ギデオンの憂鬱(後編)
「明日のお昼なんですけど、私来られないので」
昼食を食べ終えて解散する間際、リディアが令嬢たちや師匠に向かって突然申し訳なさそうな顔をする。
「そうなのか?」
「はい。ちょっと用事ができてしまって」
「用事ってなんだよ」
つい咎めるような口調になると、師匠の冷たい視線が飛んでくる。俺は咄嗟に気づかないふりをして、リディアを凝視した。
「大したことじゃないのよ」
リディアはその顔に、ぎこちない笑みを貼りつける。
「お昼じゃないと、時間が取れないって言われて……」
「誰に?」
「まあ、そうだよな」
穏やかながらも鋭い師匠の声は、俺の動きを簡単に封じてしまう。
「リディア嬢もいろいろ忙しいもんな」
「すみません」
「いやいや、ここで一緒に食べるのが義務ってわけじゃないんだし、謝ることじゃないよ」
年長者の余裕を漂わせて、師匠が思わせぶりな含み笑いをする。それから尖った視線を向けて、俺を牽制するのも忘れない。
師匠の言いたいことなんか、俺だってわかってる。リディアは明日、きっとあの令息に会いに行くのだ。それくらい見逃してやれと、好きにしてやれと、薄墨色の瞳が俺を静かに脅している。
翌日、リディアは宣言通りいつものカフェテリアに来なかった。
リディアがいないのに、俺は師匠と、師匠の婚約者と、その友だちと一緒にランチを取っている。なぜ自分がこのメンツと一緒にいるのか、意味がわからない。おまけに食事も味がしない。それ以前に喉を通らないし、食べる気にもならない。
リディアは今頃、あの令息に会っているんだろうか。あの中庭の奥で、恥じらう笑顔を見せて、頬を染めて、仲睦まじげに、あの令息と肩を寄せて――――
ガタンと椅子を倒して立ち上がると、師匠が片眉を上げて俺を見上げる。
「ギデオン」
「師匠、すみません……! 俺、どうしても――」
「リディア嬢なら、中庭だ」
「え?」
「行くならちゃんと筋を通せ。それと、もう逃げるな」
「は?」
「お前、それで大事なものを失いかけたことにいい加減気づけよ」
師匠は言いたいことを言い終えると、さっさと行けとばかりに右手をひらひらと払うような仕草をする。
「い、行ってきます!」
そのまま走り出す視界の隅に、アスタリド嬢の真顔とレイラ嬢の訳知り顔が見えた。
中庭の低木が連なる先には、この前と同じようにリディアが立っていた。楽しげに話す笑顔の前には、やっぱりあのときと同じ令息がいる。
「リディア!」
なりふり構わず大声を上げ、一直線に二人のもとへ駆け寄るとリディアは目を見開いて、それからさっと何かを背中に隠す。
「ギ、ギデオン、どうしたの?」
「用事は済んだのか?」
「え? ええ、まあ……」
リディアは目の前に立つ令息とちらちらと視線を交わしながら、気まずそうな顔をする。それがなんだか妙に腹立たしくて、俺はまたリディアの細い腕を掴んでいた。
「用事が済んだなら、俺も話があるから」
「え? な、何――?」
リディアの返事を待たずに、その腕を引いて歩き出す。訳もわからず置き去りにされた令息が「じゃ、じゃあ、リディア嬢、また……」と声をかけるのも忌々しい。
無言のままずんずん歩いて中庭を通り抜け、気づいたら今はほとんど使われていない旧校舎につながる廊下に立っていた。
「ギデオンってば!」
ぱしっと腕を振りほどかれて、俺は我に返る。
「どうしたのよ? 何かあったの?」
責めるような、探るような警戒心に満ちた目に、一瞬怯んでしまう。
でももう、なんだかんだ言い訳して、誤魔化してる場合じゃない。怖がって、はぐらかして、目を背け続けることがどんなに無様か、わかりきってるじゃないか。それで大事なものを見失うなんて、もううんざりだ。
俺は意を決して、戸惑うリディアをじっと見下ろした。
「…………モニカとのこと、ほんとにごめん」
「え……?」
「謝っても許されることじゃないのはわかってる。ほかの令嬢を好きになっただけじゃなくて、そいつの言うことを信じてリディアを責めたり怒鳴りつけたりして、ずっとずっと傷つけ続けてほんとにごめん。許してくれなんて言えた義理じゃないのは、自分でもわかってるつもりなんだ。だから黙って見ていようと思った。でもやっぱりできない、リディアをほかの男に盗られたくない……!」
「え?」
「勝手なこと言ってるのもわかってる。今更何をって思ってくれていい。でもこれから一生かけて、自分のしたことを償っていくからほかの男のとこなんか行くな。俺のそばにいてくれよ」
