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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
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運命

 太陽がまだ沈み切らない黄昏時、聖青高校の校舎には長く伸びた影が淡く広がり始めていた。本棟と比べて新しい新校舎、その最上階にある音楽室は、学校の喧騒から隔てられたように静かだった。

 新校舎の五階の一番奥、そこに音楽室が設置されているのは、音が漏れても他の授業に影響しないようにという配慮からだろう。

 階段を一段一段登るたびに、ヴァイオリンやホルンの澄んだ音色が少しずつ鮮明に耳に届いてくる。


「この曲、チャイコフスキーだね」


 柊が思い出したように小さく声を漏らす。柔らかな夕陽に照らされた彼の瞳が、少しだけ興奮して輝いているのがわかる。


「本当だ。交響曲第五番、第二楽章だよ」


 私はすぐに反応した。チャイコフスキーが大好きで、その情感豊かなメロディを聞き分けることができる。音楽室から溢れるホルンの甘美で繊細なメロディが、春の夕暮れに溶け込むように空間を満たしていた。


「ホルンってかっこいいよね、すごく壮大な音でさ」


 柊の目がさらに輝きを増していく。その純粋な反応に、私は微笑む。


「柊くんはどんな曲が好きなの? なんか、クラシックが好きそうだよね」


 私は、柊が音に感動する姿を見ながら、ふとそう尋ねた。彼の情熱が伝わってきたのか、自然と問いかけるように口を開いていた。


「僕? そうだなぁ、ロココが好きだよ」


「ロココ? チェロの音がたまらないよね」


 結月は彼に賛同するように頷くと、軽く柊の腕を小突いた。その自然な仕草が、ふたりの間に親密な空気を漂わせる。そのやり取りを見て、微笑みを浮かべた。


「ねぇ、二人って本当に仲がいいよね。付き合ってるの?」


 ふと、思わず口にしてしまった。結月と柊とは、ほとんど今日が初対面のようなものだったが、その様子が気になってしまったのだ。もしかして、恋人同士なのではと。

 だが、二人は顔を見合わせて同時に笑った。


「何言ってんの、付き合ってないよ! 幼馴染なだけ」


 柊が笑いながらそう言う。

 私は少しだけ呆気に取られたような気持ちになった。そして、幼馴染という絆、その特別さが少し羨ましいと感じていた。

 五階にたどり着くと、音楽室は廊下の奥、四十メートルほど先にあった。だが、その手前で二十人ほどの生徒が集まっていた。ほとんどが女子生徒で、その様子に柊が首をかしげる。


「何であんなに集まってるんだろう?」


 結月は朝、クラスの女子たちが「オーケストラ部にはイケメンがいる」という噂話をしていたことを思い出し、それを伝えた。柊は納得したように肩をすくめた。


「イケメンイケメンって、女子は本当に面食いだよなぁ」


 彼が呆れたように笑うのを見て、思わず微笑んでしまった。柊だって十分イケメンの部類に入るのに、そんなことを気にしない彼の態度が、なんだか可愛らしい。

 音楽室の前に着くと、ほとんどが一年生の女子たちで、どうやら入部体験をしに来たらしい。そして、みんなが口々に「蒼太先輩」と呼んでいた。その名前に結月は興味を引かれ、教室の中を覗き込んだ。

 すると、そこにはまるで彫刻のように美しい男子生徒がいた。ヴァイオリンを弾くその姿は、周囲の歓声にも動じることなく、ただ譜面に集中していた。


「かっこいい・・・・・・」


 思わず、その言葉を呟いた。彼の姿はまさに非の打ち所がなく、その背筋を伸ばした優雅な演奏姿は、どこか別の世界から現れた王子様のようだった。運命の出会いとはこういうことを言うのだろうか。

 そんな彼に対して周りの女子たちが一斉に歓声を上げたのは、当然のことだろう。

 彼が顔をこちらに向け、微笑んだ瞬間、その場がさらに熱狂に包まれた。美しい二重まぶたで大きな目、小さな顔。

 再び譜面に目を落とす彼に見惚れていると、もう一人、背の高い男子生徒が音楽室に現れた。彼もまた非の打ち所がないほど整った顔立ちをしており、先ほどの男子生徒とはまた違った魅力を放っていた。彼が現れると、女子たちはさらに興奮し、声を上げ始めた。


「君たち、みんな体験で来たの?」


 その男子が優しい声で問いかけると、女子たちは一斉に頷いた。結月と柊もその流れに従って、音楽室に入った。

 夕暮れの光が窓から差し込み、部屋の中は暖かい空気に包まれていた。ヴァイオリンとホルン、フルートやトランペットの音色が、空間に溶け合って美しい旋律を生み出している。


