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君に触れた音のない恋  作者: 倉津野陸斗
第1章 恋とはどんなものかしら
10/27

いたずらな偶然

 朝の出来事が、フィルムを早回しするかのように一瞬で頭に蘇ってきた。それと同時に、胸の鼓動がどんどん速くなっていく。

 私は気まずくなり、一点を見つめたまま動けなかった。すると、蒼太先輩がふっと笑った。


「どうしたの? 香恋」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中で血液が一気に駆け巡るのを感じた。耳の奥では、蒸気機関車の警笛のような音が響き渡っている。反射的に口を開くけれど、出てきたのは「え?」の一言だけ。まさか先輩が朝のことを覚えているなんて、私はすっかり忘れられていると思っていたのに。

 顔がどんどん熱くなり、赤く染まっていくのが自分でもわかった。


「えって、香恋でしょ? 覚えてるよ」と、蒼太先輩は意地悪そうな笑みを浮かべながら、私をじっと見つめている。私の胸の中で何かがぎゅっと締めつけられたように感じた。


「あのこと、覚えてたんですか?」と、驚きとともに口から言葉がこぼれた。信じられなかった。

 あの時のことが、今でも先輩の記憶に残っているなんて。

 私の脳裏に、あの日、あの瞬間が鮮やかに甦ってくる。あの夕暮れの景色、蒼太と過ごした一瞬の時間。そして、私が初めて人を好きだと思った日。心臓が早鐘のように鳴り響く。

 あの時の感情が溢れ出る水のように、心に広がっていった。


「覚えてるよ。初めてだったし」と、蒼太は笑いながら答える。その笑顔は昔と変わらず、私の心を揺さぶる。初めてだった、そう言われると、胸の中がざわざわと動き始めた。

 私にとっても、あの日は特別な日だった。蒼太にとっても同じだったのだろうか。


 あの頃の私は、今とは違い、人見知りせず誰にでも人懐っこく接していた。

 小学校も彼と同じで、しかも当時は近所に住んでいた。だから、毎朝学校から決められたルールに従って、近所の子どもたちと一緒に登校していたが、私は三年生までずっと彼と二人で学校に通っていた。最初はただの登校仲間だったけれど、毎朝顔を合わせるうちに自然と打ち解け、やがて一緒に遊ぶようになった。

 その頃は、彼とは本当に仲が良かった。学校が終わると一緒に遊びに行ったり、公園で時間を過ごしたり。

 毎日が楽しくて、同じクラスで三年連続一緒だったことも偶然だと思っていた。それが当たり前で、ずっと続くと信じていた。しかし、彼が四年生になるとき、突然転校することになった。

 彼が「引っ越すんだ」と告げた日は、驚きとともに寂しさが押し寄せたけれど、当時はまだ子どもだったせいか、その悲しみはすぐに忘れてしまった。

 しかし、引っ越しの当日、妙な感情に急に突き動かされ、どうしても彼の家に行かなければならないという衝動に駆られた。別れをちゃんと告げなければいけないような気がして、私は彼の家へと向かった。


『ずっと好きでした』


 なぜか、あの時はこんな言葉が口をついて出た。

「好き」という感情だったのか、あの得体の知れない感情は今でもよくわからない。若気の至りというのか、本当に「好き」という意味を理解していたかどうかさえ定かではないけれど、とにかく私はそう言っていたのだ。

 彼は一瞬戸惑った表情を見せたが、優しく微笑んで「ごめんね」とだけ答えた。奇妙なことに、その瞬間悲しみは感じなかった。むしろ、家に帰った後は自分の行動が恥ずかしくてたまらなかった。

 それが私に残った唯一の感情だった。

 翌日になると、もうその出来事は頭の中から薄れてしまい、別の年上の子と普通に登校していた。それが日常だった。そして、彼は私の記憶の中から遠のいていった。

 そんな彼が今、目の前にいる。今日の朝から彼と顔を合わせていることは分かっていたけれど、改めてその存在に気付くと、緊張と恥ずかしさがこみ上げてくる。いつの間に戻ってきたのだろうか。

 全く気づかず、今朝同じ駅で顔を合わせたことで初めて知ったのだ。


「どうしたの?」と彼が尋ねる。

 私が昔のことを思い出しているとは露知らず、いつものように軽く声をかけてくる。


「いや。久しぶりですね」と、無意識に口をついて出た言葉は、意外に冷静を装っていた。


「うん! 元気そうでよかった!」と彼が返す。

 彼の眩しい笑顔に、思わず視線をそらしてしまう。

 あの頃は、まだそんなこと考える余裕もなかったけれど、今は違う。彼は紛れもなく、誰もが振り向くようなイケメンになっていた。

 絵本から飛び出してきた王子様のような、その笑顔に胸が高鳴るのを抑えられない。


「ありがとうございます。先輩も」


 恥ずかしくなり、顔をヴァイオリンの方に向ける。


「先輩ってつけなくてもいいのに」


 つけなくてもいいと言われて、蒼太と呼び捨てにすれば、妙な噂が立ちそうだし、結月や柊にも何か言われそうだ。


「でも・・・・・・」


「じゃあ、二人でいる時だけ、先輩はやめてね」


 ニコッと笑って彼が立ち上がると、その長い脚がまるで天に昇るように感じられた。紺の制服に包まれた体が美しい。 

 元々小さかった彼の顔が、遠ざかるにつれてますます小さくなっていく。私はただ、その姿を見送ることしかできなかった。吸い込まれてしまいそうな不思議な感覚だった。


「じゃあ、また後で」と彼が軽く言い残し去っていく。


「また後で」の意味がよくわからなかったけれど、私はとりあえず「はい」とだけ答えた。

 そして、そそくさとヴァイオリンをしまい、何事もなかったかのように結月と柊のもとへ戻った。


「おまたせー」と少し白々しく声をかけたが、自分でも耳や頬が熱くなっているのを感じた。きっと赤くなっているに違いない。気づかれないように、何もなかったとばかりに、無理に笑ってごまかすしかなかった。


