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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
12/27

ふわふわした気持ち

 翌日は、抜けるような春の晴天だった。結月はいつも通り朝食を済ませ、カバンを肩にかけて家を出る。街にはウグイスの声が響き、静かに新しい一日の始まりを告げている。

 冬の名残はすっかり消え、柔らかな陽光が空気を包み込み、心地よい気温に変わってきた。

 駅に着くと、柊がすでに待っていた。彼はいつものように笑顔を浮かべ、軽く手を振っている。春の穏やかな日差しを浴び、彼の姿が少し輝いて見える。結月は、そんな彼の隣に立ち、二人で改札を通った。

 ホームで電車を待つ間、結月は春のフワフワとした空気に心地よさを感じながら、眠気が少しずつ増していくのを感じた。春のこの季節は、何もしていなくてもすぐに眠くなってしまう。なんだか頭の中がぼんやりとしている。

 電車がホームに滑り込み、扉が開く。二人で乗り込んで席に座ると、揺れに身を任せるようにして窓の外をぼんやりと眺めた。昨日の出来事が、夢の中のことのように感じられる。それらが次々に思い出され、結月は自然と微笑んでしまった。


「どうしたの?」と、柊が不思議そうに尋ねてくる。


「ううん、なんでもない」と答えるが、彼女の心は今も昨日の出来事にとらわれていた。

 今までの日常がどれほど自分に影響を与えているのか、まだ彼女自身よく分かっていない。ただ一つ、胸の奥にほんのりと温かい感覚が残っていることだけは確かだった。

 電車の揺れが心地よく、結月は少しずつ瞼が重くなっていくのを感じる。昨日の記憶に包まれながら、彼女は眠りの世界へとゆっくり引き込まれていった。


「眠いの?」と柊が首を傾げている。


「うん。なんか眠くならない?」


 柊は笑って「いや、まだまだ元気だよ」と否定する。どうやら、彼は眠気なんて感じていないらしい。元気いっぱいな男子は、睡魔にも負けないようだ。

 気がつくと、電車は学校の最寄駅に到着していた。ホームに降りると、多くの生徒が同じ方向に向かって歩いていく。結月もその流れに自然と溶け込む。いつもの景色、いつもの通学路。

 変わらない日常が、今日もまた動き出している。

 ふと、バス停で子供を連れた親子が楽しそうに会話しているのを見て、柊が小さな声で呟いた。


「子どもって可愛いね」


「ん? 子ども好き?」


「大好き! 可愛いから。将来は子ども欲しいな」


 将来的に子どもが欲しいかどうかについて考えると、今の若者にはその希望が少ないという話をよく耳にする。経済の低迷や不安定な仕事環境で、一人で生きていくのがやっとだという意見が多いのも事実だ。

 ニュースでも、そんな声が取り上げられることが増えている。しかし、それを見て結月は、確かにその意見には一理あると思いつつも、子どもがいる生活にはそれ以上の幸せがあるのではないかと、どうにか楽観的に考えようとしていた。

 柊のつぶやきを聞いて、ふと親子の光景に目を向けると、自分も将来、あんなふうに家族を持つことに憧れを感じた。けれど、今はまだ自分の将来がどうなるのか、具体的には何も想像できない。

 そんなことを考えながら、バスに揺られていたら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。バスが次の停留所に近づくと、柊に肩を軽く叩かれた。「次の停留所だよ」と教えてくれる声に目を覚まし、ハッとする。寝ていた自分に驚きつつ、この季節は特に眠気が強くなると改めて感じた。

 春の穏やかな陽気は、まるで眠気を誘う魔法のようだ。


「おはよ。行くよ」


 柊が小さく耳元で何かを囁くと、その瞬間、彼の顔にいつものニコッとした笑顔が広がった。結月はそれを見て、少し呆れたように微笑み、軽く頷いた。

 まるで何度も繰り返してきたお決まりのやり取りのようだが、その安心感が心地よい。隣にいる彼の笑顔が、日常の一部として自然に溶け込んでいた。

 教室に入ると、香恋がすでに登校していた。


「おはよう! 今日はあったかいね」


 柊と香恋が楽しそうに話しているのを背中越しに感じながら、私は机に向かっていた。香恋の席は私のすぐ後ろ。ウトウトとしながら、彼らの会話は耳に入ってくるが、内容までは聞き取れない。寝不足のせいか、少し頭がぼんやりとしていた。

 カバンの中から教科書を取り出し、机にしまっていく。現代文の教科書だけは机の上に残し、授業に備えて少し復習することにした。すでに授業についていけていない気がして、心の中で焦りがあった。

