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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
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花の街

 温かな春の朝、空気はどこか柔らかく、世界全体が微睡んでいるかのようだった。窓の外から差し込む光は、薄く広がったカーテン越しに部屋を優しく包み込み、まるでこの一瞬を永遠に留めようとするかのように、静かに揺れている。

 ベッドの上、私は眠りの中で夢を漂っていた。優しく囀る小鳥たちの声が、遠くからかれん、かれんと彼女を呼んでいる気がした。

 無機質な目覚まし時計の音すらも、まるで自然の一部のように耳に溶け込み、もう少し夢の中にいたいという誘惑にかられる。

 しかし、夢見心地の世界に引き戻されるように、現実の声が聞こえてきた。布団の中でぼんやりと目を開け、部屋の向こうから母親の声が響く。


「香恋、早く起きなさい!」


 その声に突き動かされるように、布団を跳ね除け、身体を起こした。顔にはまだ眠りの残り香が漂っている。

 ふと思い出すのは、中学の授業で習った孟浩然の《春暁》だ。


『春眠暁を覚えず』


 その詩句が今になって、心に染み入る。まさに今の自分にぴったりだと苦笑しながらも、遠くから再び母の声が聞こえる。


「何してるの! 遅刻するわよ!」


 声に反応して飛び起き、急いで階段を駆け降りる。足音が木の床に響き、家全体に少し慌ただしさを運んでくる。外ではウグイスの鋭い声が、春の訪れを高らかに告げていた。

 数日前、桜の開花が報じられたばかりで、日本中がその喜びを分かち合っている。

 冬の寒さを乗り越え、長い眠りから目覚めた生き物たちが、啓蟄を境に活動を再開している。

 人々もまた、そんな自然の息吹に誘われるように、新しい生活を始めようとしていた。

 一階に降りると、母がキッチンで朝食を用意していた。テーブルの上には、香ばしく焼かれたベーコン、目玉焼き、レタスのサラダ、そして赤く輝く苺が並んでいる。

 その光景に少し気が緩んだのか、慌ただしくフォークを手に取り、急いで朝食を口に運んだ。それが災いし、突然むせ返り、涙が溢れた。


「ゆっくり食べなさいよ」と、母が静かに呆れた声を出す。


「はーい」と返事をしつつ、時計に目をやる。


「今、何時?」そう問いかけると、母は淡々と答えた。


「六時四十分よ」


「え? まだ七時にもなってないの?」香恋は思わず肩を落とした。


 思っていたよりも時間があり、少し早すぎると感じた。


「まだ時間あるじゃん」と呟くように言うと、母はすかさず応じた。


「あるけど、あんた全然起きないでしょ。入学式の次の日からいきなり遅刻したらどうするのよ。昨日も遅刻しかけてたのに」


 確かに昨日も危うく遅刻しそうだった。それを思い出し、言い返す言葉が見つからず、ただ黙り込む。

 しかし、少し早く起きたことで、余裕を持って準備ができるのは悪くない。伸びをしながら、鞄の中に教科書やノートを詰め込む。


「お弁当はキッチンに置いてあるからね」と、リビングでテレビを見ながら母が高い声で伝える。


「はーい」と返事をしつつ、リュックにお弁当を入れる。


 朝の支度が順調に進んでいることに満足しながら、香恋は玄関へ向かう。

 ドアを開けると、外の空気が顔を撫でた。そこには春の暖かな風が心地よく流れ、生き物たちが一斉に目覚め、新しい季節の始まりを祝福しているようだった。

 風に揺れる木々のざわめきが、優しい囁きのように響き渡る。そんな春の光景に心を癒されながら、歩き始める。入学してからまだ一日しか経っていないが、これから始まる高校生活が、どんな風に展開していくのか、その期待と少しの不安が胸を満たしていた。

 聖青高校の校門に向かう道は、桜並木が続いている。花びらが舞い落ちる様子は、まるで絵のように美しい。

 足を止め、しばらくその光景に見惚れていた。風が吹くたびに桜の花びらがふわりと舞い、空気中に淡いピンクのカーテンを作り上げる。その一瞬一瞬が、まるで永遠に続くかのように感じられた。

 

 中央線に乗り込む。この時間は本当に人が多い。早くグリーン車を導入してほしいとさえ思う。そうすれば多少の混雑が緩和するだろう。

 イヤホンをつけ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を流す。父の影響で、小さい頃からオーケストラを聴く。父はチャイコフスキーが好きで、私もチャイコフスキーのすぐに人の心を掴むメロディが気に入っている。

 だが、今日はメンデルスゾーンの気分だ。

 哀愁の漂う旋律は今の状況には似合わないが、それでもストレスの発散にはなる。

 ゆっくりと進む電車の揺れが心地よい。

 すると突然、急停車するというアナウンスが流れ、大きく体が揺さぶられた。人身事故だ。


(せっかく余裕ができたのに・・・・・・一本早かったらな)


 ヴァイオリン協奏曲のメロディだけが先へ進み、ため息をつきながら電車が動くのを待った。


 外の春の訪れは、新しい出会いとともに、心に小さな変化をもたらす。何気ない日常が、やがて特別な時間へと変わっていくことを、まだ誰も気づいていない。

 ただ、その穏やかな始まりが、明日へ向けた確かな一歩であることだけは確かだった。

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