もどかしさ
このオーケストラは、想像以上だった。演奏が始まってすぐに、私はその技術と表現力に圧倒された。高校生のオーケストラというから、もう少し稚拙なものを想像していたのだが、それは完全に裏切られた。
最初にフルートが奏でる澄んだ音を聴いた瞬間、私はこのオーケストラに入りたいと心から思った。ヴルタヴァの旋律が流れ始めると、弦楽器の豊かな音色が場を支配し、楽器同士の調和が一つの大きな流れとなって耳に届いた。
それぞれのパートが見事な技術を披露していたが、特に蒼太は目を引いた。彼の演奏は、他の部員と一線を画すような洗練されたもので、演奏中の彼の姿はまさに理想そのものだった。美しいフォームとともに流れる旋律に、自然と視線が彼に吸い寄せられる。そんな彼に憧れる気持ちは、ますます強くなった。
そして、瑠夏先輩もまた、指揮棒を持った瞬間から人が変わったように見えた。普段の柔らかな雰囲気とは異なり、指揮者としての強い意志と集中力が指揮棒の一振り一振りに表れていた。顧問の先生はどんな人だろうかと、まだ見ぬ指導者にも興味が湧いてきた。
演奏が終わると、静寂の中で結月がゆっくりと拍手を始めた。それに続いて、私も拍手を送る。オーケストラ全体が一つの生き物のように感じられ、心が満たされるようだった。
三人で音楽室を出ると、すでに外は真っ暗になっていた。四階の窓から見下ろす街は、どこか冷たく静かで、まばらな人影が遠くの歩道を行き交っている。夜の帳が降りる中、街灯の明かりがぼんやりと道を照らしているだけで、喧騒はどこか遠くに感じられた。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、柊と結月が先に歩いていく。遅れを取り戻そうと、急いで振り返ったその時、ポケットの中のスマホが鳴り響いた。
『ね、一緒に帰らない?』
蒼太からの連絡だった。スマホの画面を見た瞬間、胸がドキッと高鳴り、思わず顔が赤くなっていくのを感じた。嬉しさと少しの戸惑いが胸の内で交差する。短い返信を打ち込みながら、自然と頬が緩む。
だが、そのままでは柊と結月に怪しまれると思い、「忘れ物をしたから、先に帰っていて」と言い訳をする。二人には特に疑われることなく、先に帰ってもらえた。
蒼太が音楽室の外で待っていてという話だったが、さすがに目立ちすぎる。誰かに見られて噂になったらと思うと、少し怖くなる。そこで、私は音楽室の真下にある三階の美術室の前で待つことにした。この場所なら、あまり人も通らないはずだ。
足音が聞こえてきたのは、それから十分ほど経った頃だった。心臓が再び早鐘を打ち始める。ふと廊下に響く足音に耳を澄まし、ロッカーの影からそっと覗くと、そこに蒼太が立っていた。淡い蛍光灯の光が薄暗い廊下を照らしているが、それでも彼の整った顔立ちははっきりと見えた。夜の静けさの中で、蒼太の佇まいはまるで絵画のように美しかった。
私は、また見惚れてしまった。暗闇に浮かぶその美しい姿、そして少し緊張している自分。何かを言わなければと分かっていても、言葉が出てこないまま、時が止まったようにその場に立ち尽くしてしまった。
「何してんの? そこで」
蒼太の冷静な声が響き、私は慌てて我に返った。心臓が一瞬止まったかのような感覚。無意識にロッカーの影から飛び出してしまう。
「いや、他の人が来ないかどうか見てた」と、慌てて口にした言葉は、自分でも訳の分からない言い訳だった。
視線を合わせられず、なんとなく目を逸らしてしまう。
蒼太はそんな私に軽く笑って、「何それ。さ、行こ」と、さらりと言って歩き出す。その自然さに、私はまた少しだけ胸が高鳴った。
