気づき
翌日は雨がしとしとと降り続き、じめっとした空気が街全体を包み込んでいた。灰色の雲が空を覆い、どんよりとした景色は朝から気分を重くする。窓の外を見ると、路面にできた小さな水たまりに雨粒がぽつぽつと落ち、一定のリズムで水面に波紋を作っていた。
「雨か・・・・・・嫌だな」と、寝ぼけ眼で私は呟いた。
体をベッドから起こすと、部屋の空気が思いのほか冷たく感じられる。花冷えの天気だ。春の雨は気温を下げることが多く、今日もその例外ではない。
寝起きの体に冷気がじわじわと忍び寄ってきて、思わず肩をすくめた。
一階からパンとコーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。それに釣られて、少しずつ意識がはっきりしてくる。ベッドからのっそりと体を起こし、寒さを感じながらフローリングの床に足をつけると、思わずひんやりとした感触に驚いた。スリッパを履き、階段を降りる前に洗面所に向かう。
鏡に映る自分の顔を見て、髪の毛が湿気でボサボサに広がっているのに気がついた。やっぱり雨の日は髪が言うことを聞かない。櫛で軽く整えてみるものの、何本かの髪は不機嫌そうに跳ねたままだ。仕方ないと諦めて、軽く顔を洗って気分をリセットする。
洗面所から出てリビングに足を踏み入れると、テーブルにはいつもの朝食がすでに用意されていた。キッチンから漂うコーヒーの香ばしい香りと、焼きたてのパンの香りが、どことなく温かな家庭の安心感を与えてくれる。
私は椅子に腰掛け、まず目の前にある目玉焼きに目を留めた。焼き加減は完璧で、黄身がまるで太陽のように黄金色に輝いている。塩と胡椒が軽く振りかけられていて、その香りが食欲をくすぐる。
ナイフでそっと黄身を割ると、中からとろりとした黄金色の液体が流れ出し、パンに絡めて食べると、ふわっと口の中に広がる優しい味がたまらない。温かなコーヒーを一口飲み、ふぅっと息をつく。
このひとときが、忙しい朝の中で私にとっての小さな至福の時間だった。昨日と同じようにゆっくりと朝食を終え、心地よい満足感を抱きながら立ち上がる。
食事を終えると、いつものルーティーンで身支度を整え、外出の準備を始める。制服に袖を通し、部屋に置いてあったカバンを手に取ると、窓の外の景色に目をやった。雨はまだ降り続いている。傘をさして出かける準備をしなくてはならない。靴を履きながら、雨の日の冷たさがなんとなく心にも影響を与えているような気がした。
玄関で傘を手に取り、ドアを開けると、冷たい空気が瞬時に体に纏わりついた。外の景色は灰色に染まり、雨の音が一層大きく耳に入ってくる。
歩き出すと、コンクリートの地面に小さな水たまりが点在し、それらを避けながら駅に向かう。雨の日の通学はいつも以上に気が重くなる。傘をさしながら歩いていると、通りにはいつも聞こえる鳥のさえずりがまったくないことに気がついた。雨音にかき消されているのか、それとも鳥たちも雨の日は静かに過ごしているのだろうか。どちらにせよ、いつもより静かな朝だ。
雨粒が傘に当たる音が一定のリズムで続いている。パラパラと鳴るその音は単調で、歩きながら心を無にするのにちょうどいい。肌寒い空気の中、私はただ駅に向かって歩き続ける。街路樹の葉っぱからも雫が落ち、アスファルトの上に水のしぶきが舞い上がる様子が視界に入る。
そんな景色をぼんやりと眺めながら歩くと、ふと家からここまでの距離がいつもより長く感じられるような気がした。
駅に近づくと、通り過ぎる車の音も徐々に大きくなってくる。傘を持った人々が集まり始め、皆、足早に歩いている。電車の時間を気にしているのか、それとも雨を避けたいのか、傘の下から覗く顔はどこか急いでいるように見える。私もその流れに合わせて、自然と歩調が速くなっていた。
改札を通ると、駅のホームは雨の日特有の湿った空気が漂っていた。人々の傘が閉じられ、水滴が滴る様子がそこかしこに見られる。いつもより少し重たい雰囲気の中、私は電車を待つ。
しばらくすると、電車がゆっくりとホームに滑り込んできた。その音が日常の一部であるかのように、自然と体が反応して乗り込む準備をする。
車内は思ったほど混んでおらず、少し空いた席に腰を下ろした。窓の外をぼんやりと眺めながら、雨が車窓に当たって流れる様子を眺める。細かな水滴が縦に伸び、流れ落ちる様子がなんとなく心地よく感じられた。電車は雨の中を淡々と走り、私はただその揺れに身を任せる。
今日は雨の日らしい、静かで少し冷たい朝。だが、そんな日でも、私の日常は変わらずに流れていく。
「おはよう! 今日寒いね」
柊からラインが届いていた。彼の短いメッセージを見て、思わず微笑んでしまう。彼はきっと誰にでもこんな風に優しいのだろう。それでも、その優しさが今は少し心に沁みた。
どう返事をしようかと考えながら、スマホを見つめる。電車を待つ間、ふと顔を上げて周りを見渡していると、左側に一際目立つ高校生が目に入った。
目立つといっても、派手な服装をしているわけではない。むしろ、制服はどこにでもいる普通の高校生のものだ。しかし、その立ち姿からはただならぬオーラが漂っている。マスクをしていて顔全体が見えないし、眼鏡もかけているのに、なぜかその存在感が際立っていた。
なんとなく、どこかで見たことがあるような気がして、思わず視線をそちらに向けたまま凝視してしまう。
すると、不意にその高校生がこちらに顔を向けた。瞬間、私の胸がドキリと音を立てた。マスク越しに見える目元は鋭く、でもどこか優しさが宿っている。その瞳に見覚えがあった。蒼太先輩だ。
同じ駅だったなんて、夢にも思わなかった。まさか、ここで会うとは。
視線が合った瞬間、胸が高鳴り、鼓動が激しくなったのが自分でもわかる。私は慌てて目を逸らし、少し息を整えようと深呼吸をした。
しかし、鼓動は収まるどころか、ますます速くなるばかりだ。もう一度、彼かどうかを確かめるために、そっと視線を戻したが、そこにはもう誰もいなかった。蒼太先輩の姿は消えていた。
駅のざわめきの中、私はしばらくその場に立ち尽くし、彼の姿を追うことができなかった自分に、なんだか少し呆然としていた。
(あれ? どこ行ったんだろ?)
