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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
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切なさに包まれた優しさ

「さっき、ありがとね」


 蒼太がヴァイオリンを丁寧に片づけながら、微笑んだ。その表情はいつも通り穏やかだが、どこか疲れたようにも見えた。佐伯は自分が使ったヴァイオリンを片づけもせずに、さっさと帰ってしまった。森田や広瀬も、出しただけで使わずに放置されたヴァイオリンをそのままにして、蒼太だけが静かに後片付けをしている。

 私は彼の姿を見て、黙っていられず、自分も片付けを手伝った。教室に響くのは、私たち二人が楽器をしまう音だけに感じた。気まずさはないけれど、彼の背中を見ていると、なんだか切なさが込み上げてくる。

 蒼太はいつもこうやって周りを支えているのだと感じながら、私はそっと彼に「大丈夫?」と声をかけた。


「大丈夫だよ。でもちょっとうるさいね」


 蒼太は笑いながら答えたが、その顔には少し呆れたような表情も浮かんでいた。静かで崇高なクラシック音楽とはかけ離れた騒がしい声は、音楽室にいたほとんどの人に不快感を与えていたようだ。立花先輩は瑠夏先輩に小声で相談し、どうやら彼らを出禁にするか、何かしらの対策を取ろうと話し合っている様子が聞こえてきた。私も心の中で少しホッとした。

 柊と結月の方を見ると、二人は先輩たちと楽しそうに話している。まるでさっきの騒ぎが嘘だったかのように、音楽室の雰囲気は再び穏やかで心地よいものに戻っていた。私も、その空気を感じながら少し気を落ち着ける。

 帰る準備を終え、三人で駅に向かうために音楽室を出た。今日は蒼太が瑠夏先輩たちと残って話し合いをするということで、一緒には帰れなかった。少し寂しさを感じたが、それよりも早く家に帰って、好きな曲を聴いてリラックスしたい気分が勝っていた。

 昼間の騒ぎで心が疲れてしまったのだろう。

 外に出ると、急に暖かくなった今日の気候を感じた。道を歩く人々はみんな半袖で、すっかり夏の装いだ。私は、まだ寒いかもしれないと思って長袖を選んだことを後悔する。風が少し肌にまとわりつくようで、歩くのが少し億劫だ。

「やっぱり長袖は失敗だったな」と思いながら、隣を見ると、柊が半袖のシャツをズボンから出して、まるで不良少年のような格好をしている。それを見た結月が声を上げて笑い、私もつられて笑ってしまった。少し疲れた心も、その笑い声で軽くなる気がする。

 こうして三人でいつもの道を歩きながら、穏やかな夕方の空気に包まれて帰る。今日は色々あったけれど、結局は仲間と一緒にいられることが一番の救いなのだと感じながら、私は歩みを進めた。


「だって暑いんだもん」という言い訳が小学生みたいで可愛い。


 満員に近い車内で、私はゆっくりと最寄り駅へ向かう列車に揺られていた。冷たい空気が天井から微かに降りてくるが、背の高い乗客たちに遮られ、私まで届くことはない。混み合う人々の間で、私は静かに立ち、ただ車窓の外に流れる夜景を見つめていた。

 日がすっかり沈んだこの時間、街の明かりが淡く浮かび上がっている。外の世界と切り離されたようなこの閉ざされた空間で、私はぼんやりと今日の出来事を思い返していた。

 やがて、武蔵小金井駅に到着するアナウンスが流れ、乗客たちが一斉に動き出し、私もその波に乗って降りる準備をする。足元に注意を払いながら、ゆっくりと出口へ向かい、ホームに降り立った。ホームには冷たい風が吹き込んでいて、ようやく少しだけ心地よい冷気が感じられる。

 柊と結月、そして私は改札の前で軽く別れを告げた。二人はそれぞれの帰り道へと消えていく。私は一人、改札を抜けると、朧月夜の中を歩き出す。

 冷えた空気が頬に触れ、思わず肩をすくめる。夜道は静かで、聞こえるのは自分の足音だけ。遠くに見える街灯の明かりが、淡い光で道を照らしていた。

 歩いていると、突然ポケットの中のスマートフォンが振動する。画面を取り出すと、そこには『今日もお疲れ様。ありがとね』という短いメッセージが表示されていた。送り主は蒼太だった。私は思わず顔が緩み、心が軽くなる。

 ほんの短い一言が、どうしてこんなに嬉しいのだろう。

 心の中に花が咲いたような、そんな温かい気持ちが広がっていく。

 そのままスキップしたくなるような気持ちを抑えながら、家に向かって歩き続けた。家に着くと、玄関で靴を脱ぎ、静かに部屋に戻る。

 ふと、ベッドに腰を下ろしながら、今日あったことを思い返していた。音楽室での練習、佐伯優花のこと、そして蒼太の優しい笑顔。いくつもの思い出が頭の中を駆け巡る。

 佐伯優花の態度には正直、腹が立った。蒼太に気後れせず、まっすぐに近づいていくその姿勢は、私には到底真似できないものだった。あの自信に満ちた態度で蒼太に接し、自然にヴァイオリンを手に取り、堂々と教わる姿。

 それを見て、私の中にある嫉妬心がどんどん膨れ上がっていったのだ。

 でも、その一方で、どこか彼女に対する尊敬の念も芽生えていた。彼女のように自分の気持ちを素直に表に出し、堂々と振る舞うことができれば、私はもっと蒼太に近づけるのだろうか。そんなことを考えると、胸の中に複雑な感情が渦巻いていく。

 ベッドに横たわり、私は天井を見上げる。蒼太のことを考えれば考えるほど、彼を取られたくないという気持ちが強くなっていく。けれど、その一方で、彼にこれ以上近づけない自分への焦りや不安も拭えなかった。自分には足りないものが多すぎる。彼のそばにいるためには、もっと強くならなくてはならないのだろうか。そう思うと、心の中に小さな悔しさが生まれる。

 蒼太は私にとって特別な存在だ。彼のヴァイオリンを弾く姿は、どんな演奏家よりも美しく、私はその姿に何度も心を奪われてきた。けれど、その特別な存在が他の誰かに奪われてしまうのではないかという恐れが、私の中で大きくなっていく。今日の佐伯とのやり取りが、その恐れをさらに強くした。

 もっと自分を信じてと、私は心の中でつぶやく。だけど、どうやってそれを実現すればいいのだろう。蒼太と佐伯の関係が気になってしまい、眠れそうにない夜が続く予感がする。

 少しばかりの焦りと不安を抱えながら、私は再びスマートフォンを手に取り、蒼太からのメッセージをもう一度読み返した。『今日もお疲れ様。ありがとね』という短い言葉が、今の私にとっては何よりの慰めだった。心の中の不安を少しだけ和らげるその言葉を胸に、私は静かに目を閉じる。

 今日の出来事がどう影響していくのかは、まだわからない。けれど、私はこれからも彼に近づきたいという思いを胸に、また明日を迎えるのだろう。そんな決意を胸に、眠りに落ちていく自分を感じながら、私は静かに息をついた。

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