「……え?」
「リディアを失うなんてもう考えられないんだ。リディアがいなくなったら俺――」
「ちょ、ちょっとストップ!」
上気した顔で俺を見上げるリディアは、心なしか呼吸が乱れている。困惑を宿した目は俺を見据えて、微動だにしない。
「……ほ、ほかの男って何?」
「さっき、一緒にいただろう? あいつのことが好きなんじゃないのか?」
「は? なんで」
「前にもあいつと会ってただろ? なんかやけに楽しそうだし、恥ずかしそうにぽーっとして、俺にはあんな顔しないじゃないか」
「あー、それは……」
そわそわと視線を泳がせながら、リディアは逡巡する。そしておずおずと、手にしていた何かを差し出す。
「……これを、借りてただけよ」
それは真新しい、目の覚めるような紺碧色の装丁の本だった。
「え、本……?」
「彼、図書委員長なの。それで、いろいろ詳しいから本のことを教えてもらったり時々本も貸してくれたりして」
「お前、本なんか読むのか?」
言ってしまって、ずいぶん失礼なことを口走ったと狼狽える。でもリディアは気にする様子もなく、「そういう反応になるよね」と自嘲ぎみに笑う。
「レイラ様とアスタリド様に相談したんだよね。私ってほら、相手の気持ちとか考えずに思ったことぽんぽん言っちゃうし、言い方も雑だし、それで相手を傷つけちゃうこともしょっちゅうあるしさ。そういうのどうしたら直るのかって聞いたら、レイラ様が『本を読んでみてはどうかしら』って勧めてくれて」
「本?」
「そう。それでレイラ様が図書委員長のブロル様を紹介してくれたの。ブロル様にも相談したら、『こういう本はどうかな?』っておススメをいろいろ教えてくれるようになって、人の感情について考えるなら恋愛小説がいいんじゃないかって言われて、そしたら巷で流行ってる恋愛小説にハマっちゃって、ブロル様もその小説のファンだってなって、最新刊を手に入れたから貸してくれることになって、それでさっき」
リディアは気恥ずかしそうな顔をして、手にしていた本に視線を落とす。
「だったら、本を借りてすぐカフェテリアに戻ってくればいいだろ?」
「すぐに続きを読みたかったんだもの。待ちに待った最新刊なのよ? 続きが気になるじゃない」
「そんなに面白いのか? それ」
「うん、面白いよ。博識な侯爵令嬢が自分の持てる膨大な知識を生かして、巻き込まれた難事件を解決していく話なの」
「それのどこが恋愛小説なんだ?」
「婚約者がいるのよ。その人と一緒に世界を飛び回っていて、行く先々で騒動に巻き込まれて、最後には事件を解決するの。あ、五巻で結婚したからもう夫なんだけど」
「……それは、何巻なんだ?」
「七巻よ。結婚したあと二人とも王太子の側近として活躍してたんだけど、妊娠がわかったところで六巻が終わってるの。だから続きが気になって」
嬉々として話すリディアを前に、俺はちょっと拍子抜けしてしまう。
なんだ。じゃあ、あの令息と『密会』してたわけじゃないのか。本を借りてただけなのか。なんだ、そうか。そうなのか……。
急に安堵感がどっと押し寄せてきて大きなため息をつくと、リディアが伏し目がちになってつぶやくように話し出す。
「それに……。モニカ様とのことは、別に許すとか許さないとかそういう問題じゃないからさ」
「え?」
「ギデオンを最初に傷つけたのは、私だもの。ギデオンが見た目よりもずっと繊細で、あれこれ考えちゃう人だってこと、私は知ってた。それなのにあんな軽々しい態度で、ギデオンの気持ちをわかろうともしないで、ギデオンがどれだけ傷ついてたのかあとになって気づいて……。だからギデオンが自分の気持ちをちゃんと理解してくれるモニカ様を好きになるのは仕方がないと思ったし、二人が楽しそうにしてるのを見るのはつらかったけど、そうなったのも自分のせいだなって思ってたし」
「リディア……」
「でも私、もうギデオンを傷つけたくないからさ。つらい思いもなるべくしてほしくないし――」
「……ちょっと待て。お前、もしかして」
思わずリディアの肩に手をかける。突然、重大な可能性に思い至る。もしかして、もしかしてリディアは。
「俺のため、なのか……? 俺を傷つけたくないと思って、それでレイラ嬢たちに相談したり本を読み始めたり……」
「だって、どうしたらいいかわからなくて。どうしたらモニカ様みたいに、ギデオンの気持ちをわかってあげられるか――」