辺りを見回していると、右肩を誰かに叩かれた。驚いて振り向くと、蒼太先輩が立っている。
「え⁉︎ なんでこんなところに?」
驚きのあまり、思わず大きな声を出してしまった。
ただ、ちょうどそのタイミングで東京行きの快速電車が到着したため、電車の音に声はかき消され、周りの人たちには気づかれなかったようだ。
皆、特にこちらを気にすることもなく、ただ黙々と電車を待っている。
私は少し安堵しつつも、胸の鼓動はまだ収まらず、落ち着こうと深呼吸をして、静かに電車が止まるのを見つめていた。
「しー。 声が大きいよ」
蒼太先輩が、マスク越しに人差し指を唇に当てる仕草を見せた。その動作だけでも、彼の美しさが十分に伝わってくる。
隠れていても、輝く瞳から滲み出るその魅力に、またもや胸が高鳴り、心の中に波が押し寄せるような感覚が広がる。
ドキドキしながら、彼の目を見つめ続けていると、蒼太先輩が軽くニコッと笑ったのがわかった。何気ないその微笑み一つで、私の心は一層ざわめき、さらに彼のことが気になって仕方なくなった。
「一緒に行こうよ」
彼は何のつもりもないのだろうが、私としてはその提案は心臓が持たない。
だが、彼と一緒に行く以外考えられなかった。いつの間にか不思議と、ずっと彼の隣にいたいと思うようになっていた。
彼と一緒にいると、どこか落ち着く自分がいた。そんなことを考えていると、電車が来たので、私たちは乗り込んだ。
電車内は、予想通り人が多く、すし詰め状態だ。私は背が高くないので、周りに埋もれてしまいそうだが、蒼太先輩は人一倍背が高く、頭がポッコリと飛び出しているのが目立つ。そんな彼は吊り革を使わず、アルミか鉄のパイプをつかんで、安定した立ち姿を保っている。
ふと見ると、電車の揺れに合わせて私の体が不安定に揺れていたのだろうか、蒼太先輩が無言で私の腰に腕を回し、支えてくれた。驚きと同時に、心臓がドキドキしてしまう。
これが胸キュンというものなのかと、感動する余裕さえ感じた。
しばらくして、立川駅に着くと、多くの乗客が降りた。私たちは少しゆとりのある車内で、並んで座ることができた。
蒼太先輩は、特に何事もなかったかのようにカバンから一冊の本を取り出す。それは英単語帳のようだった。彼は速いスピードでページをめくりながら、黙々と集中している。
その姿に見惚れてしまう私は、彼がどれほど優秀で、自分とは違う世界に生きているように見えた。
彼のことを見つめ続けていると、ふと自分がどれくらいの時間、彼を見ていたのかわからなくなってしまった。
気がつくと、もう降りるの駅に到着していた。彼の横顔や、集中した表情に見惚れてしまった時間が、いつの間にか過ぎていたようだ。二人でエスカレーターに乗り、私が前に立ち、蒼太先輩が後ろにいる。
付き合っているわけでもないのに、なぜこんなにも心臓がドキドキしているのか、自分でも理由がわからなかった。ただ、彼の存在そのものが私に影響を与えているのは明らかだった。
バス停に向かう途中、蒼太先輩がコンビニに入ると言って、店の中に消えた。
私は、待っているべきか迷ったが、ちょうど同じ高校の女子生徒たちがコンビニの周りに集まり始めていた。
彼女たちの視線を感じると、妙に居心地が悪くなり、彼女たちに私が彼と付き合っているかのように勘違いされるのが嫌で、考えに考え、先にバスに乗ることにした。
バスに一人で座りながら、スマホを見たり、音楽を聴いたりして気を紛らわそうとしたが、蒼太先輩のことがどうしても頭から離れない。
彼の優しい眼差しや、何気ない仕草が脳裏に焼き付いて、心臓がまたドキドキしてしまう。スマホの画面を見つめても、彼の姿がちらついて集中できなかった。
前の席に頭を預け、ため息をつきながら脱力していた。
その瞬間、私の中で気づいてしまった。私は蒼太先輩のことが好きなのだと。ずっと否定してきた感情が、今でははっきりと自覚されてしまった。
彼と過ごす時間がどれだけ特別なものなのか、彼のことを考える時のこの感情が、恋なのだと認めざるを得なかった。