8 肉食系令嬢の誘惑
それからしばらく、アホ集団は鳴りを潜めて大人しくなり、学園は俄かに平和を取り戻したかのように見えた。どうやら王太子殿下の名前を出したのが、功を奏したらしい。さすがにあいつらも王太子に楯突くほどアホではなかったようだ。
あれ以降、俺は昼食時になるとアスタやレイラ嬢、リディア嬢と一緒に過ごすことが多くなった。三人の用心棒的な立ち位置ではあるものの、これまで目にすることのできなかった学園での可愛いアスタを存分に堪能できて、これ以上ない幸せを感じている。まさに役得。エリック殿下もたまには気の利くことをしてくれる。
ただ、とんだ誤算もあった。
「ガルヴィネ先生……!」
昼食を終えてアスタたちと別れ、職員室へ向かう途中。
最近嫌というほど聞かされている鼻にかかった甘ったるい声が、後ろから飛んでくる。
「あ?」
無視したいが、そうもいかない。仏頂面で振り向くと、鬱陶しいピンクブロンドが駆け寄ってくる。
「あの……! お話ししたいことがあって……!」
息を弾ませ、顔を紅潮させ、思わせぶりな上目遣いで近づいてくるラッセル男爵令嬢。
「……なんだよ?」
「先日のことで、殿下たちがガルヴィネ先生に謝りたいと言っているのです。よろしければ、一緒にお茶でもと」
「は?」
んなわけねーだろ、と毒づきたい気持ちを抑えて、俺は仏頂面のまま冷ややかな視線を向ける。
「謝る相手が違うだろ」
「え?」
「謝るなら、相手はリディア嬢だろ」
「あ、それはまあ、そうなんですけど、でもあのときガルヴィネ先生に言われた言葉でみんな反省して……」
「だったら自分で言いに来ればいいんじゃねーの? なんでお前が来るんだよ」
「私はその、みんなを代表して――」
「悪いけど、お前らにつきあってる暇なんかないから。勝手にやってくれ」
「え、ちょっと、ガルヴィネ先生……!」
引き留める声を払いのけて早足で歩き出すと、それでもなおラッセル男爵令嬢は「待って、先生!」「ガルヴィネ先生!」なんて叫びながら追いすがる。鬱陶しい。まじで煩わしい以外の何物でもない。
あれから、どういうわけだかラッセル男爵令嬢が俺目がけて突撃してくることが増えた。フレデリク殿下たちを従えることなく、一人で、しかもアスタたちがいない隙を狙ってくる。
面倒くさくて邪魔くさくてまったく相手にしていないのに、あの女はなぜか一向に諦める気配がない。追い払っても追い払ってもめげずに現れる。まじでしぶとい。ほんとに、なんなんだあれは。
「モニカ様がガルヴィネ先生を見初められて、次のターゲットにされたということでしょう?」
レイラ嬢がふふ、と上品に微笑みながらもズバッと切り込んでくる。
翌日の昼食時。あんな女のことなんか一秒も考えたくないから誰にも話してなかったというのに、つきまとわれてしつこく追いかけ回されていることはすでに学園中の噂になっているらしかった。
「モニカ様、最近はフレデリク殿下たちとも少し距離を置いているようですし」
リディア嬢もやれやれと言わんばかりの表情で付け加える。
「え、みんな知ってるの?」
「はい」
「アスタも知ってたのか?」
「知ってましたよ」
「じゃあ、なんで言わないんだよ」
「だって……」
「アスタリド様は、ガルヴィネ先生がモニカ様のことなど歯牙にもかけていないことがわかりすぎるほどわかっているからですわ」
「というか、ガルヴィネ先生を見ていれば誰だってわかることですけどね」
「そうです。ガルヴィネ先生、いつだってアスタリド様しか見ていないんですもの」
「ガルヴィネ先生がアスタリド様以外の令嬢に目を向けるなんて、考えられません」
令嬢二人が訳知り顔できゃーきゃー盛り上がる中、アスタは頬を染めながら無表情を貫いている。それを見て、俺の中には複雑な感情が湧き上がる。