「あの人、超かっこいいよね」


 結月が耳元で小さく囁いた。その言葉に、私は誰のことを指しているのかわからなかった。


「誰のこと?」


 私が首をかしげると、結月は顔を赤くしながら、さっき案内してくれた男子のことだと言った。


「さっきの人、超かっこいいよね。ヴァイオリン弾いてる人もすごくかっこいい」


 そう言うと、私は大きく頷いた。


「あの人が、この学校で一番イケメンだって! さっき誰かが言ってた」


 なるほど、と思った。確かに、彼らはアイドルのような存在であり、ファンクラブがあってもおかしくないほどの人気ぶりだ。

 だが、ヴァイオリンを弾く蒼太先輩は、そんな周囲の騒がしさにも動じることなく、ただ自分の世界に集中しているように見える。その姿には、圧倒的なオーラがあった。彼が演奏を終えると、もう一人の男子が手を叩いた。


「今日はみんな来てくれてありがとう。僕は、二年生の青山瑠夏って言います。好きなように呼んでください」


 彼が自己紹介をすると、女子たちは歓声を上げ、アイドルのファンのように彼の名前を呼んだ。「瑠夏先輩」や「瑠夏様」と次々に口々に名前を呼ぶ姿に、結月は思わず笑ってしまった。瑠夏先輩は照れながらも、オーケストラ部の説明を始めた。


「じゃあ、次は部長から一言もらおうか」


 瑠夏先輩がそう言うと、ヴァイオリンを弾いていた蒼太先輩が立ち上がった。彼は瑠夏先輩よりも少し背が高く、二人が並ぶとまるでアイドルの舞台挨拶のような光景だった。


「こんにちは。みんな来てくれてありがとう。僕は、二年生の鈴木蒼太、オーケストラ部の部長です。よろしくね」


 その一言に、女子たちはさらに歓声を上げ、蒼太先輩に質問を次々と投げかけた。彼女は周囲の熱気に圧倒されつつも、その存在感に強く惹かれている自分に気づいていた。


 まさかこの人が部長だったとは。ポカンと口を開けていると、周りの女子が手を挙げ始めた。

 蒼太が質問を募集したからだ。


「はい! 蒼太先輩は彼女いますか?」

「身長何センチですか?」

「誕生日はいつですか?」

「三年生はいないんですか?」


 ありきたりの質問をしている女子たちだが、最後の質問だけ瑠夏が丁寧に答えた。


「蒼太は、ヴァイオリンが上手すぎて、顧問から部長になってほしいって言われたんだよ。三年生はまだ来てないけど、十人くらいいるよ」


 そんなに上手いのだろうか。幼い頃からヴァイオリンを弾いていたのか気になる。私も小学生から始め、習い事の先生に、すごく上手だなと褒められたり、コンクールで金賞を取ったことがある。彼の実力がどれほどか、興味が湧いた。


「ちょっと弾いてみてください!」


 周りの女子たちがその一言を皮切りに拍手をし、蒼太を弾くように促し始める。


「じゃあちょっとだけね」


 蒼太の顔が赤くなる。


 蒼太がヴァイオリンを構えた瞬間、教室の空気が変わった。彼の姿はまるで彫刻のように完璧で、静かな緊張感が漂う。隣で瑠夏がピアノの前に座り、指を鍵盤に置く。その長い指は、まるで音楽を紡ぐために存在するかのように、白く細くそして美しかった。

 蒼太が弓を引き、中世の花畑を彷彿とさせる深みのある音が教室に響き渡る。その瞬間、瑠夏の手がピアノの鍵盤を優雅に駆け巡り、二人の音が美しく溶け合った。

 優しく甘い旋律はゆっくりと音量を増し、聴く者の心を揺さぶるような迫力で流れていく。音楽室は、二人の演奏によって一瞬にして異空間のような感覚に包まれ、その音の波にただ身を委ねるしかなかった。


「わー。モーツァルトだ」


 柊は感動した様子で口元に手を寄せ、じっと演奏に聴き入っていた。

 モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》だ。

 その姿を横目で見ながら、私もまた、二人の演奏にすっかり心を奪われていた。

 激しくも美しい旋律が、音楽室に満ちて私の感覚を包み込む。視覚と聴覚のすべてがその音色に釘付けとなり、ただ黙って見つめることしかできなかった。

 蒼太先輩のヴァイオリンの響き、瑠夏先輩の力強くも繊細なピアノの伴奏が、夕暮れの光と混ざり合い、一瞬だけ時間が止まったように感じた。

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