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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
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緊張と緩和

 私たちは、二時間ほどオーケストラに属する楽器を演奏して回った。手に触れる楽器たちは、どれも異なる個性を持ちながら、一つの目的に向かって調和を生み出していく。

 ヴァイオリンは、柔らかくも力強い音色を響かせ、チェロはその低音で深い感情を表現する。

 ホルンの華やかな響きが空気を震わせ、トランペットの明るい音が希望を運んできた。トロンボーンは、力強くも優雅なフレーズを奏で、オーボエはその甘美な旋律で心を打つ。

 クラリネットとフルートは、軽やかな対話を繰り広げ、空間に豊かなハーモニーを描いていく。

 神聖な楽器たちが美しい音色を出し、それぞれが一つの音として存在する。それが指揮者によって一斉に一つの音楽を形成する。すべての楽器が揃い、演奏が始まる瞬間、人々の心は高鳴るのだ。

 一つでも欠けてはならない、その一体感が生まれる瞬間を肌で感じることができる。

 音楽の世界は、まさに歴史そのものであり、西洋の音楽史をたどると、そこにはバッハやヘンデル、ハイドンやモーツァルトの名が輝いている。

 彼らの作品は時代を超え、今もなお私たちの心に響いている。

 続くチャイコフスキーやドヴォルザーク、マーラーたちもまた、音楽の神秘を解き明かす偉大な作曲家たちだ。その音楽を演奏することができるなんて、私は思わず夢のような思いに耽ってしまった。

 私は楽器を手にし、もう一度ヴァイオリンを見つめる。その光沢のある木製のボディは、これまでに数多の音を奏でてきたに違いない。指先を滑らせて弦に触れると、心地よい振動が手に伝わり、音楽が生まれる感覚が広がっていく。

 私も  また、この音楽の一部になりたいと思った。オーケストラの一員として、彼らの遺した旋律を紡ぐことで、何か特別なものを感じられるのではないか。

 音楽の力は、私の心を深く打ち、全身を震わせる。

 時間はあっという間に過ぎていき、より一層お互いの音を意識し合うようになっていた。それぞれの楽器が持つ独自の声が、まるで会話をしているかのように感じられた。

 音楽の中に身を委ね、心の奥底から溢れ出る感情を解き放つことができた。この瞬間、私は音楽にすべてを委ね、音楽とともに生きていることを実感した。


「どう? 楽しいでしょ?」


 いきなり話しかけられ、ふっと我に帰る。目の前には、蒼太先輩がニコッと笑っていた。その笑顔は、まるで陽光のように温かく、心を包み込む。

 彼の存在に気づくと、周りの音楽が一瞬にしてフェードアウトしていき、ただ彼だけがそこにいるかのような感覚に襲われた。

 彼の声は優しく、私の心を和ませる。思わず言葉を失っていると、彼の視線が私を見つめていることに気づいた。


「あ・・・・・・はい」


 何も聞いていなかったので、適当に返事してしまった。


「フフ。話聞いてた?」


 優しい声で意地悪な目で聞かれた。蒼太先輩の魅力は計り知れず、その全てがかっこよく、心を掴まれてしまう。まるで夢の中にいるかのような感覚に陥り、現実かどうかわからなくなりそうだった。

 彼の存在が私の思考を揺さぶり、心臓が高鳴る。何とも名状し難い緊張を感じる。


「あ、すいません。ボーッとしてました」


 とりあえず、正直に答える。すると蒼太先輩は笑ってヴァイオリンを片づけ始めた。


「大丈夫大丈夫。君、ヴァイオリンすごく上手だったね。習ってるの?」


「はい。小学校からやってます」


「そうなんだ。俺も小学校からやってるよ」


 なぜか話が弾み、自然と会話が進んでいく。蒼太先輩は、どこか嫌味なところが全くなく、屈託のない笑顔を絶やさない。彼の温かい眼差しや優しい声は、周りの空気まで和ませてくれる。