真面目な顔をしながらアスタに向き直った俺は、そのコバルトブルーの瞳をじっと見据えた。
「アスタ」
「はい?」
「わかってると思うけど、俺にとってはアスタがすべてだから」
「え?」
「アスタにあの女のことを言わなかったのは、考えるのも鬱陶しいと思ってたからだから。やましい気持ちがあったわけじゃないから」
「それは、わかっています」
「わかってるとは思うけど、それでも言っておきたいんだよ。アスタが思ってる以上に、俺はアスタのことしか考えてない」
「……それも、知っています」
「でももしかして、あの女が俺を追いかけ回してるって聞いてちょっとは嫌な思いをしたんじゃないか? だとしたら、それは俺の不甲斐なさのせいだ。ごめん」
「……大丈夫です。嫌な思いは、正直言ってあまりしていないので」
「ほんとに?」
「はい。見て、知っているので」
痛いくらいの強い視線で、アスタが強調する。
俺に触れれば、見える『記憶の残滓』はいつだってアスタ自身かアスタにまつわるものらしい。たまに違うもの(例えば領地経営関係の書類とか、王宮で会ったうざいエリック殿下とか)が見えることもあるにはあるが、それでもほとんどはアスタに関する記憶の断片ばかりだと、いつも言われている。だからアスタは、知っているのだ。俺の頭の中を占めるのはいつもアスタだけで、それ以外のことなど俺にとっては記憶にも残らないほど些末なものだということを。
「……ほんと、いい加減勘弁してほしいんだけどな」
「そうですよね」
「心中お察ししますわ」
フレデリク殿下たちにちやほやされて勝手にはしゃいでいればいいものを、何が楽しくて俺なんかいちいち追いかけ回すのか。残念令嬢の考えることなどわかるはずもなく、俺は忌々しい思いで途方に暮れるしかなかった。
◇◆◇◆◇
その日の午後は、剣術の授業があった。
俺と初めて対峙したあと、剣術の授業の際には常にこそこそと目を合わせないよう逃げまくっていたあいつらだったが、最近はやたらとこちらを窺うような不遜な顔つきを見せている。
恐らく、ラッセル男爵令嬢の動きと関係があるのだろう。あの肉食系令嬢が俺を狙って追いかけ回しているのはもはや周知の事実だし、リディア嬢もラッセル男爵令嬢があいつらと少し距離を置いているようだと言っていたし。あいつらが俺に対してあからさまな敵意を抱き、不満を隠そうともしないことは当然の結果だった。
「今日は久しぶりに、模擬戦をやろうと思うんだが」
ハルワード先生のひと言で、校庭に集まった生徒たちからわーっと大きな歓声が上がる。模擬戦は、剣術の授業の中で時々行われる余興のようなものだ。殺傷能力の低い木剣を使うとはいえ、真剣勝負。模擬戦に出て戦う者は己の実力を出し合って真正面からぶつかり、出ない者は目の前の激戦に熱狂しながらもしのぎを削る両者を力の限り応援する。俺が学園にいた頃も、時々行われるこの模擬戦に熱くなったよなあなんて遠い過去をしみじみ思い出していると。
「先生! 俺にやらせてください!」
誰よりも先に手を挙げて立ち上がったのは、なんとあのギデオン・ウェイド侯爵令息だった。
予想外の展開に、ハルワード先生も思わず二度見する。
「え? ギデオン?」
「はい」
「お前、本気か?」
「はい、やらせてください!」
ふざけている様子はない。むしろ張り詰めた、力んだような表情でハルワード先生をじっと見つめている。
ハルワード先生の慌てぶりを見れば、こんなことは初めてなのだろうとだいたい察しがつく。だいぶ戸惑いながらも「わかった。いいだろう」と頷いた先生は、今度はほかの生徒たちを見回した。
「じゃあ、ギデオンの相手をしたい者、ギデオンと戦ってみたい者は――」
「先生!」
立ち上がったままのギデオンが、先生の声に被せるように大声を上げる。
「なんだ?」
「俺の相手は、ガルヴィネ先生にお願いしたいのですが……!」