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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
20/27

想いにふれる音

 日々はさらさらと流れ、気づけば小満も過ぎていた。空気は湿り気を増し、陽射しがひたひたと強さを帯び始め、どこか無邪気さを失くした夏の気配を少しだけ感じさせる。蒼太が指を滑らせるヴァイオリンの音も、朝露をまとったような透明さから、じわじわと熱をはらんでいるように思えた。

 部活動は決して順調とはいかなかった。佐伯たちは、蒼太に目をつけ、練習ごとにさりげなく距離を詰めようとしつつも、なかなか諦めない。彼の肩越しにちらりと見える姿が、私の胸にかすかな嫉妬を灯す。

 結月は少し違った。オーボエは難しい楽器で、音色を安定させるだけでもかなりの時間がかかるという。結月は汗を拭き、眉を寄せながらも練習を続けていたが、その表情は決して折れそうには見えなかった。彼女がオーボエを吹くたびに、彼女だけの音がホールに響く。深く、静かに。

 それが周囲の騒がしさと対比され、彼女だけがそこにぽつんと佇んでいるかのように見えた。時折、結月が音を外してしまうと、先輩が少し笑いながら、優しくアドバイスをするのを耳にしたこともある。

 六月に近づくにつれ、練習はさらに厳しさを増していく。毎日の練習が終わるころには、教室の窓に薄い夕焼けが広がり、残る音符たちが赤く染まった空に吸い込まれるように消えていくのがわかる。そんな日々の中で、私たちは来週、文化ホールで行われるリハーサルの準備に入っていた。全員で演奏するその瞬間が、どれだけ私にとって大切かを噛み締めて、息を合わせることの難しさと心地よさを知る。

 大山先生は、リハーサルを見てから、私たちが本番に出演できるかどうかを判断するという。その日までに、どれだけ自分の気持ちを音に乗せられるかが勝負だった。練習を重ねるたびに、みんなが放つ音色がますます力強くなり、まるで小さなオーケストラの中心にいるように感じる。

 結月もまた、苦戦しながらも少しずつ成長を見せていた。蒼太に見守られながら吹く彼女の音は、どこか柔らかくなっていくようで、私はその変化に微かな嫉妬を感じながらも、心の奥では応援している自分がいることに気がついた。

 そして、私はふと、蒼太が小さな微笑みを浮かべる瞬間に、胸がきゅっと締めつけられるのを感じた。それは彼が練習を楽しんでいるからなのか、あるいは、もっと別の何かが彼の中にあるからなのか、私にはわからない。ただ、その笑顔を見て、彼の隣にいたいと願う自分に気づいてしまう。

 重なり合う音が一瞬の夢のように空間に漂い、次の瞬間には消えていく。きっと、この音楽も、今だけのものだと知りながらも、私は心から音に身を任せていた。そのリハーサルに向けての練習が終わるたび、私たちはまた、少しずつ自分たちの音楽に近づいていく気がする。

 やがて訪れるリハーサルの日、その瞬間にどんな音楽が生まれるのか、どんな気持ちが舞い上がるのか。誰にもわからないけれど、その一瞬を目指して、今はただ全力で音を紡ぐことだけに、私は身を焦がすように集中していた。


「リハ、緊張するね」


「もう一週間しかないね」


 結月が柊にそっと話しかける。その声には緊張と少しの不安が混ざっているように感じた。二人にとっては、この曲を演奏するのは初めての経験なのだろう。私も完璧とは言えないが、何度かの練習で人並みに弾けるようになり、蒼太からもさりげなく褒められた。

 それでも、これまでとは異なる大きな会場での演奏となると、どうしても胸がざわつく。足元から静かに湧き上がる緊張は、決して無視できるものではなかった。

 そして今日は、ついに先生の評価が下される日。全員で一通り演奏し、先生がじっと見守る。ひとつひとつの音が、会場の空気を震わせるたびに、先生の視線が鋭く私たちを貫いているのがわかる。その表情に、私たちの未来がかかっているのだと感じると、演奏する指先にも、少し力が入ってしまう。