 話すたびに彼の魅力に引き込まれ、思わず笑顔がこぼれる。そんな彼の存在は、まるで人を惹きつける魔法のようだ。

 彼の周りには常に人が集まる理由がわかる気がする。やはり、こんな魅力的な人をみんなが好きになるのは自然なことだと感じた。


「そういえば名前は?」


「野島香恋です」


「香恋? いい名前だね」


 柊と同じ反応だった。自分では、いい名前とか考えたことはなかったが、あらためて考えると、漢字は恋の香り。確かに、おしゃれではありそうだ。


「蒼太先輩もかっこいい名前ですよ」


 突発的にそんなことを言ってしまったが、彼は特に気にしていないような素振りで、ありがとうとだけ言った。

 ふいに結月と柊のことが気になり、周りを見回していると、蒼太先輩が話しかけてきた。


「お友達? みんなで来たの?」


 友達に「お」をつけるのは育ちがいいのだろうか。優しく低い声で聞かれるとつい緊張してしまう。


「はい、あそこの結月と柊くんと来ました」


「へー。最近の子は可愛いし、かっこいい子が多いね」


 何を言っているんだこの人は。最近の子と言っても、私たちの代と一つしか変わらないし、なんならあなたの方が美しくてかっこいいですけど、と思わず言いそうになったが押し殺す。

 ハハハっと、適当に誤魔化し、一応同意しておく。


「また明日も来てくれる?」


 蒼太先輩がそういうと、私は来るとしか言えなかった。彼はにっこりと笑ってありがとうと言った。笑顔も笑窪ができて可愛いと思った。



 三人で音楽室を後にする。音楽室では、依然として歓声が響いている。


「蒼太先輩かっこよすぎじゃん」


 柊が悔しそうに笑いながら言うと、結月は何言ってんのと柊を慰める。


「柊くんもかなりかっこいいよ」


 私も柊に慰めの言葉をかけると、柊は嬉しそうに笑った。


「本当に? ありがとう!」


 素直に喜ぶ柊の姿は、まるで小さな花が咲くように可愛らしい。彼女は音楽室でも、周囲の女子から次々に声をかけられていた。その魅力は、まさに愛らしさとカッコ良さを兼ね備えたものである。柊の微笑みが周囲を明るく照らすように、彼女自身も周りの人々を笑顔にする。

 しかし、蒼太先輩や瑠夏先輩は、柊とは異なる何か特別なオーラを持っていた。彼らの存在は、名状し難いかっこよさを漂わせており、まるで芸能人のような雰囲気があった。

 外に目を向けると、夕暮れの空は深い藍色に染まり、静かに日が暮れていく様子が感じられる。カラスが鳴き声を響かせ、朧月がゆっくりと姿を現し始めている。

 低いビルの間からは、ぼんやりと明るい空が見え、まるで夢の中にいるような錯覚を覚える。時間が経つにつれて、周囲の音が次第に静まり、どこか幻想的な雰囲気が漂っていた。

 三人は八王子駅まで歩いて帰ることに決めた。心地よい秋の風が吹き抜け、柊が話すたびに笑顔がこぼれる。彼女の無邪気な笑い声は、静寂の中で響き渡り、まるで周りの景色さえも楽しげに揺らしているかのようだ。

 道沿いの街灯が灯り始め、橙色の光が足元を照らし、三人の影が並んで伸びる。歩きながら交わす会話は、どこか心が温かくなる。

 約一時間ほどの道のりを経て、やっと電車の駅に辿り着いた。満員電車を避けるためのこの作戦が功を奏し、二番線東京行きのホームは比較的空いていた。

 幸運にも、座ることさえできる。窓の外を眺めると、流れる景色が一瞬のうちに変わり、心地よい揺れが身体を包み込んでいく。早起きした疲れも手伝って、気が付くと微睡んでしまった。

 武蔵小金井駅で、結月と柊にやさしく起こされた。まるで夢の中から現実へ引き戻されるような感覚で、ふわっとした気持ちを抱えたまま二人と別れた。

 ホームから改札に向かう道すがら、足元がふらっとし、身体の重さを感じる。今日は早く寝ようと心に決め、頬を軽く叩いて目を大きく開け、改札を通り抜けた。

 改札を出ると、外の冷たい空気が頬を撫で、目を覚ます。

 街の明かりが一つ一つ点灯し始め、まるで星々が地上に降りてきたかのようだ。家路を急ぐ人々の中で、私はその温もりを胸に抱きながら歩き出す。

 今日の出来事が、心の中に静かな波紋を広げていくように感じられた。この瞬間、音楽とともに過ごした時間が、私の心を豊かにしてくれているのだと実感し、あの気持ちが緩和されていった。

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