ギデオンの憂鬱(前編)
俺は今、ひどく動揺している。
渡り廊下を歩く途中、中庭の低木が連なる先にふと婚約者の姿が見えた。その隣には、見知らぬ令息の姿も見える。何やら話し込んでいるようだが明らかに婚約者は頬を染めていて、時折はにかんだ笑顔を覗かせている。
なんだあれ。あんな顔、俺には見せたことないくせに。
もやっとして、イラっとして、思わず割って入りたくなって、なんとか踏みとどまって踵を返す。
リディアがあそこで何をしていたとしても、俺に文句を言う資格はない。
俺がこれまでしてきたことを考えれば――――
◇◆◇◆◇
つい数週間前まで、俺はリディアという婚約者がいながら別の令嬢にうつつを抜かし、それどころかリディアに難癖をつけては公衆の面前で責め立て、貶めるということを繰り返していた。
リディアとは幼馴染で、母親同士が親友ということもあり幼い頃に婚約が決まった。勝ち気でさばさばした性格のリディアは遊び相手としてはよかったが、成長するにつれてデリカシーのなさやちょっと無神経でガサツなところになんとなく不満を感じるようになっていく。
決定的だったのは、俺が剣術の素質のなさに悩み、鍛錬を重ねても上達する気配がなく行き詰まっていたときだ。思い余って打ち明けてしまったら、
『そんなの、鍛錬を続ければなんとかなるでしょ』
事もなげに、あっさりと言い切るリディアに、俺は底知れぬ怒りを感じた。俺だって王立騎士団を統括するウェイド侯爵家の人間、これまでずっと努力と修練を重ねている。それなのに、やってもやっても思うような成果が出ない。手応えを感じない。強くなれない限界さえ感じてしまって、だからこそ悩んでるというのにその深刻さをちっともわかろうとしないなんて。
それから俺は、婚約者でありながらだんだんリディアと距離を置くようになっていった。そして鍛錬もサボりがちになり、剣術そのものに向き合うことをも避けるようになった。跡を継がせたい父親はいつでも口うるさく、頭ごなしにプレッシャーをかけて威圧してくる。鬱陶しさから逃げるように学園生活を送っている中で、俺はとうとうモニカに出会った。
モニカは、俺たちが最終学年の年に編入してきた一つ年下の男爵令嬢だ。父親である男爵と平民の女性との間に生まれたモニカは幼い頃からずっと平民として暮らしていたようだが、母親が亡くなったことで男爵家に引き取られたらしい。
ピンクブロンドの髪に温かな焦げ茶色の瞳をしたモニカは愛らしく、その儚げな笑顔は恐ろしく庇護欲をかき立てた。おまけに「ギデオン様!」なんて可愛らしい声で呼ばれ、「またお会いしましたね!」なんて恥じらうように微笑まれたら誰だって悪い気はしない。俺はだんだん可愛らしいモニカを目で追うようになり、自分から声をかけるようになり、いつしかフレデリク殿下たちと共に、常にモニカのそばにいるようになっていた。
ある日、モニカと二人きりで話している中で剣術の素質のなさに悩んでいることをつい吐き出してしまうと、
「それは、つらいですよね。ギデオン様は、由緒あるウェイド侯爵家のご嫡男ですもの」
真剣なまなざしでじっと見つめられ、俺はようやく理解者を得られたのだと実感した。この上ない安堵感を覚えて、なんだか涙が出そうになった。
「ギデオン様がこんなに悩んでいるのに、つらく当たる侯爵様はひどすぎます」
「まわりも期待しすぎなんですよ。ギデオン様は充分がんばっているのに」
「ギデオン様のつらさをわかろうとしないリディア様もひどいです」
「こんなにがんばっても報われないなんて、ギデオン様がかわいそうすぎます。剣術なんて、もうどうでもいいじゃないですか」