彼に導かれるように、私はその後ろを追いかける。まるでカップルのような状況だが、もちろんそうではない。いや、そうなりたいとは思っているけれど、私なんかが蒼太と釣り合うわけがない。そんなことは分かっている。
それでも、彼と一緒にいる瞬間が少しでも長く続けばいいと願わずにはいられない。心の中で勝手に膨らむ期待を、どうにか抑えようとするけれど、それはなかなか難しかった。
校舎の外に出ると、そこには誰もいないようだ。
夜の静けさが二人を包み込むように広がっている。歩きながら、ふと夜空を見上げると、少し霞んだ星がいくつか輝いているのが見えた。どこか幻想的で、二人きりの世界が広がっているように感じた。
「このまま誰もいなければいいのに・・・・・・」
そう思いながら、隣を歩く蒼太先輩の存在を意識してしまう。彼と過ごすこの静かな時間が、いつまでも続けばいいと願ってしまう自分がいる。
「あの演奏、すごかったね。」
私は心から感動して、自然と口を開いた。蒼太先輩の演奏を思い返し、その感動を伝えずにはいられなかった。彼の指が奏でるメロディーに心が震え、特にヴァイオリンの弓が弦に触れる瞬間の繊細さと力強さに目を奪われていた。
「そう?」
蒼太先輩は私の言葉に軽く笑って、「ありがとう。でも、まだまだだよ」と、控えめに答える。
そうは言うものの、その演奏は高校生のレベルをはるかに超えているではないか。
私は、蒼太先輩の演奏をいつも後ろから見ているけれど、その構えの美しさ、そして響き渡る音色の豊かさはまさに一流だと思う。彼の背中が語る音楽への情熱と、その揺るぎない技術に惹かれ続けている。
そんなことを考えながら、二人で駅へ向かう。もう外はすっかり暗くなり、冷たい風が吹いている。
だが、改札を抜けて電車に乗り込むと、満員に近い車内はまるで別世界だ。外のひんやりとした空気とは正反対に、ぎゅうぎゅうに押し込まれた乗客たちの体温で、むしろ蒸し暑さを感じるほどだった。私は少し窮屈に感じながらも、隣にいる蒼太の存在に気づかぬふりをしていた。肩がほんの少し触れるたびに、心臓が跳ねるのを感じるけれど、冷静を保とうと必死だ。
電車が揺れるたび、二人の距離が縮まっているような気がして、私の頬は自然と熱を帯びていく。どれほどの時間が経ったのだろうかはわからないが、最寄り駅に着くと、ようやく混雑から解放され、駅のホームに出た時、冷たい風が頬を優しく撫でた。蒼太がふと自動販売機の前で足を止めた。
「はい」と一言だけ言って、彼は缶ジュースを二つ買ってくれた。
「あ、ありがとう・・・・・・」と私は少し照れくさそうに礼を言いながら缶を受け取る。
キンと冷えた缶が手に触れた瞬間、その冷たさが心地よく感じられた。私たちは黙ったまま並んで駅を出る。夜の街は静かで、時折通り過ぎる車の音だけが響いている。
一緒に過ごすこの時間が、どこか特別なものに感じられて、私は胸の中に小さな喜びがじんわりと広がるのを感じた。隣にいる蒼太の存在が、いつも以上に大きく、そして温かく感じられる夜だった。
「疲れたでしょ?」
蒼太は屈託のない笑顔で答えてくる。その笑顔が、胸に響く。自然体で優しくて、どんなに近くにいても、心の距離が縮まらないように感じる。
きっと、私なんかには手が届かない存在なんだろうと、そんな思いが頭をかすめながらも、彼の笑顔を見ているだけで嬉しい気持ちがこみ上げてくる。
結局、いつも通り何も進展はないまま、駅で別れを告げた。彼の背中を見送りながら、少し切ない気持ちを抱えて家に帰る。
静かな夜が、今日もまた変わらずに過ぎていく。