「どしたの?」


 結月が奇妙なものを見るような目で見つめてきた。 


「いや、ちょっと思い出し笑い」


「なにそれー」とだけ柊が言う。


 帰る準備を済ませ、三人で音楽室を後にした。音楽室では、立花先輩と瑠夏先輩が黙々と掃除をしている。蒼太の姿は見当たらない。おそらく顧問の先生に会いに職員室にでも行ったのだろう。

 校舎を出ると、冷たい風が容赦なく吹きつけた。


「うー。寒い」と、柊が高く可愛い声を上げて震え始めた。


「薄着してるからじゃん」と結月がすかさず咎める。


 そのやりとりがすっかり日常になった私は、二人を横目で見ながらクスッと笑うだけ。寒さが体にしみる中、二人のやり取りが少し和ませてくれる。


「なんかコンビニであったかいの買おうよ」と、震えながら柊が提案する。


 ポケットに手を突っ込み、できるだけ風に当たらないようにしている彼を見て、私も頷く。正直、私も寒さに耐えきれなくなっていた。

 駅前のコンビニに入ると、柊は真っ先に肉まんと温かいお茶を手に取った。私は温かいお茶だけを買うことにする。温かい飲み物が冷えた体を少しでも癒してくれると信じて。


「あったけえ」


 柊は買ったばかりの温かいお茶を、首に巻いた長くて青いマフラーに入れて暖を取っている。

 四月とはいえ、雨が降ると冬に戻ったかのような冷え込みだ。ましてや、太陽が沈むとその寒さは一層厳しくなる。

 私たちは駅のホームに上がり、東京行きの電車を待っていた。東京行きの電車には快速と特別快速があり、どちらに乗るか迷う。特別快速に乗れば早く家に着くが、私の最寄り駅は通過してしまうため、途中で快速に乗り換えなければならない。それは面倒くさい。どうしようかと迷っているうちに、電車の接近アナウンスが流れた。


『まもなく、二番線に快速、東京行きが参ります』


 私は二人が特別快速に乗るだろうと思っていた。結月も柊も、中野駅が最寄り駅で、特別快速が止まる駅だ。私だけが途中で乗り換える必要がある。


「お、やっときたね。早く乗りたい」と、柊が嬉しそうにこちらを振り返った。


「これ快速だよ?」と私は確認するように言った。


「ん? いいのいいの。一緒に帰ろ」と、柊が無邪気に微笑む。


「一人は寂しいでしょ? なんかちょっと様子がおかしいし」と、結月はさらに優しい言葉を笑いながらかけてくれ、その隣で結月も微笑みながら静かに頷いている。

 二人の優しさに包まれて、私は心が温かくなり、幸せを感じたと同時に、蒼太とのやりとりの後からの様子に勘づかれているのではないかとも思えた。


「ありがとう」


 駅に近づく電車が大きな警笛を鳴らし、その響きがファーンと周囲に広がる。スマートフォンを見ていた乗客たちが一斉に顔を上げる中、電車が通り過ぎた後、冷たい風がドッと押し寄せ、周囲の空気が一瞬で冷え込んだ。

 柊はその風に震えながら、身を縮めた。

 電車の扉が開き、降りてくる人々がエスカレーターに向かって流れるように進んでいく。私たちは降車客がいなくなったのを見計らって、電車に乗り込んだ。中には二人分の席が空いていた。


「二人で座りな」と柊が私と結月に言い、立って譲ってくれた。


「ありがとう」と礼を言うと、柊はグッドポーズをして応えてくる。

 その仕草が可愛らしく、思わず笑みがこぼれた。結月は柊の長いマフラーを軽く引っ張り、二人は楽しそうにやり取りをしている。

 横目で見る限り、まるでカップルのように見えた。本当に付き合ってないのかと少し疑わしくなるほど、二人はお似合いだ。

 私は音楽室での出来事を思い出しながら、彼がどうして私のことを覚えていたのか、なぜ気づいてくれたのかを考えていた。そんなことを考えているうちに、だんだんと頭がぼんやりとしてきた。

 外の冷たい空気と車内の暖かさのコントラストに、睡魔が襲ってきたのだ。

 ウトウトし始めたその瞬間、スマートフォンが振動して、パッと目が覚めた。通知を確認すると、柊と結月との三人のライングループに写真が送られてきていた。そこには、私と結月が隣同士で眠っている様子が写っていた。撮ったのが柊だとすぐにわかるアングルだ。立っている柊の方をちらりと見ると、彼はいたずらっぽく笑っていた。

 少し恥ずかしくなりながらも、最寄りの駅が近づいていることに気づいて、自分に起きるぞと言い聞かせる。電車が私の最寄駅に到着し、私は二人に別れを告げて家路に向かった。

 駅を出てしばらく歩きながら、彼もこの駅を利用しているのかとふと思い、少し不思議な気持ちになる。それと同時に、ほんの少し嬉しい気持ちも湧いてきた。

 春の美しい日々が始まる時期――そんな晴明という言葉を思い出し、深く考えずに足を進めた。

 途中のコンビニに立ち寄って、スイーツを買って帰ろうと考える。店内はサラリーマンや高校生で賑わっており、賑やかな中、さっさとレジを済ませて外に出た。


「寒い・・・・・・」とつぶやきながら歩き出そうとしたその瞬間、後ろから誰かに声をかけられた。


「あれ? まだ帰ってなかったんだ」


 振り向くとそこに、蒼太先輩がいた。

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