒見がいいの」


 謎の理屈を堂々と言い放つ柊に、結月は呆れたような表情を浮かべながらも、笑みを浮かべる。私はその二人のやり取りを見て、また微笑んでしまう。


「柊くん、兄弟いるの?」


「いるいる。中二の弟と、小五と小二の弟も。毎日ケンカばっかりしてんだよ」


「でも、毎日公園で一緒に遊んでるじゃない。結構仲良いんじゃない?」


 結月は柊の家庭のことをよく知っているらしい。家族ぐるみで親しい関係なのだろうか。


「お母さんがさ、ちびたち連れて遊びに行けって言うんだもん」


 柊が卵焼きを半分に割りながら言う。彼は本当に面倒見がよく、その自然体の振る舞いで、クラスの女子たちからも人気があるのは納得できる。

 それぞれの家庭のことや日常生活について話していると、昼休みもそろそろ終わりが近づいてきたことを告げるチャイムが鳴った。残りの休み時間は、わずか十分ほど。

 柊はご飯を食べ終えると、すぐに眠気に襲われたのか、机に突っ伏してそのまま動かなくなった。結月はそんな柊を気にも留めず、午前の授業の復習を始めている。

 私はと言えば、何もやる気が起きなかったので、ただダラダラとアガサ・クリスティの《オリエント急行の殺人》を広げ、読んでいた。

 本を読んでいるうちに、大きなあくびが漏れてしまった。いつの間にか午後の授業の時間が迫ってきている。朝の出来事なんて、今ではすっかり忘れてしまっていた。

 午後の授業が始まれば、また日常が続いていく。きっとこれからも、柊と結月はこうやって日々の中で笑い合い、何気ないやり取りを重ねていくのだろう。私もその中にいて、一緒に笑い合う。それが私の日常になっていると、ふと感じた。

 そんなふうにしていると、今朝の出来事はすっかり頭から離れていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