麗らかな日
結月は、柊の隣に座りながら、静かにウトウトしていた。
瞼は薄く閉じられ、その軽やかさもやがて電車の揺れに誘われるように、次第に重くなってゆく。心地よい振動に身をゆだねるうち、彼女の意識は微睡みの縁を彷徨っていた。
「もう少しで着くよ」と、柊の柔らかな声が届く。
耳元でそっと囁かれるその声は、まるで春の風が吹き抜けるかのように優しく、結月の心に響いた。
「寝ちゃったら起こして」と、結月は半分眠りながら、ぼんやりとした返事を返す。
その姿に柊は小さく笑みをこぼし、少しだけ溜め息をつく。
優しい眼差しで結月を見つめる柊の表情には、一種の愛情と安らぎが滲んでいた。
スマートフォンに視線を戻し、画面を指で軽やかに送りながらも、時折浮かぶ微笑みが幼さを感じさせ、その無邪気さが可愛らしく、つい彼の横顔に見惚れてしまう。
柊が画面に夢中になる様子に、結月の心は安らぎに満ちていった。電車の揺れはまるで、母が揺らしてくれた子守唄のように穏やかで、彼女の心をさらに深い眠りへと導いていく。瞼が少しずつ重くなるのを感じながら、彼女もまた、体を委ねるように静かに目を瞑る。
どれくらい時が経っただろうか。ふと、軽く頭をトントンと叩かれ、結月は目を覚ました。ゆっくりと瞼を持ち上げると、目の前には柊の姿があった。彼はスマホをポケットにしまい、優しく彼女を起こしていたのだ。
いつものように、彼女を気遣うその姿に、結月は胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
車窓から見える景色がいつの間にか変わっていることに気づく。見慣れた高円寺駅を過ぎ、次の中野駅へと向かっていた。街の明かりがまばらに見え始め、夜の訪れがじわりと車内に忍び寄ってくる。
窓の外に広がる静かな街並みは、電車が進むごとにどこか幻想的な雰囲気を帯びていた。
車内では、どこからか聞こえるアナウンスの女性の声が、静かに電車の到着を告げる。単調でありながらも耳に馴染むその声は、遠くから聞こえる風の音のように、心に穏やかさを運んでくれる。
次々に席を立ち上がり、降りる準備をする人々の姿が目に入る。慌ただしくもどこか安らぎのあるその光景に、私たちも自然と体を動かし、降りる準備を始めた。
電車が中野駅に到着し、扉が開くと、冷たい夜風が瞬く間に車内へと吹き込んできた。その冷たさは鋭くもありながら、どこか懐かしく心地よい。冬の終わりを告げる風が頬を撫でるように、静かに心に触れてくる。
結月と柊が立ち上がると、私もそれに続き、足を動かす。降り立ったホームは、薄暗く静かな雰囲気が漂っていたが、その静寂の向こうには確かに街の喧騒が感じられた。改札口に向かって歩き出すと、柊がそっと私の手を引く。
その小さな仕草が心に温かな灯を灯し、自然と微笑みがこぼれた。
駅のホームを歩く私たちの耳に、周囲の人々の足音が響いてくる。だが、その音の中に私たちだけの静かな時間が流れているかのように感じられる。
私たちの間に流れる空気は、どこか特別で、言葉にするのが難しいほど心地よい。互いの存在を感じながら、少しずつ距離が縮まっていくのを感じた。
結月と柊の姿を眺める私の胸には、何とも言えない温かな感情が広がっていた。彼らと過ごすこのひとときが、今までの日常とは違う特別な瞬間に感じられる。
ふたりの笑い声が、冷たい夜風の中で小さく響き、私たちの歩みを優しく包んでいた。
ホームを後にし、街へと足を踏み入れると、夜の帳が静かに降りていた。結月と柊は、改札を抜けて歩き出す。私はふたりを追いかけるように、その後ろを歩きながら、心の中でふと一つの確信が生まれていた。この二人と過ごす時間が、私にとってもかけがえのないものになりつつあることを。そして、その気持ちがどこへ向かうのかは、まだわからないままに、ただ心が弾むような予感を抱きながら、夜の街へと歩みを進めた。
「まだ夜は寒いな」と柊がポケットに手を突っ込み、エスカレーターを先に乗り込んだ。
上から見下ろすその後ろ姿は少しチャラくも映ったが、どこか可愛らしさが勝っていた。寒さをしのぐために手を擦り合わせる仕草に、思わず微笑みがこぼれる。
「そうだね。早くあったかくなってほしいな」と、結月が前を歩く柊の髪を触った。
指先がサラサラした茶髪を滑り、その感触に心地よさを感じる。陽の光に当たるとキャラメルのように輝いていた髪も、今は駅のLED照明に無機質に照らされている。
それでも、結月は微笑みを浮かべていた。柊は無邪気な笑顔を見せ、軽やかな会話が続く。
やがてエスカレーターを降り、改札を通ると、二人は自然と同じ道を歩き始めた。すぐに分かれ道に差し掛かり、柊が「じゃあね!」と元気よく手を振る。
結月もそれに応じて手を振り返すが、別れの瞬間、胸に少しだけ寂しさがよぎった。
一人で帰路につくと、静かな夜の街に虫たちの声が響いていた。春の訪れを感じさせるその音色が、結月の心を穏やかに包む。
歩くたびに、冷たくも爽やかな風が頬を撫で、日中の出来事が次々に思い出される。柊との楽しい時間、そして蒼太先輩や瑠夏先輩の姿。それを思い返しながら、自然と顔がほころぶ。
自宅に着くと、愛犬のむぎが駆け寄り、嬉しそうに尻尾を振りながら出迎えてくれた。
「おかえりー。遅かったのね」
母の声とむぎの息遣いが、静かな家の中で溶け合う。その様子に心が和み、思わず膝をついてむぎの柔らかな毛を撫でた。ふわふわとした毛並みが手に伝わり、むぎも嬉しそうに私に寄り添ってくる。
その小さな温もりが胸に広がり、自然と微笑みがこぼれる。
「ただいま、むぎ」と優しく声をかけながら、そっと抱きしめる。むぎの温かな体温が、まるで疲れた心を優しく包み込むようで、少しずつ心が癒されていく。
家の中に足を踏み入れると、ふんわりと漂う夕飯の香りが鼻をくすぐった。思わずお腹が鳴り、今日一日の疲れが一瞬で解けていくようだった。
洗面所に向かおうとすると、むぎが先に立って歩き出す。まるで小さな案内役のように、ゆっくりと私を先導してくれる。彼の後ろ姿を追いながら、家の中に漂うほのかな暖かさを感じる。家族が揃い、夕方から家全体が穏やかに暖められていたのだろう。
その心地よい空気が、春風のように包み込んでくれる。
洗面所にたどり着き、鏡を覗き込むと、少し疲れた自分の顔が映る。今日の出来事を思い返し、自然と頬が緩んだ。
柊や香恋との何気ない会話、そして蒼太先輩や瑠夏先輩とのひとときが、心の中で静かに彩られ、優しい花を咲かせていく。
「今日も良い一日だった」と、心の中でそっと呟いた。
これから先、彼らとの新たな思い出がどんどん積み重なっていくことを願いながら、私は顔を洗い、心を静かにリセットするのだった。