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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
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音楽のちから

 薄暗い空に、一番星が瞬き始めている。まだ柔らかな夕闇が、空全体を静かに包み込んでいた。音楽室に足を踏み入れると、先に到着していた瑠夏先輩と蒼太先輩が何かを話し合っている。二人の声は穏やかで、どこか親しげな空気が漂っていた。

 部屋の中では他の先輩たちもそれぞれの楽器を準備している。少し緊張感が漂う中、ふと聞こえてきたオーボエの音が、澄んだ「ラ」の音を響かせる。オーケストラ全体がその音に導かれ、調和しようとする瞬間の美しさが心に響く。

 音楽室に広がる音の調べが、静かに夜の始まりを告げているようだった。


「お、今日も来てくれたんだね。ありがとう」


 瑠夏先輩がこちらに気付いて、軽く笑顔を向けてくれた。私は柊と一緒に、木管や金管の組の方へ向かう。香恋は弦楽器の方へ行き、既に蒼太先輩と何か話しているようだった。弦楽器の奏でる柔らかな音が微かに聞こえてきて、部屋全体に和やかな雰囲気が広がる。

 私たちは簡単な練習から始めることにした。ドレミファソラシドと音階を、一音ずつ四分音符のテンポで進める。これほどの基本練習はすでに体に染みついていて、何も考えずに演奏できるほどだった。それでも、一応やっておくことにする。習慣的なこのリズムに身を委ねながら、心を音楽に集中させていく。

 ふと、隣を見ると、柊が先輩たちに囲まれている。彼らが彼の髪をまるで子犬の毛のようにくしゃくしゃと撫で回しているのが見えた。どこにいても誰からも愛されるその人柄が羨ましい。柊は少し照れくさそうに笑っているが、全然嫌がっていない様子だ。むしろ、いつも通りの明るい表情で、先輩たちの悪戯に応えている。

 その様子を見て、私も思わず笑みがこぼれた。柊は本当に人に好かれる性格だ。彼の周りには、いつも自然と笑顔が集まっている。彼と一緒にいるだけで、気持ちが軽くなるような気がする。

 音階練習を終えた頃、香恋が蒼太先輩との話を終えてこちらに戻ってきた。彼女の表情には、どこか安堵感が漂っていた。私たちは視線を交わし、軽く頷き合った。そして、再び練習に集中する。


「はーい。じゃあ、一曲やってみようか」


 瑠夏先輩が声を張り上げると、部屋の中にざわざわと広がっていた談笑が一瞬で静まった。彼のリーダーシップはいつも見事で、誰もが自然と従ってしまう。立花先輩が「オッケー!」と元気に返事をし、周りの空気をさらに引き締めた。


「じゃあ、今日は《ヴルタヴァ》を最初から通してやってみよう。一年生は最初は聴いててね。どんな流れか感じ取ってみて」


 私たち一年生はまだオーケストラの全体での演奏に加わるには早い時期だった。だから、こうして上級生たちの演奏を見て学ぶ時間が多い。瑠夏先輩の言葉を聞いて、私は楽譜を手に取り、椅子に腰を下ろした。


 ヴルタヴァ。私たちの次のコンサートで披露する予定の曲で、チェコの壮大なヴルタヴァ川の流れを表現したスメタナの名作だ。静かな泉から始まり、大河となって町や森を流れ、様々な情景を映し出すその音楽は、私たちの心にも深く響く。

 瑠夏先輩の指揮が軽やかに振られ、音楽が始まる。最初はフルートが静かに川の源を奏でる。それは本当に水が流れ出る様子を見ているようで、音楽というよりも、自然そのものがそこに存在しているような錯覚を覚える。

 続いて、他の楽器が一つずつ加わり、小さな流れが次第に大きくなり、川が豊かに流れ出す様子が描かれる。

 立花先輩のホルンがその川の雄大さをしっかりと支え、蒼太先輩が率いるヴァイオリンがその流れに彩りを加える。私たち一年生はただその音楽に耳を傾け、彼らの演奏に浸っていた。


 普通の高校生たちからなるオーケストラだから、そこまでの演奏は期待できないだろうと思っていた。しかし、瑠夏先輩が指揮棒を上げた瞬間、そんな私の予想は覆された。先輩たちの構えが、他の高校のオーケストラとはまるで違う。美しく、スタイリッシュというか、まさにプロのような集中力と緊張感が漂っているのだ。静かな音楽室に一瞬で張り詰めた空気が広がった。

 瑠夏先輩が指揮棒をゆっくりと振り始めると、フルートが静かにヴルタヴァの源流を描き出す。澄んだ音色がまるで小さな水滴が集まり、川の流れが始まる瞬間を感じさせる。その後ろで、弦楽器がピチカートを奏で、水滴が跳ねるような軽やかなリズムを加えていく。

