揺れる心音
五月の空は、少しずつ長くなっていく陽の光を湛え、春の終わりを告げるように輝いている。入学式からもう一ヶ月が過ぎたのかと、時間の流れの速さに驚くばかりだ。部活動に入ることを決めてから、わずか一日しか経っていないが、昨日のことのようには感じられない。
それでも、夕方には三人で顧問を訪ね、部活動の第一歩を踏み出していた。
今日の夕方、空はまだ少し明るく、先週まではもうすっかり日が暮れていた時間なのに、今日は空に柔らかな光が残っている。薄暮の光が校舎の窓を優しく照らし、どこか温かな静けさが広がる。校舎の一角にある顧問の部屋の扉をノックすると、中から応じたのは大山貴道先生だった。
大山先生は白髪だが、しっかりとした毛並みが印象的で、まるで近所のおじいちゃんのような親しみやすさを感じさせる。その優しげな顔立ちと柔らかい話し方に、初めての緊張も少しずつ溶けていった。ジュースまで奢ってくれるという気さくさも、親しみを感じる一因だ。
先生の表情には温和さが漂っているが、メガネの奥の目には音楽に対する情熱がちらりと見え隠れしていた。どこか燃え続けるものがその奥底にあり、ただの優しい顧問ではないことがわかる。私はこの先生の下で学べることに、心の中で密かに感謝した。
話を聞いてみると、大山先生はウィーンとベルリンで音楽を学び、ザルツブルクでは二十年以上も指揮者を務めていたという。世界的な音楽都市で活躍していた先生が、こんな日本の高校にいることは驚きだった。そんな経歴を持つ彼が、この学校で私たちに音楽を教えてくれるとは、まるで夢のように思えた。これから始まる部活動の道のりが、ただならぬものになる予感が胸の中に静かに広がっていく。
「君たち、クラシックが好きなのかな?」
優しげな表情の奥に、どこか張り詰めた緊張感を帯びた声で質問された瞬間、私たちは一瞬息を飲んだ。まるで、何か見えない壁が立ちはだかったかのような圧迫感を感じたのだ。しかし、その直後、先生は柔らかく微笑んでみせた。その笑顔に、私たちのこわばった心もすっと解け、その場に漂っていた重苦しい雰囲気も一瞬で消え去った。
張り詰めた空気は和らぎ、先ほどまで感じていた緊張が嘘のように消えていったのだった。
「はい! 僕たち大好きです!」
柊が元気よく答えたのに続いて、私たちも大きく頷いた。先生は優しい笑顔を浮かべ、「それは良かった」と一言。
どうやら、クラシック音楽が好きでもなく、ただ蒼太や瑠夏先輩と親しくなりたいがために入部する生徒が少なくないらしい。その結果、練習についていけずに辞めてしまう人も多いとのことだ。先生はその処理に追われ、退部届を出す生徒たちの対応が日常業務に影響を及ぼしていると嘆いていた。
その話を聞いて、真っ先に頭に浮かんだのは佐伯優花の顔だった。彼女の自信満々の態度と、その後の投げやりな行動が思い出される。思わず苦笑しながら、その姿を頭の中から追い出す。
そんな中、私たちの入部届が無事に受理され、正式に楽団のメンバーとして迎えられることになった。音楽室に戻ると、先輩たちから温かい祝福と歓迎の声が響き渡り、私たちはすぐにその場の雰囲気に包まれた。
先輩たちからの声援を受け、私たちは自然と手を取り合って喜びを分かち合う。結月は照れくさそうに耳まで赤く染めて、恥ずかしそうに微笑む。それを見た柊がすかさず揶揄うような視線を投げかけ、結月の反応に二人の間で小さな笑いが生まれる。
そんな微笑ましいやり取りを見ていると、私も自然と笑顔がこぼれた。今日はこれまでの不安や緊張が嘘のように感じられ、心が軽くなった気がする。先輩たちや仲間と過ごすこれからの日々が楽しみで仕方がなかった。
「え、ちょっと二人付き合ってるのー?」
立花先輩が柊と結月の様子を見て、軽く冷やかした。「二人、仲いいじゃん!」と言われた瞬間、二人は慌てて「違います!」と声を揃えた。
顔を真っ赤にして否定する二人の様子が面白く、周りはクスクスと笑い出した。必死に話題を逸らそうとする柊の姿に、さらにからかう声が飛び交うが、何とかその場は和やかに流れた。
その間にも、続々と一年生が入部届を出しては受理され、音楽室には新入部員たちが次々に集まってきた。皆、それぞれの楽器を携え、これからの練習に胸を膨らませた表情で席に着く。音楽室は一気に活気づき、緊張と期待が入り混じった独特の雰囲気が漂っていた。
そんな中、最後に入ってきたのは佐伯優花、森田、そして広瀬の三人だった。佐伯は相変わらず堂々とした歩き方で、音楽室に入るなり視線を集めていた。森田は、まるで佐伯のSPのようにそのすぐ後ろを一歩も遅れずについて歩き、彼女の周りを守るかのように見守っている。広瀬も同じく佐伯に付き従い、二人がかりで佐伯をサポートしている様子が、どこか異様な空気を漂わせていた。
佐伯はその二人を気にすることなく、堂々とした態度で音楽室の一角に腰を下ろす。他の一年生たちが少し引け目を感じるほどの存在感を放つ彼女に、音楽室の空気が一瞬だけピリッと引き締まったように感じられた。