そんな言葉たちに、何度救われただろう。モニカだけが、俺の気持ちを、俺の痛みをわかってくれる。モニカだけが、果てなき苦しみにもがく俺を救ってくれる。モニカの存在は俺の葛藤や苦悩を和らげた。と同時に、俺はその葛藤や苦悩から目を背けるようになっていった。そして虐げられていると訴えるモニカを庇い、リディアたちを糾弾し続けることで自分たちの正当性を確実なものにしようとした。
そんなときに登場したのが、師匠こと、ラナルフ・ガルヴィネ先生である。
剣術の特別講師として現れたガルヴィネ先生は、着任初日に言葉で俺たちをねじ伏せた。容赦なく。完膚なきまでに。
しかもその場にいたモニカは何を思ったのか俺たちを放ったらかしにして、ガルヴィネ先生に猛アタックを開始したのだ。これには俺たちも驚いたが、俺はフレデリク殿下たちよりももっと、激しい感情に駆られていた。それはモニカを盗られたという悔しさだけではない。ガルヴィネ辺境伯家といえば、我がウェイド侯爵家とは古くから因縁のある相手である。ガルヴィネのやつにあんなにも簡単にコケにされて、黙っていられるわけがなかった。
その怒りと苛立ちから模擬戦での対決を願い出て、見事にあっけなくやられたわけだが。
でもそのおかげで、俺はガルヴィネ先生を師匠と呼ぶことになり、時々稽古をつけてもらえるようになり、リディアとの関係も修復することになった。師匠の指導は手厳しいが的確で、少しずつだが以前とは違う手応えを感じられるようになっていく。うまくいかない、どうせダメだと立ち止まりそうになっても、
「いろいろ考えちゃうとこはギデオンの良さだと思うけどさ、今は考えるのはやめて、ガルヴィネ先生の言う通りにやってみようよ。それでダメなら先生にも相談して、またみんなで考えよう?」
リディアが時折稽古の様子を見に来ては、俺を励ましてくれるようになった。
あの日、俺の悩みを軽くあしらったことを涙ながらに謝ってくれたリディアを見て、俺は正直面食らった。でもリディアは、もう俺の知っているリディアではなかった。気安さはそのままに、無遠慮でガサツな物言いは鳴りを潜め、俺を気遣う優しさが垣間見える。昔のようにあれこれ言い合ったとしても最後には変わらない笑顔を見せて、リディアはこう言うのだ。
「大丈夫だよ、ギデオン。ギデオンは強くなれる。私も信じてるから、一緒にがんばろう?」
いつのまにか、自分の中でリディアの存在が大きくなっているのを感じつつあった矢先の、あの『密会』である。
リディアが俺以外の別の令息を好きになって、その相手と密会を重ねていたとしてもあれこれ言えるわけがない。ちょっと前までモニカ、モニカと騒ぎ立て、リディアを傷つけ続けた俺が文句を言える立場ではない。でもそれがわかっていても、やっぱりちょっと、いやだいぶもやっとしてしまう。
「師匠」
「あ?」
令嬢三人がトイレに立った隙を見て、俺は目の前で眠そうにあくびをする赤い髪の師匠を見上げた。
「あの」
「なんだよ?」
「実はさっき、リディアが知らない令息と楽しそうに話してるのを見たんですけど」
「へえー」
興味のなさそうな顔をして、師匠は俺を見返している。「それがなんだ?」とでも言いたげな顔である。
「二人とも、やけに楽しそうで」
「へえ」
「リディアもまんざらじゃなさそうっていうか、顔なんか赤くしてて」
「ほう」
「俺、あんな顔見たことないのに」
「……わかりやすいやきもちだな」
ちょっと呆気に取られたように、師匠のつぶやきがぼそりと落ちる。
「お前、ラッセル男爵令嬢のことはもういいのかよ」
「……あれは、なんていうか、好き、だったとは思うんですけど……。今思うと、剣術のことで悩んでるのを忘れさせてくれるから一緒にいたっていうか……。俺の気持ちをわかってくれるモニカがいじめられてるなら、俺も助けなきゃって思ってたっていうか……」