 開いた教科書には、ユリシーズの話が載っていた。ギリシア神話のオデュッセウスをモデルにした物語だと書いてあって、ふと昔読んだギリシア神話の漫画を思い出す。あの時は物語の中の神々や英雄たちが面白くて、夢中で読んだものだった。

 そんなことを思いながらページを進めていたが、やはり眠気が勝ってきて、頭が少し重くなる。教科書の文字がゆっくりと滲んでいき、瞼も重く感じ始めた。ウトウトと半分眠りかけていたその瞬間、急に耳に鋭い感覚が走った。


「っ!」と反射的に顔を上げると、横に立っていた柊が私の耳を軽く突いていたのだ。

 彼はニヤリと笑い、何か悪戯でも成功したような表情を浮かべている。すぐに私はその仕草に気づいて、小さくため息をついた。耳を突いていたようだ。

 彼のこうした無邪気な行動には、もう慣れっこだった。私が眠そうにしていると、こうやってちょっかいをかけてくることが何度もあった。最初の頃は少し驚いていたが、今ではそれすらも日常の一部として受け入れるようになっていた。柊が笑顔で立っている姿に、なんとなく安心感すら覚える。

 教科書を閉じて、少し頭を休ませるように深呼吸する。後ろではまだ香恋と話し続けている柊の声が、微かに聞こえていた。彼らの明るい声に包まれながら、私は次の授業に備えて、もう少しだけ気持ちを落ち着けることにした。

 しかし、また触ろうとしてくるのがわかった。


「やめてよー」


「えー。柔らかいのに」


 柊に耳を突かれて、少し嬉しいけれど、やっぱり恥ずかしい。私は教科書を閉じて、彼の方を見た。柊の目はクリクリしていて、小動物のように愛らしい表情をしている。そんな彼を見ていると、思わず笑みがこぼれてしまった。

 すると、香恋も話に加わって、三人で少し会話を続けた。教室には和やかな空気が漂い、穏やかなひとときが過ぎていく。

 しかし、その静けさはチャイムの音であっけなく破られた。現代文の授業。厳しい先生が担当することで知られていて、クラスでは「鬼」と呼ばれている。もうすでに、クラスでは、先生にあだ名をつけて呼び始めている。

 私も少し身構えながら、教科書を再び開く。授業が始まると、先生はいつものように高速で黒板に板書し始め、私たちはそれを追うのに必死だった。

 周りを見渡すと、男子たちは早くも睡魔に負けて、次々と眠りに落ちていた。先生に叩き起こされるたびに、彼らは一瞬だけ目を覚ますが、またすぐに眠りに戻る。そんな繰り返しが何度も続いていた。私はなんとか集中しようと頑張っていたが、先生の板書のスピードに追いつくことだけで精一杯だった。



 ようやく授業が終わり、今日の授業は全て終了した。ホッと胸を撫で下ろすと、隣の柊が大きな伸びをして机に倒れ込むように腕を組み、その上に顔をちょこんと乗せた。そして、寝ぼけ眼でこちらを見つめてくる。


「やっと終わった! つかれた!」


 彼の声にはどこか甘えたような響きがあって、その姿はどことなく無邪気だ。顔に寄り添う髪の毛が少し乱れているのに、それでも柊は爽やかに見える。まるで寝起きの子犬のようで、思わず笑みがこぼれる。

 私も疲れはあったけど、そんな彼の姿を見ていると、心がふっと軽くなった。少しばかりの疲労感が和らいだような気がする。結局、彼の無邪気さに癒されることが多いのだ、と改めて感じながら、私は彼に微笑み返した。


「本当に。今日も大変だった」


 軽く答えると、柊はニッコリと笑い返してきた。その笑顔は、まるで日常の疲れなんてどこかに飛んでいってしまったかのような、明るくて爽やかなものだった。


「ね、今日も行くよね?」


 部活に行くかどうか、柊に訊いてみた。


「え、行くよね?」


 柊は、目を大きくした。当然だろうという風にこちらを見つめている。


「うん。行くよ」


 柊が嬉しそうに笑いながら、今度は香恋に同じことを尋ねる。香恋も笑顔で答え、そのやりとりを見ていると自然と穏やかな気持ちになった。

 三人でそんな風に軽い冗談を交わしながら、いつものように音楽室へと向かう。学校の喧騒から少し離れた、静かなその場所は、私たちにとって特別な空間だ。楽器の音が響くあの部屋に入ると、今日もまた少しずつ、日常の中で大切な時間が流れていくのだろう。

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