全員が揃ったところで、瑠夏先輩が手を軽く叩いて一同を静めた。部員たちのざわめきが少しずつ収まり、先輩たちが新入部員に向けて何かを話し始めるタイミングを待っている。その瞬間、音楽室の空気が再び集中し、部員全員の視線が一斉に瑠夏先輩に集まった。
「はーい。じゃあ、みんな揃ったみたいだから、この部活の説明するね」
一年生だけで二十八名いるそうだ。かなり多いらしい。
「七月に定期演奏会があるんだけど、それまでに大山先生に認められたら出演できるから頑張ってね。曲は、知ってると思うけど、《ヴルタヴァ》と《フィンランディア》と、チャイコフスキーの交響曲第五番ね」
周りから「おおー」と言う声が出たのと同時に、後ろの方から「なにそれ? 知ってる?」と言う声が聞こえてきた。佐伯たちはらクラシックの知識は何も無いようだ。
「今日から練習始めるから、頑張ろうね」
瑠夏先輩は優しくも厳しい響きで一同に伝える。
「まずは、ヴルタヴァなんだけど、さっき顧問の先生たちと決めた楽器の基礎練習をするから、担当の先輩たちに従ってね」
瑠夏先輩の合図を受け、一年生たちは一斉に立ち上がり、先輩たちの手招きに応じて各パートへと向かっていく。私のパートはヴァイオリンだったので、自然と蒼太の方へ歩み寄ることになった。予想通り、佐伯、森田、広瀬も同じくヴァイオリン担当で、蒼太のそばに陣取る。彼女たちは、まるでその位置が自分たちのものであるかのように、固くその場所を守ろうとしているように見えた。
私はその光景に少しばかり苛立ちを覚えた。彼女たちが蒼太に寄り添う様子は、音楽に対する情熱よりも、彼に近づきたいという欲望に見えて仕方なかった。
しかし、そんな感情にかまけている余裕はない。私には目の前のヴァイオリンの譜面ヴルタヴァに集中しなければならない。七月の定期演奏会でしっかりと演奏したいという目標があったからこそ、佐伯たちのことは忘れ、私は他の一年生とともに練習に没頭することにした。
周囲には、初心者が奏でるヴァイオリンの雑音が響いていた。キーキーと高音が突き刺さるような音や、ギーギーと不協和音が混じる。そんな音に交じって、遠くからは佐伯たちの笑い声が聞こえてきた。彼女たちは、蒼太のそばにいることに満足しているようで、練習に対する真剣さはまったく感じられなかった。その無邪気な笑い声は、私の耳にはなんとなく空虚に響く。
その日の練習は、終始落ち着かないままだった。気持ちがすっきりしないまま校舎を出ると、結月と柊と一緒に三人でゆっくりと歩き出す。
夜の風はまだ春の名残を残していて、ほんのりと肌を撫でるように冷たかった。街灯の灯る道を歩きながら、駅前に近づくと、そこには多くの人が行き交い、カフェやレストランの店先には賑やかな光が漏れていた。活気に満ちた街の雰囲気は、私たちの練習後の疲れを少し和らげてくれるようだった。
エスカレーターで駅の二階に上がろうとしたその時、結月がふと耳元で小さく呟いた。その声は微かで、それでも私の心を少し揺さぶるものだった。
「ね、あれ優花ちゃんじゃない?」
結月の視線を辿ると、エスカレーター近くの柱の横で、佐伯たちが集まって何やら話し込んでいるのが見えた。彼女たちの姿に、特に興味を抱くことはなかったものの、何故か胸の奥がざわつくような感覚が残る。彼女たちが笑いながら何を話しているのか、知りたいとは思わない。
ただ、その光景が今の自分の気持ちに響くことはなく、むしろ軽い不快感が心をよぎった。
「先に駅ついてたんだね。もしかしたら出待ちかも?」
柊がいつものように笑いながらからかうように言葉を投げかけてきた。彼の軽口に、私はついちょっと睨み返してみせる。それを見た柊は、相変わらずニコニコとしたまま、まるで何も気にしていないかのように笑っている。
私も、気にしないようにしようと自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えながらその場を通り過ぎた。
けれど、その瞬間、後ろから佐伯たちの声が耳に飛び込んできた。
「蒼太先輩、もう来るってー」
その一言に心臓が跳ね上がるような感覚を覚えた。ドキリとし、無意識に立ち止まりそうになったのを堪えて歩き続けたが、その胸の奥に広がる重い感情はどうしても抑えきれない。
どうやら、彼女たちはすでに蒼太と連絡を取り合っているらしい。連絡先を交換しているのだと気づいた瞬間、なぜだか胸が痛んだ。心の中が急に曇って、重たい悲しみが押し寄せてくる。
私の足取りが少し鈍るのを察したのか、柊と結月がこちらを振り返る前に、私は慌てて顔を背けた。二人にこの表情を見られるわけにはいかない。見られたら、きっと何かを言われるに違いない。それは耐えられそうになかった。
心の中で早く電車が来てほしいと願った。普通でも、特別快速でも、何でもいいから、この場から早く離れたかった。
時間を進めてしまいたい気持ちでいっぱいだった。




