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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第2章 憂鬱なセレナード
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密やかな音色

 あの日の練習が終わり、数日が過ぎていった。

 私は結月にどう声をかけようかと悩みながら片付けをしていた。指先は自然と楽器に触れているものの、心は別のところにある。棚に戻すヴァイオリンの弓をしっかり握り、そっと息を吐くたびに、ささやかな想いが浮かんでは消える。

 そんな迷いの中、ふいに結月と柊の声が耳に届いた。遠くからかすかに聞こえるそのやりとりは、穏やかで、まるで川のせせらぎのように心地よく、いつもと変わらないように思えた。

 棚へと手を伸ばして弓をしまおうと立ち上がった瞬間、ふいに結月がこちらに歩み寄ってきた。少し汗を浮かべた額と、澄んだ瞳がこちらを見つめている。

 気づいた私が顔を向けると、彼女は一瞬視線を逸らしたが、ふと、勇気を出したように声をかけてきた。その声はまるで朝露に触れる風のようにかすかで、だけれども、真っ直ぐで揺らぎのないものだった。心の中にそっと沁み入る彼女の声に、私の胸はひそやかな温もりで満たされ、何を返そうかとまた戸惑ってしまう。

 けれども、その一瞬のためらいさえも、彼女とこうして向き合う今だけの時間だと思うと、胸の奥に淡く灯る思いが不思議と心を和ませてくれる気がした。


「香恋ちゃん、今日も柊と先に帰ってて」


「あ、うん・・・・・・」


「じゃあ、また明日」


 その後、私は柊と共に校門を出た。空は茜色に染まり始め、日はゆるやかに地平線へと沈みつつある。六月の夕暮れは柔らかな光に包まれ、辺りには薄い霧のような湿気が漂い、肌にじんわりと張りついてくる。遠くで鳥の声が聞こえ、微かに揺れる木々の葉が、そよそよと語りかけるようだった。

 柊は何も言わずに歩いているが、その横顔はどこか安らかで、まるでこの季節の移ろいを感じているかのように見えた。私もまた、何を話すわけでもなく、ただこの穏やかな時間を共有することが心地よかった。道端には青々とした草花が茂り、その隙間から見え隠れする小さな命の気配が、夕闇に包まれゆく景色に彩りを添えている。

 六月の空気は、まるで私たちの間に漂う心のように、湿り気を帯びながらも静かに満ちていた。


「大丈夫だよ。結月は打たれ強いから」


 柊は、突然話し始めた。沈黙に耐えかねたのか、それとも私と何か話したいことがあったのか、表情からは読み取れないが、どこかぎこちない雰囲気だった。


「うん・・・・・・」


 私は心の奥で、ただこの三人で一緒に音を奏でたいと願っていた。結月が欠けるなんてことは想像もしたくなかった。だから、柊が真剣な眼差しで伝えてきた言葉に、私は静かに頷くしかなかった。彼も同じ想いを抱いているのだろう。いつも淡々とした彼が見せた、その少しの揺らぎに、私の胸にもまた熱いものがこみ上げてきた。

 結月は最近、部活が終わってからも放課後にも、一人でオーボエの練習に励んでいる。必死に指を動かし、息を整え、何度も同じフレーズを繰り返す彼女の姿を、私は何度も見かけた。音が揺れたり途切れたりするたびに、結月の眉が少しだけ寄せられる。

 けれども、彼女は決して諦めない。ひたむきなその背中には、気高さが漂っていて、見守るたびに胸が高鳴る。

 瑠夏先輩も、結月の努力をちゃんと認めていると聞いた。先輩があの穏やかな声で「最近の結月、良い音を出すようになったね」とぽつりと漏らしたとき、その言葉がどれほど彼女の励みになっただろうか。彼女の表情に一瞬浮かんだ誇らしさを、私は見逃さなかった。

 彼女がオーボエに向かうたびに生まれる音は、どこか彼女だけの色を持っている。凛とした響きが部屋に広がると、その瞬間だけ世界が静まり返り、全てが彼女のために存在しているように感じられる。私はその音に心を寄せ、彼女の背中をそっと押してあげたいと思う。彼女が心から音楽を楽しみ、迷わずにその道を進めるように。

 そんな思いが、静かに私の中に灯っているのを感じていた。

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