 もしここで評価が足りなければ、出演は叶わないかもしれない。誰もがその不安を抱えながらも、懸命に音を紡ぎ出す。


「では、ヴルタヴァからやってもらおうか」


 瑠夏先輩が静かに指揮棒を掲げると、空気が引き締まり、一斉に私たちは構えた。フルートとクラリネットが軽やかな旋律を奏で、弦楽器がピチカートでそれを支える。音が重なり合い、徐々に流れが生まれていく。

 やがてテンポが速まり、私は次第に曲のリズムに引き込まれ、心が躍り始めた。特に、この「農民の婚礼」の場面は、ヴルタヴァの親しみやすいメロディの一つであり、私のお気に入りだ。

 そして「聖ヨハネの急流」へと進む。ここでは、弦、木管、金管、打楽器が荒々しくぶつかり合い、激流の様子を生き生きと描き出す。最高潮に達したかと思うと、ふいに静寂が訪れ、長調へと移行してヴルタヴァの旋律が再び奏でられる。

 まるで、プラハの街にたどり着いたかのような壮大な景色が広がる。

 シンバルも華やかさを添え、音楽はゆったりと落ち着きを取り戻し、二つの終止符とともに終わりを告げた。その瞬間、私はやり切ったと心から思えた。全員が無事に演奏を終えた安心感が、私の胸にじんわりと広がった。


 大山先生がゆっくりと立ち上がり、メモを取り出して話し出した。


「えーと。まずは素晴らしい演奏をありがとう。一年生もまさかここまでとは思わなかったよ」


 一同は、緊張から解放されたように顔を綻ばせている。


「ただ、まだまだ練習が必要な人もいる。例えば、ファゴットの大谷さん。ファゴットだけが音を出すところ、もう少し情景を想像して音を出してごらんなさい」


 ファゴットの大谷さんは、小さく返事をし、俯いた。ここで指摘されたということは、出演不可のリーチである。


「それから、ヴァイオリンだがね」


 私はドキッとした。呼ばれてしまうと思い、手に汗をかいた。


「えーと、森田さんと広瀬さん。ピチカートの音が少し陳腐に聴こえる。川が生まれる場所、源流の軽やかで水々しさを意識して表現してください」


 森田と広瀬があれほど上達していたことに、私は心から驚かされた。そして、佐伯が一度も注意を受けることなくやり切ったことには、素直に賞賛を送りたい気持ちでいっぱいだった。振り返って佐伯の顔を見た瞬間、その目が赤く潤んでいることに気づいた。

 喜びがこみ上げ、今にも涙があふれ出しそうだ。彼女らにとって、この瞬間がどれだけ特別なものだったかが伝わってきて、私の胸も温かくなった。


「えー、それからオーボエの豊中さん、藤田さん」


 佐伯の様子を見て、私の気分も悪くはなかった。だが、次の先生の言葉が耳に入ると、背筋がさっと固まるのを感じた。結月が指摘されてしまったのだ。


「月明かりと水の精なんだけども、ここはこの曲の中では幻想的なシーンです。他の場面は、川の流れの堂々とした表現は素晴らしかったんだけども、このはもっと幻想的で透き通るような音をお願いしたい」


 結月は隣の藤田さんと何か小声で話し合っているようだった。私は一瞬だけその様子を見て、すぐに視線を戻した。背中を向けたまま、その後ろ姿だけがやけに頭に残る。


「以上です。先ほど名前を呼ばれた人は、部活動終了後に残ってください」


 大山先生はそう言って、隣の控え室に引き返した。


「えーと、じゃあフィンランディアもやるんだけど、これまた別の日に評価してもらうことになってるから、今日は、気楽にやろう」


 瑠夏先輩が先生に代わって言った。

 

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