2 アスタリドの秘密
「は?」
言われた言葉の意味がわからず、俺はアスタをまじまじと見返すことしかできない。
「記憶の……残滓?」
「はい」
「何それ」
「人や物に残る、記憶の断片です。私が触れると、否応なしにそれらが見えてしまうのです」
「どういうこと?」
「例えば私が、誰かに触れたとします。そうすると、その人の中に残る強い感情を伴った記憶の幾つかが勝手に見えてしまうのです。九歳のとき高熱で生死の境を彷徨って、目が覚めて気づいたらそれが見えるようになっていたのです」
「そのこと、みんな知ってるの?」
「いえ、誰にも話してません」
「誰にも? 侯爵や夫人にも?」
「……話しても、わかってもらえないだろうと思って……」
目を伏せるアスタは、それでも懸命に話を続ける。
「突然そんなものが見えるようになって、はじめはすごく混乱しました。しかも、人の記憶に残る強い感情というのは、概して負の感情であることが多いのです。誰に触れてもつらいとか苦しいとか悲しいとかそんな記憶ばかりで、私はだんだん人に会うのが怖くなって部屋にこもるように……」
話し続けるアスタの目から、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちる。
無理もない。この世のものとは思えない何かが、急に見えるようになったのだから。九歳の子どもがその状況を理解するのに、どれほどの時間がかかったことだろう。人に触れるたび、接するたびに理由もわからず負の感情にさらされ続け、次第にアスタの表情が凍りついていったことは想像に難くなかった。
溢れる涙を拭おうともしないアスタに黙ってハンカチを差し出すと、「ありがとうございます」とやっぱり無機質な真顔で答える。
「でも少しずつそんな状態にも慣れてきて、家族やよく知る使用人に触れられるのは平気になってきました。そういう人たちの記憶は必ずしも負の感情を伴うものではなかったですし、私自身も少しずつこの力をコントロールできたらと思うようになって」
「それで、俺にも触れてみようと思ったの?」
「……はい」
「どうだった?」
今後の将来を左右する重要な試験の結果を待つような気持ちで尋ねると、さっきと同様、アスタの頬にほんのりと赤みが差す。
「ラナルフ様の『記憶の残滓』は……」
「うん」
「私ばかりでした」
「は?」
「話してるときの私とか、玄関で待っている私とか、紅茶を飲んでいる私とか、全部私ばかりで……」
「え」
言われた自分の顔にも、体中の血液がどんどん集まってくるのがわかる。
「あー、それってつまり、俺がアスタに対して強い感情を抱いてるってこと?」
「え? あ、そう、かも……」
「俺の頭の中にはいつもアスタがいて、常にアスタのことばっかり考えてるってことかな?」
「えと、あ、どう、なんでしょう……」
「まあ、否定はしないけど」
「……え?」
「考えてるよ、いつも、アスタのこと。学園にいても、今頃アスタは何してんのかなとか、今度行くときは王都で評判のスイーツを買っていこうとかさ。アスタは自分のこと無愛想で無表情だと思ってるだろうけど、だんだんアスタの気持ちが読み取れるようになってきたくらいには、アスタのこと考えてる」
「え」
「誰にも話してない自分の秘密を教えてくれたのもうれしいしさ」
「それは……。ラナルフ様なら、わかってくれるんじゃないかと思って……」
「アスタの苦労を全部わかることはできないだろうけど、知った以上はなんとかしたいし、アスタの支えになりたいって思うよ」
そう言うと、アスタはすぐさま前のめりになって、でもおずおずと遠慮がちに「実は、ラナルフ様に相談したいことがあるのです」なんて言い出す。
「どうした?」
「以前話した、二人の年若い侍女のことを覚えていますか?」
「あー、サラとリーンだっけ?」
「そうです。私はあの二人にこのまま専属侍女になってほしいのですが、来たばかりで私の侍女になることを快く思わない者がいるらしく、どうやらほかの使用人から嫌がらせを受けているようなのです」
「え」
もちろん、二人の侍女がそんなことをアスタに言うはずがない。でもアスタは二人に身の回りのことを手伝ってもらう際に偶然触れて、そして『見えて』しまったのである。
「それが誰なのかはわからないのですが、あからさまに悪口を言ったり、私がいないときには二人に雑用をさせて罵ったりしている様子が見えてしまって」
「それはダメだろ」
「はい。しかも、専属侍女の話が来たら断るようにと脅されているらしくて」
「は? ますますダメだろ」
「はい。なんとかしたいのですが、嫌がらせを受けていると知っているなんて言えなくて」
「まあ、それはそうだよな」