「へえ」
「でも今は、強くなれるならなりたいし、そのために努力したいし、やっぱり剣術が好きだからもうどうでもいいなんて思えないんです。モニカに言われた言葉より、一緒にがんばろうって言ってくれるリディアの言葉のほうがしっくりくるっていうか……」
「ふーん」
「でもリディアにもし好きな相手がいるなら、俺はどうしたらいいのかなって……。今までのこと考えたら文句なんて言える立場じゃないけど、でもリディアがほかの男と仲良くしてるの見たらなんかすごいイラっとするし、俺のことはもうどうでもいいのかよって――」
「お前さ」
師匠の微妙に面倒くさそうな声が、俺の言葉を遮った。
「お前のその問わず語りはどうでもいいけど、今までのことはちゃんとリディア嬢に謝ったのかよ?」
「え?」
「ラッセル男爵令嬢に入れ揚げて迷走して、リディア嬢を傷つけてきたことはちゃんと謝ったのか?」
「……あ、いや……」
「自分がやったこと謝ってもねえのに、リディア嬢にあーだこーだ言える立場じゃねーだろ。だいたいさ、あんな醜態をさらし続けていまだに婚約を解消されてないなんて、そっちのほうが奇跡だと思わねーか? リディア嬢の温情以外の何物でもないだろ。ありがたいと思えよ」
「……思ってますよ」
「だったらさ、リディア嬢に好きな相手がいたとしても、お前だって温かく見守ってやればいいだけの話なんじゃね? リディア嬢もそうしてくれたんだからさ」
「え」
確かにそうだ。その通りだ。師匠の言うことに異論を挟む余地はない。
それがわかっていても、やっぱりどうしても、納得のいかない自分がいる。
それから俺は、ひどく憂鬱な日々を過ごすことになった。
リディアとは毎日顔を合わせるし、特に変わった様子はない。むしろ、
「ギデオン、大丈夫? 最近疲れてるんじゃない?」
なんて気遣わしげに声をかけてくれる。優しさしか感じない。だから思い切って、「あの令息は誰なんだ?」とか「どういう関係なんだ?」なんて聞いてみようかと思うこともあったけど、致命的なことを言われるのが怖くてやっぱり聞けない。もし万が一、俺の聞きたくない答えが返ってきてしまったらどうしたらいいかわからない。いや、もしもそうなったら、俺がモニカの取り巻きと化していた頃のようにリディアにも好きなようにさせるべきだというのはわかってる。リディアだって見逃してくれたんだ、俺もそうしなきゃフェアじゃない。でも、そうしたくない自分が確実にいる。
つらい。なんか、とてつもなくつらい。
剣術が上達しなくて限界を感じたときにもつらいとは思ったけど、あれとは比較にならない。この身が焼かれるような焦燥感に、支配されてしまう。
リディアは、ずっとこんな思いを抱えていたんだろうか。俺はずっと、こんな思いをリディアに強いていたのだろうか。
だとしたら、俺は――――
「ギデオン? どうしたの?」
目の前のリディアが、心配そうな顔をしている。温かなアンバー色の瞳が揺らいでいる。
「お昼、あんまり食べてないじゃない。食欲ないの?」
「……ああ、まあ」
「根詰めすぎなんじゃない? 少しは休んで――」
「リディア」
気づいたら、リディアの華奢な腕を掴んでいた。細くてひんやりとしたその腕を掴んで、どこかに連れ去りたい衝動が頭を掠める。
――――何をしようとしてんだ、俺は。
慌ててぱっと離すと、リディアが俺の顔を覗き込む。
「……どうしたの?」
「あ、いや……」
「ギデオン、最近変だよ。何かあったの?」
「いや……」
「私にも言えないこと?」
リディアの少し引きつったような声に、俺は首を振る。
「別に何もないよ」
取り繕うような愛想笑いは、苦しい。