「違う! 違うんだ、リディア……!」
もう我慢なんかできるわけもなく、俺はリディアを力任せに抱きしめていた。初めて抱きしめた華奢な体は、それでも懐かしくて温かな匂いがする。
「モニカは俺の気持ちをわかってくれてたわけじゃない。モニカと一緒にいれば、嫌なことから目を背けていられただけだ。逃げてたんだ、俺……」
「ギデオン……」
「剣術がうまくなりたかった。強くなりたかったんだ。剣術が好きだったから……。でも全然ダメで、何をやっても上達しなくて、それで逃げた。自分に嘘ついて、誤魔化して、剣術なんかもうどうでもいいって思おうとしてたんだ。でもほんとは強くなりたいってずっと思ってたし、好きなものは好きだってちゃんと言える自分でいたい。俺は剣術が好きだし、リディアが好きだ」
「え……」
「だからこの前もさっきの令息と一緒にいるリディアを見て、嫉妬した。俺には見せたことない顔して笑ってるから、ムカついた。リディアがあの令息を好きなら俺だって見て見ぬふりをしてやんなきゃと思ったけど、やっぱり嫌なんだ。そんなのできない。わがままだってわかってるけど、でもリディアは、リディアだけは、誰にも渡したくない」
一気にそこまで言い切ったら、どうしてだかすべてが腑に落ちた。
好きなものを好きだと言えること。それはきっと単純で簡単なことなのに、いつのまにか心がひねくれて、そのせいで無駄に視野が歪んで偏って、物事が真っすぐに見れなくなっていた。でもあちこち遠回りしないで好きなものを好きだとすんなり認めれば、それだけで心はこんなにも満たされるのだ。
途端に呼吸が楽になった気がして、俺は大きく深呼吸する。
「ギデオン」
穏やかな声が、耳元をくすぐる。
幼馴染の瞳は、涙で潤んでいた。伸びてきた少しひんやりとした手が、俺の頬にそっと触れる。
「私はずっと、ギデオンが好きだったよ」
「え……」
「好きになってくれてありがとう。ギデオン」
ああ。もうダメだ。
俺は有無を言わさず、もう一度リディアを抱きしめる。リディアが俺の背中に両手を回して、あやすようにぽんぽんと優しく叩くからなんだか泣きそうになる。
「好きだ、リディア」
「……うん」
「ほんとに好きなんだ」
「うん」
「これからもずっとずっと、リディアだけが好きだ」
「うん……」
俺は何度も何度も何度もリディアが好きだと繰り返した。
好きなものを好きだと真っすぐに言える幸せを噛みしめながら。
それから俺たちは、これまでの時間を埋めるようにいつも一緒にいるようになった。
相変わらず軽口を叩き合う中でも、俺が唐突に「好きだよ、リディア」なんてささやくとリディアは顔を真っ赤にして「やめてよ……!」と恥じらいながら俯いてしまう。その仕草がたまらなく可愛くて、気がつくと「好きだよ」という言葉が口をついて出てしまう。
そんな俺は、今日も師匠の生暖かい視線にさらされている。
〈ギデオンが去ったあとのカフェテリアにて〉
「ラナルフ様。ギデオン様に本当のことを言わなかったのはわざとですか? リディア様は本を借りに行っただけなのに」
「まあな。あいつだってリディア嬢が今までどんな気持ちでいたか、思い知ればいいんだよ」
「そうですわね。今更リディア様がいいだなんて、どの面下げてと思いますもの」
「レイラ様、だいぶ容赦ないですね」
「そうかしら?」
「まあ、リディア嬢が図書委員長と一緒にいるところを見てかなり焦ってたみたいだからな。いい加減、腹をくくるだろうよ」
「ブロル様はがっかりするでしょうけれど」
「え、どういう意味ですか?」
「ブロル様はリディア様のことがお好きだから、あんなに親切にしていたのですよ?」
「そうなのですか? リディア様は全然気づいてないと思いますけど……」
「リディア嬢はそういうことに疎いからなー」
「ブロル様、かなりがんばっていらしたようですけどね。残念ながら、まったく気持ちは届いていなかったですわね」
「リディア嬢はギデオンのことしか見てないからな。ギデオンのほうがすぐに気づいて、牽制すんじゃねーか?」
図書委員長の下心に気づいたギデオンが、借りた本を返しに行くときは絶対にリディアについて行こうと心に決めるのはもう少し先の話。
本編・番外編ともに完結です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