二人はアスタの秘密を知らない。触れたことで図らずも見えてしまった二人の『記憶の残滓』について問い質してみたところで、気味が悪いと思われるか「そんなことはありません」と否定されるのがオチだろう。脅されているのなら、なおさらである。
すがるような目で俺を見つめるアスタがなんだか無性に可愛くて、俺は思わず微笑んでしまう。
「いいよ、わかった。なんとかするよ」
「どうやってですか?」
「まあ、任せとけって。ちなみにアスタにとって、信用できる、触れても大丈夫な使用人って言ったら誰だ?」
「えと、サラとリーンと、侍女長のアイリスと、執事長のバートかな? あと料理長とか、厨房にいる料理人たちも大丈夫です」
「わかった」
それから俺は、日を空けずにミルヴォーレ侯爵に直接面会を申し込んだ。そんなことは初めてだったから侯爵はちょっと訝しんでいたが、俺はサラとリーンが嫌がらせを受けていると使用人たちが話していたのを耳にした、と伝えた。そしてアスタがその二人をとても信頼していること、ほかにも何人か信頼している使用人がいるからアスタの世話はできる限り彼らに任せてあげてほしいことも一緒に伝えた。
侯爵は、この時点で俺のことを相当信頼していたと言える。なんせ自室にこもりがちで人に会いたがらない大事な一人娘が、俺にだけは心を開いているのを目の当たりにしていたのだから。しかも、アスタはあの高熱以降、両親にさえも素直な気持ちを表現することがなかなかできずにいたらしい。だからアスタの本心を知ることができた侯爵は、これ以上ないほど喜んだ。「よく教えてくれた」なんて言われたら、俺だって鼻が高い。
まあ、結果として、サラとリーンは無事にアスタの専属侍女になったし、嫌がらせをしていた数人の侍女はすぐに解雇になった。侍女長と執事長(この二人は夫婦である)はこれまで同様、アスタに対して親身に寄り添い丁寧に接してくれたし、厨房の使用人たちもそうだった。
ちなみにアスタの頭をいきなり撫でたセルデン伯爵だが、実はかなり横暴な人間で、使用人や自分より身分の低い者に対しては傍若無人で加虐的ですらあるというのが触れられた瞬間に『見えて』しまったらしい。その強い悪意に衝撃を受けてアスタは倒れたわけだけど、何も知らずに業務提携することになっていたらとんでもないことになっていたに違いない。アスタのおかげでミルヴォーレ侯爵家は救われたと言っても、過言ではない。
こうしてアスタの秘密を共有して以降、俺はアスタに触れることを許された。
といっても、『記憶の残滓』が見えてしまう以上むやみやたらと触ることはせず、また不意打ちで触れることのないよう留意してきた。でもそっと触れるたびに真顔のアスタが照れくさそうに真っ赤になっているのを見ると、相変わらず俺の頭の中はアスタでいっぱいなんだろうと思う。まあ、否定はしないが。
そうこうしているうちに俺は学園を卒業し、辺境伯家には帰らずそのままミルヴォーレ侯爵家に身を寄せることになった。アスタが学園を卒業したらすぐに婿入りするんだし、それなら早めに侯爵家に入って領地経営や事業運営の実務的なノウハウを学んでもいいのでは、という話になったからだ。それに俺が辺境伯家に戻ってしまったら、すっかり俺に懐いて少しずつ元気を取り戻しつつあるアスタが寂しがるだろうという侯爵夫妻の判断もあった。まあ、俺としても、人知れず大きな苦労を抱えているアスタのそばにいてやりたいという思いがあったし、侯爵家に居候して間近で支えられるというのは願ったり叶ったりだった。
俺が一緒に暮らすようになってから、アスタの感情表現は乏しいながらも皆無ではなくなっていった。表情が緩むことはなくても、よく見れば、わかるのだ。アスタが何を考えているのか、うれしいのか悲しいのか、どうしてほしいのか、どうしたいのか。それは、アスタが真顔ではあってもひたすらあれこれ話し続けるからというのもある。表情には出ないが、感情がないわけではない。むしろ表に出せないだけで、アスタの頭の中はちっとも大人しくはないのだ。一人でいろいろ考えてはあーでもない、こーでもない、と俺に報告しに来るのが日常茶飯事になった。
そうして、七年。
気がつけば、俺の可愛いアスタも十七歳。学園の最終学年に在籍し、卒業したらすぐに結婚することになっている。
『記憶の残滓』が見えてしまうという特殊能力も、アスタのたゆまぬ努力でだいぶコントロールが可能になっている。人に対する恐怖心も和らいできて、日常生活を送るうえではほとんど支障がない。突然見知らぬ誰かに触れられても、もう倒れることはない。
さて、そんなアスタがこれからこの執務室にやってくる。
今日は一体、何を話しに来るのやら。
「ラナルフ様、よろしいですか?」