 私は無意識のうちに、瑠夏先輩を見ていた。美しい横顔と、その見事な構えに、私はただ見惚れてしまう。

 蒼太先輩のヴァイオリンが奏でる音色も、同じように美しい。

 続いて、クラリネットがフルートと呼応するように入り、二つの旋律が絡み合いながら、静かに川が大きくなっていく様子を描いていく。やがて弦楽器全体が主題を奏で、川の流れが勢いを増し、壮大なスケールで広がっていく。私はその瞬間、驚きを隠せなかった。目の前で奏でられている音楽が、高校生たちによるものとは思えないほどに洗練されていたのだ。川の流れを音で描くという難しい曲にもかかわらず、彼らはそれを見事に表現していた。

 村人たちの婚礼のシーンに差し掛かると、音楽は一転して軽やかなリズムを刻み出す。まるでその場にいるかのように、私の心は温かな雰囲気に包まれた。そして、曲は終盤に差し掛かる。

 ヴルタヴァ川がプラハの街へと流れ込む場面では、音楽がさらに勢いを増し、壮観な景色が目に浮かぶようだった。激しい川の流れを表現する音たちが、やがてホ長調へと転調し、劇的なクライマックスへと突入する。

 蒼太先輩たちのヴァイオリンが奏でる神々しい旋律と、立花先輩たち金管楽器の勇ましい咆哮が重なり合う。打楽器が力強いリズムで全体を引き締め、弦楽器が上下に揺れて一気に終息する。最後の二つの壮大な和音が響き渡ると、部屋中に静寂が訪れた。全てが終わった瞬間、私は圧倒された気持ちを抑えきれなかった。


「すごい・・・・・・」


 思わず呟いた。まさか高校生のオーケストラでここまでの演奏が聴けるとは思わなかった。私は昔から様々なプロのオーケストラを聴いてきたが、この演奏はそれに引けを取らないほど素晴らしかった。気づけば、私の手は拍手を送っていた。周りの一年生も同じように感動し、拍手を送っていた。


「ありがとう。でもまだもう少し管のボリュームが欲しいな。多分顧問は、そう言うと思う」


 瑠夏先輩は演奏が終わると、すぐにそれぞれのパートにアドバイスを始めた。一つ一つの指摘が的確で、音楽への深い理解が感じられる。

 先輩はまるでプロの指揮者のように、各楽器の特性を見抜き、音のバランスや表現方法について的確な指示を与えている。聞けば、顧問の先生が不在の時は、瑠夏先輩が代わりに指揮を担当することになっているらしい。

 どうやら、指揮を直接習った経験があるのだろう。そんな瑠夏先輩の姿は、まさに信頼されるリーダーそのものだ。


「よし、一旦休憩しよう」


 瑠夏先輩が言い、各々休憩したり、スマートフォンを見たり、食堂に行ったりとバラバラに散った。


「今のすごかったね!」


 柊が喜んでいる。生であのレベルの演奏を聴けたらそうなるだろう。


「本当に! 私感動した」


 香恋が目を輝かせながら、喜びを込めて手を叩く。彼女の感想には、私も心から同意していた。先輩たちの演奏は圧巻で、音楽の深さを改めて感じさせられた。外は少しずつ暗くなり、音楽室の窓からは夕焼けの余韻がわずかに残っている。そんな美しい景色の中、今日の練習も終わり、私たちは帰る準備を始める。

 楽譜や楽器を片付ける音が心地よく響き、何とも言えない充実感が胸に広がっていた。


「君たち、入部するかどうか決めた? 一応、体験は明日までなんだよね」


 蒼太先輩が、しゃがんで私たちに目線を合わせながら優しく訊いてくる。彼の動きに合わせて、爽やかな香りがほんのり漂ってきた。背の高い先輩がこうして私たちに声をかける様子は、なんだかとても親しみやすく感じられ、自然と緊張が解けていく。


「あ! 僕は入部します!」


 柊が元気よく手を挙げ、笑顔で即答する。彼の明るい声が音楽室に響き渡り、香恋も負けじと同じく手を挙げた。


「私も入ります!」


 香恋の声に私もほっとした気持ちで微笑む。

 私も同じように「私も入ります!」と元気に答えると、蒼太先輩が優しい笑みを浮かべて「ありがとう」とお礼を言った。 

 その笑顔が、自然と私たちの心を温めた。三人とも、ワクワクした気持ちを胸に抱きながら音楽室を後にする。廊下に出ても、先輩たちの演奏がまだ耳に残っている。壮大で美しい音楽が、頭の中で何度も繰り返し反芻され、歩く足が軽く感じる。

 外はすっかり夕暮れに染まっていたが、その空気の中でも私たちの心はまるで明るい日差しのように輝いていた。先輩たちが奏でたヴルタヴァの旋律が、プラハの栄光やチェコの繁栄を描いた壮大な景色を思い出させる。

 それが、遠く離れた日本の私たちの心にも深く染み渡るのだから、音楽の力には驚かされるばかりだ。

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