雨の隙間
練習が始まって、気づけば二時間ほどが経っていた。大山先生が音楽室に現れ、静かにその存在感を放つと、部屋の温度さえ変わったように感じられた。
「今日はこの辺で終わりましょうか。どうやらゲリラ豪雨が来るかもしれませんから、濡れないうちに帰りましょう」
先生の柔らかい言葉に皆が一斉に動き出す。六月の空は移ろいやすく、つい先ほどまでは穏やかな陽光が薄く差し込み、教室には影が映っていた。
けれど、今は厚い雲に覆われ、空がまるで水墨画のように重く沈んでいる。
生徒たちは、先生の声に促されて片付けを始める。部活が途中で終わったことへの小さな喜びが混じった笑い声が聞こえる一方で、「傘を持ってきてない・・・・・・」と誰かがつぶやき、それに共感するようにため息が続く。
「僕、傘持っててよかったー」
柊が折りたたみ傘をカバンから取り出し、軽く見せびらかすように言った。その姿に私と結月は笑みを浮かべる。
結局、二人とも傘を持ってきていなかったのだ。
雷鳴が遠くから響き、思わず歩調を速める。ピカッと一瞬の光が空を切り裂き、数秒後には重々しい音が追いかけてくる。
中学の理科で習った知識がふと頭をよぎり、音速が三百四十メートルとすれば、今の距離は三キロほどか。雷雨が私たちに近づいている、そんな実感が胸の奥でひそかに高まる。
駅にたどり着くころには、小雨が肩に冷たく降りかかっていた。雨粒はまるで先触れの合図のように、一層の急ぎ足を促してくる。走ったせいで息が少し上がり、ふと横を見ると、柊は平然としていた。男の子の体力には敵わないと、内心で苦笑する。
「よかったー。もう少しでびしょ濡れになるところだった」
私が思わず声を漏らすと、結月も同意するように微笑み、うなずいた。
改札を抜けてホームに出ると、そこには同じように雨宿りする人たちで賑わい、電車を待つ静かな喧騒が広がっていた。
人々のざわめきに包まれながら、数分後に到着する快速東京行きの電車を待つ。結月と柊は、その次の特別快速に乗るのでここで別れる。
車両に乗り込むと、初めは空いていた座席も、次第に人が増えていき、瞬く間に満員となった。
なんとか座席を確保し、足の疲れを覚えると同時に、身体に一日の疲れがじわりと染み込み始める。安堵に包まれた私は、微睡みの中に落ちていった。ふと目を覚ますと、モニターには三鷹駅と表示されている。
ああ、しまった。寝過ごしてしまった。
がっくりと肩を落とし、仕方なく三鷹で降りることにした。
下りの電車を待っている間も、雨は降りしきっていた。
駅の外は、すでに激しい雨に見舞われていた。低く垂れこめた雲が暗闇を厚くし、季節外れの冷たい風が吹き抜ける。
梅雨の湿気と肌寒さが入り混じる中、ホームで待機している人々も、息を潜めるように身を縮めている。雨宿りする群れの中に身を寄せ、私も空が晴れるのを待っているが、空の機嫌は一向に良くならない。
やがて、ポケットから本を取り出し、ページをめくる。雨の音が穏やかな伴奏のように感じられ、私はその音に包まれながら、物語の世界に身を沈めた。だが、時間が過ぎるほどに雨脚はさらに強まり、雷鳴が轟くたびに空気が震える。
風も加わり、雨の勢いは衰えるどころか、いよいよ激しさを増していく。
本を濡らしたくないとカバンにしまい、空を仰いで、早くやんでくれないかと祈る気持ちが膨らむ。そんな中、肩を軽く叩かれ、振り返るとそこには蒼太が立っていた。
「何してんの?」
「え、あ、いや。傘がなくて・・・・・・」
気恥ずかしさに、私は言葉を詰まらせる。すると、蒼太は微笑みを浮かべながら「じゃあ、一緒に入る?」と、傘を私の方に差し出してくれた。彼の傘は大きく、二人が入っても余裕がありそうだが。
「え、でも・・・・・・」
ためらう私に、彼は優しく言った。「風邪ひくよ、寒いでしょ?」と。
そう言いながら腕を軽く引かれ、気がつけば私は彼の傘の下にいた。
相合い傘なんて、初めての体験だった。周りの視線が少し気になるものの、それ以上に蒼太の隣で歩ける喜びが、心に広がっていく。
雨音が少し遠くに感じられ、二人の世界に引き込まれるような錯覚さえ覚える。
「寒くない?」と、蒼太は再び気遣ってくれた。
「うん、大丈夫」と答えながら、彼の優しさが胸に染み渡る。私たちはゆっくりと歩き続け、どこかで時間が止まってほしいと思ってしまう。
この瞬間の心地よさが、いつまでも続いてくれたらいいのに。
彼の香りがふと漂ってきて、柔らかな甘い香りに包まれる。どこか花畑のような清々しさが混ざり合い、息をするたびに心がふわりと浮かぶような感覚があった。この香りを嗅ぐたびに、きっと今日のことを思い出すに違いない。
やがて、私の家の前に着くと、蒼太は静かに傘を閉じ、微笑んで「じゃあ、またね」と言った。その言葉にうなずきながら、彼の背中を見送る。
制服から漂っていた甘い香りが、まだ私の中に残っているようで、雨上がりの空気と相まって、心の中に小さな温もりを灯していた。
彼が去っていく背中を見送った後も、私はしばらくその場に佇んでいた。彼と分かれた寂しさが、雨の冷たさとともにじわじわと染み込んでいく。




